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映画ウォーキング 群を抜いておもしろい映画評です。名作と言われる映画もジェンダーの視点で切ると・・・
『かぐや姫の物語』(高畑勲監督 日本 2013年)

 疾走するかぐや姫のパワーがすごい。疾走するかぐや姫、これがこの映画の真骨頂のような気がする。生きたい、生きたい。必死に生きる女の子、女性の物語である。
 この時代の女性の生きかたが狭いものしか許されない、極めて限定的な生き方しか許されなかったと言う背景はもちろんある。
 しかし、程度の差はあれども、女の子、いや女の子だけでなく男の子も生き方に限界があり、限定があり、何らかの形で行き難いのではないだろうか。
 この映画は、限界があったり、生きにくかったとしても、短かったとしても、思い通りにならなかったとしても、限られた条件下だとしても、疾走しろ、生きろと励ましてくれる映画である。その意味では非常に、フェミニズム的な映画だと私は思った。
 まず、第一に、かぐや姫の幼少期の描かれ方が素晴らしい。地方で、自然の中で、生き生きと育っていく。この映画の、ある種の素晴らしさは、日本の春夏秋冬、四季折々の自然の描かれ方が素晴らしい。もし、鳥、花、木、葉っぱ一つ一つが素晴らしくて、田園風景の描かれ方が、非常に懐かしいものである。この映画の中で、何度でも出てくるわらべ歌
 「鳥 虫 けもの 草 木 花
  咲いて 実って 散ったとて
  生まれて 育って 死んだとて
  風が吹き 雨が 降り 水車まわり
  せんぐり いのちが よみがえる
  せんぐり いのちが よみがえる」
が大変生きる描写である。
 第二に、この地方で、子ども時代を生きるかぐや姫が天真爛漫、生き生きしている。私は大好きな「アルプスの少女ハイジ」を思い出した。アルプスの少女ハイジのアニメは、高畑監督が作ったものである。おじいさんと行って元気にブランコに乗るハイジは、大変軽快で、屈託がなく、天真爛漫である。このハイジと、かぐや姫の子ども時代はとてもよく似ている。
 そう考えてみれば、都に行ったかぐや姫は、まるでフランクフルトに行ったハイジのようである。フランクフルトには、クララがいるもののロッテンマイヤーさんがいて、行儀作法を厳しくしつけられる。このかぐや姫において、ロッテンマイヤーさんの役割を果たすのは相模である。眉毛を抜き、眉を書き、お歯黒をする。そして、書を書いたりしなければならない。ちなみに、捨丸は、ペーターである。
 「高貴なお姫様」の立ち振る舞いも含めマスターしなければならない。ロッテンマイヤーさんばりの相模の躾方にはこちらも参ってしまうくらいである。眉毛を抜くときに、かぐや姫は涙を流す。それは1つは、痛いからであり、もう一つはやはりそのような形で適用しなければならないことに対する心の痛みでは無いだろうか。なかなか立ち振る舞いを変えないかぐや姫は、ある意味、「虫めずる姫君」のような異端の存在である。
 アルプスの少女ハイジが、アルプスにいるときは、天真爛漫で生き生きしていたのに対し、フランクフルトに行くと、元気が無くなってしまい、本来の良さがなくなるように、かぐや姫も、都に行って、お姫様をやる中で、美しいけれども、凛としているけれども、本来の天真爛漫さを表に出せなくなってしまう。似ている。
 第三に、かぐや姫が、5人の地位の高い男性たちの求婚をぴしゃりとはねのけることである。もちろん条件を出して、そのことを叶えてくれた人と添い遂げると彼女は言う。しかしそれは、手に入れることが極めて困難なものたちである。
 かぐや姫は、誰のものにもなりたくないのである。5人の男性たちの描かれ方は、竹取物語でも、少しずつ差異がある。
 しかし、誰であれ、かぐや姫は結婚をしたくないのである。
 藤原不比等がモデルと言われる車持皇子の描かれ方もすごいものがある。竹取物語でも「心謀りある人」つまり、謀略を図る人と書かれている。職人さんに頼んで偽物の工芸品を作って、自分は蓬莱山に登って、蓬莱の玉の枝を持ち帰ったと言うのである。そこに職人さんたちが、金を払ってもらっていない、かぐや姫にお金を払ってくれと陳情をするのである。こんなとんでもない嘘を言える人という凄まじい描かれ方である。竹取物語を書いた人は、アンチ藤原であることがよくわかる。
 万葉集で柿本人麻呂は、ある1人の女性、采女の自殺あるいは処刑について歌を歌っている。地方の豪族の美しい娘が、帝の采女になるようにとされたものの他に好きな人ができ、自殺をするか、処刑をされるのである。その女性は、自らの人生を生きたかったのである。律令制度が完成する前は、日本は、かなりおおらかであったと言われている。しかし、 律令制度が完成する中で、女性の地位の後退が起きる。
 「かぐや姫と王権神話 竹取物語・天皇・火山神話」という本がある。また、「竹取物語と中将姫伝説」と言う本がある。
 「かぐや姫と王権神話」と言う本の帯には、「かぐや姫は記紀神話が葬り去った原始時代の火山の女神だった!」とある。
 かぐや姫の話は、母系制社会の敗北を描いている物語かもしれない。
 平安時代になると、紫式部や清少納言などが出現し、女流文学は花開いていく。才能のある女性たちは、活躍の舞台もあったのである。しかし、この竹取物語ができた当時は、母系制社会がある意味敗北し、女性の生き方が極めて限定された時代とも言えるのではないだろうか。
 かぐや姫は、類まれなる輝く女性として描かれている。声も姿も素晴らしく、音楽の才能もあり、また、当時の大実力者の男性たちをはねのける強い意志を持った女性として描かれている。
 でも、そのかぐや姫にして、誰かと結婚をすること、誰かの女性になる事しか、その当時は生きられなかったのである。
 竹取の翁、つまり、育ての父親である翁の描かれ方はどうだろうか。翁は、決して功名心のあるひどい男性では無い。心から、心からかぐや姫の幸せを願っている。しかし、その幸せは、大実力者の男性のものになることしか考えることができない。
 帝からの要請に対しても、翁は、有頂天になる。これ以上の幸せはないそう確信をしている。
 悪い人間ではない、娘の幸せを誰よりも願っていると本人は信じている。しかし、それは娘が、その女性が望んでいることでは絶対にないのである。
 これまで、どれだけ多くの女性たちが、「これがお前の幸せだ」と頑なに信じる親のもとで、どれだけ窮屈な思いをしてきただろうか。
 そのことを考えながら、この映画を見ていた。
 だから、このかぐや姫を気の毒に思い、また何とかならないかと思いながら映画を見ていた。
 しかし、このかぐや姫の素晴らしさは、選択肢が狭い世界に生きながら、その中で、自分の意思を貫き、嫌なものは嫌といい、必死で生きようとしていることである。その社会の価値観に合わせて、自分を生きようとはしない。
 だからこの映画は生きたいと思っているすべての女性たちへの応援歌である。
 第四に、月の世界には、争い事も嫉妬も悩みも苦しみも悪もないという描かれ方がされている。
 それに対して、この社会は、嘘と嫉妬と所有欲と醜さと悪とあらゆるものがある社会である。
 しかし、だからこそ、素晴らしい社会かもしれない。そして、この社会の自然の描かれ方の素晴らしさはどうだろうか。また、原作にはないけれども、媼の優しさなど心に染み入るものがある。

 この時代、いや、いつの時代でも人は、限界の中で、いろんな制約の中で生きざるを得ない面がある。
 しかし、それでも、それだからこそ、それを突破して、生きろとこの映画は言っている様な気がする。
 かぐや姫の物語を見ながら、苦しくなったことがある。スクリーンの中に飛び込んで、かぐや姫を何とか助けたいそんな気持ちにすらなった。
 しかし、全速力で疾走するかぐや姫の素晴らしさはどうだろうか。人には力がある。女性には力がある。もちろん、男性にも力がある。
 全速力で疾走するかぐや姫のように、私も全速力で疾走したい、そう思っている。
                    (福島みずほのHPより一部変更して転載)
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