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映画ウォーキング 群を抜いておもしろい映画評です。名作と言われる映画もジェンダーの視点で切ると・・・
 「ロード・オブ・ザ・リング」(監督・脚本・プロデューサー、ピーター・ジャクソン、2002年、アメリカ)

 イギリスの作家であるトールキン原作の指輪物語の映画化。1部だけ公開されていて、2003年2月末に2部が公開される。パートナーと子どもが絶対見るべきだというので、お正月にDVDで見た。
 人間の弱さと強さ、希望を描いている。
 闇の力を持つサウロンが、ある指輪のなかに闇の力を封じ込める。この指輪を持った人間は、世界を支配できる。サウロンが再びこの指輪を手にすれば、世界は闇に包まれてしまう。
 その指輪をたまたま手にしてしまったホビット族のフロドは仲間と一緒にこの指輪を無にするために、滅びの山の火口に指輪を投げ込む長い旅に行く。これしかこの指輪を無にできないのである。
 恐ろしいことに指輪は、ものすごい力を持っていて持ち主を豹変させてしまう。
 フロドがおかしくならないのは、彼に私利私欲がないからなのである。
 この指輪を巡って戦争が始まる。戦争準備を着々と進めるサウロン側のど迫力はすごい。イラク戦争を準備しているブッシュ陣営の迫力もこんなものであろうかと思える。
 サウロンの力もさることながら、魔法使いのサルタンの迫力もすごい。サルタンはもともとはフロドたちと一緒に旅をする賢者であるガンダルフのお師匠さんであり、いい人だったはずなのに。
 サルタンは、サウロンには勝たない、勝ちっこないとあきらめて、妥協してサウロンと手を結び、修正路線(?)を歩むのだ。なんかアメリカブッシュ大統領に屈するイギリス・ブレア首相みたい。
 サルタンは、子分(?)の哀しさで、「王よりも王党的」、ガンダルフ、フロド゙たちをたたきつぶそうとする。未来を予測して、勝ち組にしっかり乗ろうとするとするのである。
 サルタンとガンダルフの対決シーンは、すごい。2人とも魔法使いだもの。でも師匠のサルタンのほうか、魔法が強いんだよね。なんで「善」のほうが「悪」に屈した「悪」より弱いのよと思ってしまうが、これがなぜか現実か。社民党より、有事立法のなかみによっては有事立法に賛成しかねない民主党のほうが、ずっと大きく強いのよねということに似ているかといったら、いいすぎか。
 平和勢力は、弱く、軍事力、パワーで世界を支配というほうが、うんと勢いがあって、ど迫力なのはなぜかしらん。プンプン。
 トールキン博士は、第1次世界大戦に従軍し、親友や友人をなくしたと言われている。彼が、この物語に込めたかったものは少しはわかるような気がする。
 人間は、かくも長い歴史の間、歴史に学ばず、愚かなことをかくも繰り返している・・・・・・・・。
 ところで、指輪を手にする者が、豹変し、怪物のようになっていく様子は、この映画監督が、ホラー映画が得意なように、ホラーであり、しかもひどくリアルである。
 トールキン博士は、この物語を寓意、寓話としてとらえられることを望まなかったといわれているけれど、この指輪については、いろんな考え方ができる。
 権力ともいえるし、核兵器とも言えるし、大量破壊兵器とも言える。
 それを手にした者が、世界を支配できるという意味は、実に、意味深長である。
 多くの国は、隣国を含めた他国に張り合うために、なめられないように、力を誇示するために、核兵器を持とうとする。あたかもそれが、自国や自国民の利害を守る道でもあるかのように。
 権力がまさにそうであるように、それを手にすると、あるいは手にしようとすると、その人間を往々にして変えてしまう。
 茨木のり子さんの「汲むーY・Yー」という詩がある。
 「人に対しても世の中に対しても
  人を人とも思わなくなったとき
  堕落が始まるのね 墜ちていくのを
  隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました」
という部分がある。
 時々、「人を人とも思わなくなったとき 堕落が始まる」という言葉を反芻することがある。
 権力うずまくなかに生きる政治家は、人を人と思わず、人を権力のために利用するか、票田とのみ思ってしまいかねない。確かに墜ちていく人たち、あるいは、とてつもなく変わっていく人たち、自分を失っていく人たちを少なからず見たような気もする。
 指輪物語のなかで、妖精エルムは、死なないと言われている。純粋な人(妖精だから、厳密には、人ではないのだけれど)たちである。しかし、冥王サウロンにとらえられ、拷問を受けて、徹底的に苦しめられたエルムは、人相も化け物となり、邪悪のかたまりの戦士オークとなってしまう。
 指輪を持った者、指輪に引き寄せられた者が、豹変し、権力の亡者になってしまうことも、パワーのある者に屈服していく様も人間のたまらない弱さを描いている。
 しかし、同時に、希望をもってとにかく歩いていく人間の強さも描いている。
 なぜ多くの人が「強い者」に屈服していくのか。
 弱さもあるだろろうし、恐怖のためにいろんなものが見えなくなっているということもある。
 そして、あきらめているのである。どうせだめだと。負け戦はあまりにみじめでしたくないと。
 しかし、わたしは、賢者であるガンダルフのつぎのような言葉に励まされた。「賢者にも未来はわからない」という言葉である。
 実は、未来はわからないのである。もっと言うとわたしが、わたしたちが、みんなが未来をつくるのである。
 フロド゙は、なぜ自分が指輪を持たなくてはならないのかと思うこともある。しかし、それを他の人に委ねようとした瞬間、その人自身がおかしくなりかける。やはり、自分で持っていくしかないのだと確信を強めていく。
 指輪と権力ということを言ってきたが、今「そうかあ」とリアリズムをもって迫ってくる物語は、実は、シェークスピアの作品である。
 子どもの頃、シェークスピアを読んでそんなに面白いとは思わなかった。「オセロ」は奸臣イアーゴ゙に計られて最愛の妻を殺す夫の話であり、なぜ妻の言い分を聞かないのか不思議だった。
 「リア王」については、なぜリア王は、2人の姉の甘言にだまされ、末娘をうとんじるのかわからなかった。荒野を一人で、荒れ狂って放浪するなんて自業自得じゃん。
 「マクベス」にいたっては、なぜ他の人に下手人がわかってしまうような殺人をやるのかわからなかった。日本にも、明智光秀とかいるけれど、王殺しをし、とって替わってもそううまくいくとは思えない。
 なんかこういうふうに言うと、身も蓋もないけれど、こんな感じだった。
 しかし、自分が、政治の世界に身を置いて、実にリアルなのが、シェークスピアなのである。
 「リア王」は、強大な権力者の晩年の寂寥と孤独を描いていると思うし、「マクベス」のように、権力欲でおかしくなってしまう政治家なんて結構いる。
 何とかの乱なんて、よく起こるし、舞い上がってしまったり、自分を見失ってしまったり、あるいは国会議員の座にしがみつくためならなんでもするということだってあるだろう。
 ちょっと他の人の立場からすれば、「どうしちゃったんだろう」ということになるけれど。
 マクベスには、魔女が出てくる。マクベスに対して、「未来の王」と持ち上げるのだ。
 現代における魔女は、メディアとインターネットではないか。
 おだてられたり、あおられたりすると、自分を失いかねない影響力を持つものだけれど。
 シェークスピアは、権力の持つ怖さや魔力がわかっていたのではないか。
 そんなことを思っていたら、今度、高村薫さんが、日経新聞に「新リア王」という題の小説を書くと新聞に出ていた。どんな小説になるか本当に楽しみだ。
 いつも絶望(?)と失望と希望がわたしのなかで交錯する。
 こうあったらいいなという世界と現実の世界のギャップにめまいがする。
 権力を持っている側のど迫力に持っていない側はしてやられているようで、腹が立つことも多い。でも、ゾンビ゙に勝つためにこちらがゾンビ゙になっても仕方がない。
 確信と希望を持って、フロド゙たち(ビビン、サムなどみんなで力をあわせて励まし合っていくのである)のように一歩一歩、歩いていくしかないというところである。
 希望をうしないかけたら、この映画のことを思いだそうっと。

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