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映画ウォーキング 群を抜いておもしろい映画評です。名作と言われる映画もジェンダーの視点で切ると・・・
『墨攻』(ジェイコブ・チャン監督 中国・日本・香港・韓国 2006年)

 中国の紀元前300年、400年の戦国時代。諸子百家と呼ばれる人たちが活躍していた。特に、儒家と墨家の2大潮流があった。墨家が、非攻と兼愛を説いたことは広く知られている。非攻とは、侵略と併合は人類への犯罪ということであり、兼愛とは、自分を愛するように他人を愛せということである。
 墨家は、墨子が紀元前450年頃、魯に学団を創設をしたものから始まる。
 墨子は、大国が小国を攻める計画を聞くと、まず、その大国に乗り込んで、攻めることをやめるよう説得し、もしそれがうまくいかない場合は、今度は、小国に行き、徹底して、応戦し、城を守ることをする。これから墨守と言う言葉が生まれたと言われている。
 まあ、専守防衛ということであろうか。自分からは攻めないということである。

 戦国時代、趙の大軍10万人に攻められることになった梁の城に招かれた墨家の一人革離(アンディ・ラウ)は、知恵を使って、城を守り切る。

 敵兵は、多くの死傷者を出す。革離は、敵兵を撃退した後も勝利におぼれることはできない。
 「武器を捨てろ。そしたら命は助ける。」と革離が敵兵に言ったにもかかわらず、味方の兵たちは、敵兵を殺すことをやめなかったからだ。また、非攻と言っても戦国時代、一切人を殺さないわけではない。

 人望が革離に集まり、革離が王の地位をねらっているのではないかという疑心暗疑から、王たちは革離を城外に追放してしまう。
 撤退したと思えた超軍は実は撤退をしていなかった。さて、梁城はどうなるというところから、またドラマが始まる。

 非攻兼愛とはどこまで有効なのかということを考えながら映画を見ていた。
 もともとこの話は、日本の連載マンガを映画化したもの。革離自身は、架空の人物である。監督が、翻訳された日本のマンガを見て、墨子の考え方は、今の世界で非常に意味があり、示唆的ではないかという考え方から、映画化を思い立ったという。

 墨家は、もちろん積極的に攻撃はせず、汝の敵を愛せという考え方。攻められる側に立ち、必死で働きながら、報酬も見返りも贈り物ももらわない。質素ななりをし、人々のためにひたすら働く。墨子が日本のマンガになり、中国、香港、韓国、日本と言うアジアの共同の力で、実現していることも面白い。

 わたしにとっては、「ロード・オブ・ザ・リング」の戦闘場面と一緒で、戦闘場面は心が痛い。整然と行進し、闘い、傷付き撤退していく兵隊たちは、本当に痛ましい。

 戦国時代に、攻めていかない、汝の敵を愛せと説いた墨子の考え方は、秦の時代に完全に滅ぼされてしまう。しかし、ある意味脈々と続き、今の時代に、また不思議な形で蘇っている。

 この映画は、マンガとは随分違っているところもあり、なんといってもアンディー・ラウ演ずる革離は、かっこいい。しかし、最後の場面で、革離は、戦災孤児となった子どもたちと各国を放浪するという形で終わる。いつまでも闘うわけではなく、また、家族や親のいなくなった子どもたちと生きていくわけだ。
           (福島みずほのHPより一部変更して転載)
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