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映画ウォーキング 群を抜いておもしろい映画評です。名作と言われる映画もジェンダーの視点で切ると・・・
『ダ・ヴィンチ・コード』(ロン・ハワード監督 アメリカ 2006年)

 出演トム・ハンクス、オドレイ・トトゥ、ジャン・レノ
 キリスト教における女性の復権という画期的な分析視点を持つ映画。
 「マグダラのマリア」は、「娼婦」出身と言われていた。「この女を石もて打つ資格のある者は石で打て」とキリストが言ったという話を聞いたことがある。
 彼女は、何者だったのか。
 キリストが復活をしたとき、そばにいたのは「マグダラのマリア」である。彼女は、キリストととても親しかったことがわかる。
 彼女は、別に「娼婦」出身ではなく(そうであってもいいような気がするけれど)、教養のある女性であり、キリストの恋人であり、妻であったというのがこの原作の主張である。
 レオナルド・ダ・ヴィンチが書いた「最後の晩餐」が最近きれいに復元された。12使徒と言われてきたが、キリストの一番近くにいるのは、実は、マグダラのマリアではないかという解釈が生まれている。波打つ赤毛。明らかに女性であり、キリストの最も近くにいるという訳である。
 「ダ・ヴィンチ・コード」の本も映画も実は2000年のキリスト教の「常識」をくつがえる恐ろしい(?)、画期的な企てである。
 キリストは、神ではなく、人間ではなかったか。
 パウロなどキリストの使徒たちが女性差別的な面があり、キリストがなぜマリアを大事にするのか不満に思い、歴史的事実から抹殺したとも言われてきている。
 キリスト本人は、全く抑圧のかけらもなく女性差別的な所もなかった人ではなかったかと。
 R・マイスラーの『聖杯と剣』という本を読んだことがある。彼女は、フェミニストで、キリスト教登場のずーっと以前、先史のときからの事実を「読み返し」「分析し直していく」。
 それは、一言で言えば、「女神伝説の復権」である。女たちが力を持っていた頃、社会は、協調的で、「平和」であった。よろいかぶとに身を固め、高い城壁を巡らし、外敵から身を守り、戦争をするようになったとき、女たちの地位は低くなっているというのである。
 それをR・マイスラーは、大昔の土器、石器、祭りのやり方から分析していく。
 私は、本を読みながら、「元始、女性は太陽であった」という平塚らいてうさんの本のタイトルと主張を思い出した。
 マグダラのマリアは、実は、キリストの子どもを妊娠し、出産をしたとも言われている。しかも女の子である。マリアは、フランスに逃れ、フランスの王朝であるメロビング王朝は、その末えいであると言われている。テンプル騎士団やフランスのカタリ派などは、このことを信じる「異端」であり、「異端」の系譜も脈々と続いているのである。
 『聖杯と剣』では、剣は、男性をあらわし、聖杯は、女性をあらわす。『アーサー王物語』などの聖杯を求める話は、実は、隠されてきたキリスト教の真実を明らかにしようとする別の動きであるという訳である。
 こんなことを聞いたら、キリスト教の人はびっくりするだろう。しかし、「なるほどそうだったのか」と目からウロコが落ちるということもあるのではないか。
 有名な話だけれど、歴史historyは、his story(ヒズストーリー)である。人間の歴史=男性の歴史という訳である。これに対して、her story(ハーストーリー)、彼女たちの歴史も出していこうという動きも活発になった。
 『ダ・ヴィンチ・コード』は、隠されてきた事実を明らかにしようという試みである。
 レオナルド・ダ・ヴィンチもミケランジェロもゲイだったと言われているし、「モナリザ」は、両性具有的な魅力をたたえている。
 私にとっては、キリストは神だったと言われるより、非常に困難な時代のなかで、もがき苦しんだ優しい愛情深い抑圧のない差別意識のない人だったと言われる方が、うーんと身近で、親近感が湧き、「私もがんばろう」という気になる。
 『アメリ』の映画で、内気ではにかみ屋でポップな女の子をシュールに演じたオドレイ・トトゥが、理知的な女性を演じている。『ロード・オブ・ザ・リング』のガンダルフ役の彼も味のある演技を見せている。「女性の復権」と聞くと、元気が湧いてくる。そして、「娼婦」としておとしめられ切り捨てられてきたマリアのことを思う。
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