判例 女友だち 映画ウォーキング 情報BOX わがまま読書 リンク おたより欄
映画ウォーキング 群を抜いておもしろい映画評です。名作と言われる映画もジェンダーの視点で切ると・・・
『ゲド戦記』(宮崎吾朗監督 日本 2006年)

ル=グウィン原作、スタジオジブリ作品
 「ゲド戦記」はとても良かった。宮崎駿監督の大ファンで、「太陽の王子ホルスの大冒険」「未来少年コナン」「アルプスの少女ハイジ」「ルパン3世カリオストロの城」をはじめ全部見ている。
 最高峰は、「風の谷のナウシカ」。
 最近、「猫の恩返し」「ハウルの動く城」と続き、大丈夫かと実は心配をしていた。
 ジブリ復活で、嬉しい。

 主人公のアレンは、不安でしょうがなく、自分に自信がもてない。自信がないからこそ、自分を失って、切れたりする。原作の「ゲド戦記」にはないが、この映画は、王である父親殺しから始まる。
 魔法使いは、普通、鍛錬を積み、どんどん力をつけ、強くなっていくという話が多い。ゲームはそれで成り立っている。
しかし、「ゲド戦記」は違う。
 力をつければつけるほど、内面が弱くなるというか、影の部分ができてくる。その自分の影から、逃げまわっているのが、アレンなのだが、その影を受けいれたところからしか実は「自分」は、スタートしないということが良くわかる。
 だから、この「ゲド戦記」は、自分の内面を見つめるというファンタジーでは、珍しい話になっている。

 権力を持てば持つほど不安になったりする政治家の世界や核兵器を持ち、軍備拡張をすればするほど、不安になる政治の世界などをわたしは思いながら、感情移入して、映画を見てしまった。

 昔から、不老不死を求める話があり、死は、生き物にとって恐いことである。
魔法使いクモは死を免れようとあらゆる手段を尽くそうとする。これにひっかかるアレン。

 女の子テルーは、言う。
 「いのちを大切にしない奴なんて、大嫌いだ!」と。
 アレンは、死ぬことを恐れているけれども、実は、生きることを恐れているのだとも言う。生ききっていないと。

 この映画を見ながら、昔読んだボーボワールの小説『人はすべて死す』を思いだした。
 この小説は、実存主義を小説にしたもので、そのぶん真面目で、小説としては正直面白くなかったが、生きるとは何かが少しはわかったと思う。主人公は、死なないのである。死なないということは、愛するものの死に直面しどんなことがあっても、死にたいと思ってもどんなにしても死なないのである。絶対に死なないというのは、実は、すごく辛いのだ。

 わたしたち、生き物はいずれ死ぬ。
 だからこそ生きていることがとてつもなく貴重で、かけがえがないのだ。いずれ死ぬと言う不条理があるからこそ実存があるということだろうか。

 「いのちを大切にしない奴なんて、大嫌いだ!」というテルーの叫びは、いろいろな形で考えることができる。
 戦争を起こす政治家や国家のために命を投げ出せということを教えこみかねない「愛国心」教育のことなどを思った。
 命以上に大事なものはないはずなのに、命は粗末にされている。

 世界のなかで、戦争とテロがなくならない。世界のなかの戦争とテロに多くの人が心を痛めている。

 この映画を2006年8月13日に見た。

 日本の国会のなかで、憲法改正などが問題となっている。
 命は大事だ、国家のために命を投げ出すことはもうしない、戦争のために人を殺すことも殺されることも止めるのだということが、戦後の出発点であった。戦後そのものと言っていいだろう。

 しかし、例えば、安倍晋三さんは、『美しい国へ』のなかで次のように書いている。
 「国家のためにすすんで身を投じた人たちにたいし、尊崇の念をあらわしてきただろうか。
 たしかに自分のいのちは大切なものである。しかし、ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだということを考えたことがあるだろうか。」
 命は大事だが、その命を国家のために投げうつことが大事であると言っている。
 しかし、「国家のための死」を繰り返さないというのが、戦後の出発点であり、戦後そのものであったはずだ。
 戦後の否定、戦後の転換が行われようとしているのではないか。

 だからこそ、命以上に大事なものはないと声を大にしてあるいはささやいて言う必要がある。
 そして、この映画は、命を粗末に扱うな、生きろと、そして、命以上に大事なものがあるなんて言っちゃいけないということを訴えているように思う。

 テルーは、孤独な女の子である。顔にあざを持ち、いじめられて育った。
 テルーが映画のなかで歌う歌が素晴らしい。

 アレンが自分の弱い部分と向き合っていくことが素晴らしい。また、アレンには、ハイタカ(ゲド)がついて、見守っていてくれる。どんな人も自分を見守ってくれる人がいることで、少しずつ元気になっていくのではないか。
 少年院などで、このアニメを上映したらどうかしらんなどとわたしは思ってしまった。

 この映画を見ながら、「もののけ姫」を思い出していた。
 「もののけ姫」も傑作だが、わたしは、もののけ姫より、ある意味このゲド戦記のほうが好きである。
 「もののけ姫」のアシタカは、呪いが腕に込められたりして大変なのに、なにか内面が深まっていかない。
「赤ん坊のときに人間に捨てられたもののけ姫の悲しみがお前にわかるか。」とアニメのなかでたしなめられたりする。わかっていないのだ、きっと。
そして、アシタカはアニメの最後の方で、もののけ姫に言う。「また会おう」と。
わたしは、ガックリしてしまった。
もう会えたりできないのだ。森が破壊されたなかで、もののけ姫はこれからどうやって生きていくのだろう。育ての親も死んでしまってどうやって生きていけというのだろうか。

 ユーミンの歌のなかで、「また会おうと言った。もう会えないくせに」という歌詞があるが、そのことを思い出した。
もう会えないのに、おためごかしに、外交辞令で、「また,会おう」なんて言うな。アシタカはもののけ姫のことなんか何もわかっていないとわたしは、とんちんかんなことに、映画館で腹を立てたのだ。
 もののけ姫もテルーもものすごい悲しみを背負って、でもそのことを言えずに生きている。おためごかしも外交辞令もよしてよという感じである。できない、約束できないことを言うなと言いたい。
 アシタカがどういう男の子なのか、内面が良くわからい。それに比べれば、アレンの悩みも苦しみも自信のなさも良くわかる。
 存分に生きろ、生を生ききろとこの映画はストレートに訴えてくる。

 わたしは、「千と千尋の神隠し」が好きで、水のなかを鉄道が走ったり、不思議なお化けが出てきたり、お遊びの部分があって、楽しかった。
 「ゲド戦記」は、そんなお遊びの部分が少ないけれども、小細工を弄して何を言いたいのかわかんないというのより、何千倍もましである。

 かっこつけるより、ストレートで、せまってくる映画である。
Copyright(C) 2001 GAL. All Rights Reserved.
 
TOP BACK