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映画ウォーキング 群を抜いておもしろい映画評です。名作と言われる映画もジェンダーの視点で切ると・・・
『北の果ての小さな村で』(監督:サミュエル・コラルデ フランス 2018年)

映画「北の果ての小さな村」を見た。
グリーンランドのオーロラが見たくて映画を見に行った。

デンマークの28歳の青年アンダースがグリーンランドの人口80人の小さな村であるチニッキラークに教師としてやってくる。10人のクラス。しかし、子どもたちは騒いでいるし、収拾がつかない。村人ともうまくいかない。子どもたちに絵を描かせると10人のうち2人しか親と暮らしていない。
アンダースは同僚のグリーンランド人の女性に言う。「デンマークでは考えられない。」グリーンランド人の女性はアンダースにグリーンランド語で話す。「あなたはわたしたちを見下している。」ただグリーンランド語がわからないアンダースはそれもわからない。
デンマークから公務員として、教師として、赴任をして来たのに、うまくいかない、なんて住民なのだと不満を募らせるアンダース。
1週間ほど無断で学校を欠席したアサーの家をアンダースは訪問をする。アサーは8歳である。「勉強が遅れて困りますよ」アサーは祖父母と暮らしているが、祖母は言う。「学校に行くよりも大事なことがある。」アサーは猟師である祖父と一緒に狩猟の旅に出かけていたのである。アサーは猟師になることを夢見ている。余命を考え祖父はアサーに様々なことを教えている。
考え込むアンダース。猟師であるトビアスに話を聞く。トビアスは幼い頃、両親と5ヶ月の狩猟の旅に出たことがある。猟師になるには小さい頃からの経験が大事なのである。
トビアスを授業に呼ぶアンダース。シロクマを仕留めた時の話や狩猟の話をするトビアス。何と子どもたちは生き生きとし、熱心に授業を聞くではないか。質問は?と言うと子どもたちから手がたくさん挙がる。女の子が聞く。「女性も猟師になれますか?」トビアスは答える。「昔はたくさんいたけれど今は減ってしまっているね。」
徐々に変わるアンダース。グリーンランド語を同僚に教えてもらう。
アサーとアンダースはトビアスともう一人の猟師と4人で狩猟に出かける。

実はこの映画で最も感銘を受けた場面がある。
シロクマを追って過酷な旅を続ける。何とシロクマを至近距離で発見。すごい。構えて銃で撃とうとする猟師。その時もう一人の猟師が言う。「撃つな。子連れだ。」見ると巨大なシロクマの足元に赤ちゃんのように小さなシロクマ2頭が、というか2匹がキョトンとこちらを見ている。ニコニコして見ているアサー。
撃たないでみんなで帰るのである。
母シロクマを殺して連れて帰れば、子どもは生きていけないから死ぬ。彼らは何もしないで帰るのである。
正直びっくりした。
吹雪のなかを過酷な旅をしてきたのである。手ぶらで帰るの?

自然の中で生き、今の自分の利益ではなく、もっと大きなところで生きているのである。とにかく殺せばいいと乱獲をしてしまえば、絶滅してしまう。
殺さないで手ぶらで帰るなんて、なんか資本主義、利潤の原理と違うなあ。
「とにかく成果を出さなくっちゃ」とやってきたわたしは本当に驚き、本当に感心し、本当に嬉しかった。わたしは一番ここに感動をしたのである。

グリーンランドは日本の6倍の面積で、世界で最大の島。人口は5万7000人。東京ドームに入る人は5万5千人なので、人口密度が低い。
多くはモンゴロイド系なので、顔や体格はとても日本人に似ている。映画を見ながらとても親近感を感じた。

この映画を見て改めて言語と学校ということを考えた。

まず、言語について。
「強者」は「弱者」の言葉を学ばない。「弱者」は「強者」の言葉を学ぶ。
日本人の少なくない人々は、アメリカ人、イギリス人などと話をするとき「あまり英語を話すのが上手ではないので」と言ったり、感じたりすることがあるだろう。しかし、相手のアメリカ人やイギリス人などは「日本語を話すのが上手ではないので」と言ったり、思ったりすることは少ないのではないか。

映画の冒頭で、グリーンランドに教師として行こうと考えているアンダースは、応募し、面接を受ける。面接官の女性はアンダースに聞く。「グリーンランド語は話せますか?」「話せない」と答えるアンダース。面接官は言う。「わたしも数年いたけれどグリーンランド語が話せなくても何も困らなかったわ」

グリーンランドはかつてデンマークの植民地。今は自治領となっている。

ここではデンマークは「強者」でグリーンランドは「弱者」とも言える。デンマーク人はグリーンランド語を学ばず、話さず、まさにアンダースはデンマーク語で授業をし、デンマーク語を教えている。

女性は男性の言語を理解し、法律をはじめとして勉強する。男性は女性の言葉は話さない。

女性であることは、ある意味男言葉と女言葉を理解し話すバイリンガルであるということである。
「弱者」は「強者」を理解し、適応しなければならないが、「強者」は「弱者」に配慮し、理解することは迫られない。

だから、「弱者」は自分の奥底の声も大事にし、「強者」の言語もマスターするようにしないと、過剰適応しすぎて、元々の自分を失うことにもなりかねない。

次に、学校のことである。
学校は勉強し、成長することができるところである。
ただ、別の角度で見れば、支配者層のために社会に適応する人々を作ってしまうことにもなりかねない。
明治になって学校制度を作ったのは軍隊と工場労働者などを作るためと聞いたことがある。運動会の行進はまさに軍隊行進である。

学校の「同調圧力」は窮屈でもある。

「学校に来ないと勉強が遅れて将来困ります。」
とアンダースは言う。アサーの祖母は言う。「学校よりも大事なことがある。」

学校の両義性がこの映画ではクリアカットに描かれている。

この社会に、学校に適応することだけが本当に幸せなのか。幸せって何?

過酷かもしれないけれど雄大な自然を思い出しながら、あくせくしている自分の日常を考えている。何かほっとしている。クヨクヨしないで生きていこうっと。
              (福島みずほのHPより一部変更して転載)
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