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映画ウォーキング 群を抜いておもしろい映画評です。名作と言われる映画もジェンダーの視点で切ると・・・
「千と千尋の神隠し」(宮崎駿監督.2001年・日本)

*中年男から子どもへの応援歌あるいは説教*
 私は宮崎駿監督のマンガもアニメも映画も大好きである。天才だと思って、尊敬している。
 「千と千尋の神隠し」を見て、元気になった。私は、田舎で育ったので、映画そのものがなつかしいと思う場面もあった。どうしてこんなストーリーを思いついたんだろうと感心する。がんばろうと元気な豊かな気持ちになった。
 ところで、この映画のメッセージは、一つだけ。「働け。そうでないと豚になるぞ」というものである。中年の男性が、一〇歳の女の子を元気づけるため、あるいは、説教しているのである。
 現在は、パラサイトシングルという言葉もある通り、私の年上の友人・知り合いたちはプラプラしている成人の子どもたちで頭が痛い人たちが少なからずいる。芸能界・弁護士や政治家の世界・実業家の世界など共通点は親が裕福で、子どもに「働かなくちゃ、食べていけない」という切実感がうすいことである。今は別に親が特別に裕福でなくても何とか生きていけるという面もある。子どもたちに一つだけ言うとしたら「真面目に生きろ」ということであると、宮崎駿監督は思っているのだろう。
 この映画の中で千尋は、冒頭は、ブーたれて、ひ弱な女の子なのに、働かざるを得なくなって、たくましく変わっていく。
 この映画のポスターのコピーは「トンネルのむこうは不思議の町でした。」である。
 この映画が、今の私の気分にピッタシなのは、私自身が、橋を渡って不思議の町、国会にやってきたからではないか。不可解なことも不条理なことも山ほどおきる。退屈だけはしないけれど。この映画の千尋と一緒で「嫌だ」「帰りたい」「止めたい」とは、口が裂けても言えないのである。働くことを止めて豚になった人も、呆然となっている人も、死んでいるかのように見える人も結構見てきたような気がする。
 私はここに来たからには、けなげにがんばるぞと思っているので、この映画を見て、ジーン(?)となってしまった。
 というわけで、この映画が、いろんな子どもたち、いろんな人に「私はこの場でとことんがんばってみよう」という気をおこさせればそれはそれでいいと思うけれど。
 しかし、「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」と「天空の城ラピュタ」「風の谷のナウシカ」の間の段差は大きい。宮崎駿監督は世界を変えるためにとにかく絶望的でも闘い続けるという立場から、インボルブ、飲み込まれてそこでがんばるという立場に変わってしまったのではないか。私の友人は「千と千尋の神隠し」を宮崎駿監督の転向と呼んだ。
 千尋は、がんばって働くけれど、あの湯屋が変わるわけではない。
 あの湯屋は、会社ではないか。千尋は、新入りの社員である。会社にはいれば、意地悪な社員も叱りつける先輩も励ましてくれる先輩もいる。「ここには仕事がない」とはじめ千尋は追っぱらわれそうになる。「仕事をしないとここにはいられない」というところも不況で職がなかったり、リストラが横行している現状を思いださせる。
 湯婆婆は魔女だけれども湯屋というの中小企業の社長とも言える。あこぎなところもお金にうるさいところも自分の子どもだけを猫かわいがりするところも社長の戯画化である。
 どろどろして汚い「オクサレさま」も、お金は持っているが破壊的な食欲の「カオナシ」のようなお客もやってくる。でも「いらっしゃい」と言わなくてはいけない。
 会社は、不条理なところでもここでしか生きられないのだから(逃げるという道はもちろんあるけれど)。しかし「がんばって働けば何とかなる。変えられる」というふうには、今の会社はなっていない。もっと崩れている。会社だけでなくて社会全体が何ともならなくなっている。子どもたちに本当に必要なことは、ただがんばって働くことではなく、そんな社会のことを自分の頭でちゃんと考えることではないだろうか。
 宮崎駿監督は闘い続けてシステムを変えることに疲れたのかしらん。それともスタジオジブリが、不条理な中小企業みたいになっているのかしらんとバカなことを考えた。
 「もののけ姫」は自然と文明の対立を描いた映画だ。「自然保護」の形をとっているけれど宮崎監督は、心の中では、「実は、産業化も仕方ないなぁ。」と思って作ったのではないか。そうでなければ、あんなにアッサリ自然の神の首が切り落とされるわけがない。私は「おいおい、そんなに簡単に神が死なないでよ。」と思ったものだ。「もののけ姫」は、宮崎監督の「自然への別れ」の映画である。
 映画の最後で少年アシタカがもののけ姫であるサンに言う。「また会おう。」
 「ウソツケ」と私は突っ込みを入れたくなる。こんなおためごかしを言う男は嫌いだ。中途半端に優しい男は、本当は優しくないので、中途半端な気休めを言って相手を傷つけるのだ。フン。私なら平手打ちでもしたいところだ(暴力は良くないので本当に殴ったりはしないけれど。)
 神が死んで、自然は破壊され、サンの生きていく場などもうないのだ。あれからサンはどこでどうやって生きていくのだろうか。生きていくところなど本当はないのに。「また会う」なんてできないのだ。
 アシタカは、厳しくてもサンに「さよなら」と言うべきなのだ。できっこないことなど言ってはダメだ。もう生きていく場のないサンに「また会おう」なんてどの面さげて言うのだ。あまりに残酷なので、ノーテン気で中途半端に優しいアシタカが一挙に嫌いになった。結局、アシタカはサンの苦しみも恨みも誇りもわかってないのではないか。
 「もののけ姫」の映画の最後に流れる米良さんの歌うテーマ曲は、滅びゆく自然への鎮魂歌だ。讃美歌のようなかん高い声は、自然への葬送曲にも思える。
 なんかこのあたりから、宮崎監督には、あきらめムードが出てきたのではないだろうか。
 自然はなつかしむもの。ああ、なつかしいなんてなったらヤバイではないか。
 「風の谷のナウシカ」が、地球を、世界を救うために絶望的に闘い続けることと違ってきている。
 考えようによったら、ナウシカや「天空の城ラピュタ」のシータのようにお姫様でなくても、フツーの子でもがんばれというメッセージになってきたのかなあとも思うが、「未来少年コナン」のコナンは、全くフツーの悪ガキ(?)のちょっとオッチョコチョイの男の子なのにインダストリア帝国と闘うではないか。
 フツーの子も何とか闘い続けろというメッセージを次は送って欲しい。
 あんなに千尋はがんばるのに、おとうさんとおかあさんは豚から人間に戻るのに、湯屋は何もなかったかのように「不思議な世界」そのものに戻るだけだもの。湯屋自身は変わらない。不条理な会社はそのままだ。
 子どもへの説教ではない映画を次は見たい。
 ただ、救いは、宮崎駿監督は、この映画のメッセージも限界もすべてわかった上で、この映画を作っていることだろう。
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