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映画ウォーキング 群を抜いておもしろい映画評です。名作と言われる映画もジェンダーの視点で切ると・・・
『王と鳥』(ポール・グリモー監督 フランス 1980年)

 最近見た映画で感嘆した映画。
 素晴らしいアニメーション。このアニメーションに触発されたと宮崎駿監督は言っている。宮崎駿監督の大ファンであるわたしはこの「王と鳥」のアニメーションの宮崎監督への影響を見ることができて面白かった。

 政治とは何か、権力とは何かをシュールな映画の展開の中で考えた。
 このアニメは、1947年、ドイツの占領から解放されて3年、フランス初の長編アニメ映画として制作が開始された。ポール・グリモーと国民的詩人であり脚本家であるジャク・プレヴェール制作。

 そびえたつタキカルディ王国の高層宮殿に住み、王国を支配しているのは、孤独な王である。意に沿わない人間は生かしておかないという冷酷なしかも滑稽な王。1947年フランスの制作なので、ついついわたしはヒトラーを想起してしまう。

 王宮の最上階に住む王が愛するのは、絵のなかの羊飼いの少女である。
 ある夜、王が寝静まったとき、その羊飼いの少女と隣りの絵の煙突掃除の少年が絵から踊り出す。2人は密かに愛しあっていたのだ。怒り出す絵のなかの王。逃げ出そうとする2人を追いかけようとする。その騒動のなかで、本物の王が目をさます。
 度肝を抜かれる本物の王。
 ここで本物の王は、絵の肖像画から飛びだしてきていたにせもののの王によって、自分の愛用する落とし穴に落とされてしまう。
 なんとここで、王はすりかわってしまうのだ。ただあれまあ不思議、誰も気がつかないし、そのままにせものが王をやれるのだ。
 つまり、王という身分、権力者の地位は、その人の個性によるというよりも、権力のポジションによるということをあらわしているようにも思う。たとえば、もし仮にヒトラーが途中で別の人に入れ替わったとしても、ドイツ帝国の暴虐が続いたであろうように。システムの問題であるとアニメは語っているように思う。
 また、本人が、実は自分のイメージにがんじがらめになり、本人そのものではなく、イメージと役割が大事であるというように、逆転してしまうことも描いているように思う。本人ではなく、イメージや役割が大きな役割を果たし、本人ですら、もうはるか手の届かないところへ行ってしまうのだ。

 権力の恐ろしさや実は空虚さ、主客が転倒して、本人ですら復讐されるということをあらわしているようにも思う。

 逃げ出す絵のなかの若い2人。
 鳥に助けられ、王宮の階段をかけおりていく。
 裸足で走っていく羊飼いの少女。この直後に見た「ライムライト」の可憐で元気なヒロインが、いつも裸足で道路をかけていたことなどもイメージとしてつながっていった。

 2人が逃げて駆け降りた先は、一切太陽があたらない貧しい地下社会だった。
 わたしはここで、宮崎監督の「未来少年コナン」の地下の社会を思い出した。地下に住む住人たちは、隔絶され、太陽も見ず、下層社会の人間として、暴力装置によって、徹底的に弾圧されている。ユダヤ人が押しこめられていたゲットーを思い出させる。そして、そのまた下には、ライオンに食い散らかされる最下層社会がある。そこは、まさにアウシュビッツである。「労働は人を自由にする。」というスローガンが掲げられている。これこそまさに、わたしがアウシュビッツで見たスローガンである。
「労働は人を自由にする。」という全くの皮肉のスローガン。

「権力は腐敗する。弱さもまた腐敗する。」という有名な言葉があるが、まさに、暴力によって、最下層に押しこめられている人々は、社会がどうなっているのか、空はどういうものなのか、太陽や月や鳥はどういうものなのか全くわからなくなってしまっている。どうやって抵抗していいのかもわからないのである。

 逃げた2人への大追跡が迫ってくる。
「国民に告ぐ」という国中に響く大音響のアナウス。ゲシュタポを思い起こさせる監視と秘密警察。
 羊飼いの少女は捕えられ、王の妃にされそうになる。
 このあたりは、わたしは、「ルパン3世、カリオストロの城」の婚礼の場面を思い出した。

 やっぱり捕えられ、ライオンの餌にされそうになる煙突掃除の少年。
 そこでなんといつも2人を助けてくれていた鳥さんが、雄弁を振るう。
 この雄弁は、「ブルータスは、高潔な人であった。」と誉め殺しを行い、逆説的にブルータスへの悪意をうまく駆り立てたシェークスピアの「ジュリアス・シーザー」のなかでのアントニーの名演説のように、人を扇動していく実は、恐ろしい演説をして、敵であるライオンたちを操っていく。
 わたしは、このアニメのなかで、実はここに度肝を抜かれた。
 高潔なる正義は、ずるをしないなんていう約束事があって、「えっ、こんなふうに扇動していいの?」という感じだったのである。
 映画だって、アニメだって、「正義」の側は、ひどいずるをしないというのが、お約束事ではないですか。それをあっさりと破り、鳥は、ひどいデマゴギーを行う。まさにすごい衆愚政治。
 小泉前首相が行った郵政民営化のときの「ガリレオ・ガリレイ演説」みたい。
 びっくりした。
 こんなことってあるの?
 この鳥の演説によって、ライオンたちは、なんと体制に対し、反旗を翻し、動き出す。蜂起し、行進するライオンたちを見て、鳥を見たことのない住民たちは、「鳥たち万歳」と言う。ムムムムムム、「無知」とは恐ろしきことかな。しかし、窓から見ていた年配の女性がつぶやくシーンもしっかりとある。「鳥ってものがこんなものだとは思ってもいなかったよ」。しっかり見抜いている人もいるのだ。
 勧善懲悪や、正しいものはずるしないということでは全くなく、抜け目なく立ちまわり、状況を大展開していく鳥。
「清く、正しく、美しく」、ずるせず、まっすぐであるばかりだけでは、政治はだめなのだと言っているようにも思える。
 また、「七人の侍」ではないけれど、どぶろくを作り、米を隠し持っている農民のしたたかさを学べと言われているような。

 王様は、まさに間抜け面をしている。
 アンポンタンで孤独であり、誰からも愛されておらず、滑稽ですらある。しかも偽者である。
 にもかかわらず、暴政を敷けるという権力のすごさと不思議さと。いったん最高権力となってしまうとそれがいかに愚かでとんでもないことでも、みんなは、反抗できなくなるということも寓話として語っている。

 それをひっくり返す知恵としたたかさと支えあう愛とを語っている。

 このアニメを見て、一番思い出したのは、チャプリンの「モダンタイムズ」である。
 ヒトラー全盛期にこの映画を作ったチャプリンはすごいし、また、この映画に込めた思いは普遍的だ。

 権力のすごさと残酷さと滑稽さとそれによってひどい目にあう人々と人に対する愛とを描いている。

「王と鳥」を見ながら、わたしが考えていたのは、今の日本の政治である。
 2世、3世が幅をきかす国会。総理大臣は、2代続けて3世議員。
 おまけに、戦前、戦中の政治を否定しない言動を繰り返す。
 最高権力者の権力と人々のことを考える。

 限りなく垂直の社会であるアニメのなかの王国は、格差が拡大している今の日本を想起させるし、六本木ヒルズなどの高層ビルも思い出させる。

 監視社会やどんどんものを言いにくくなる社会も本当に息苦しい。

 このアニメは普遍的であり、しかもユーモアとエスプリに満ち溢れ、シュールである。そして、音楽が素晴らしい。

 このアニメは多くの人に、「気をつけろ! そして、どんなときも知恵と勇気を出せ。」と言っているようだ。
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