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※頂いたおたよりをホームページでご紹介させていただく可能性がございます。ホームページに掲載されるのが不都合な場合は、「掲載不可」などとその趣旨をとお書きそえください。また、ペンネームを希望する方も、ご記載願います。



02.12.17
『彼女たちの時間』(カトリーヌ・コルシニ監督・フランス=カナダ合作・2001年)
 女優のナタリーと歯科技工士のルイーズは幼なじみ。ある日2人は再会する。女優として壁にぶつかり悩んでいるナタリーに力を貸すルイーズ。ルイーズもかつては女優を夢みた日があったから、ナタリーの成功はルイーズの自己実現でもある。そこからルイーズの過干渉が始まる。それをうるさく思いながらも苦しいときには身勝手に助けを求めるナタリー。「共依存」の世界だ。
 山場はナタリーがルイーズを誘う形で2人が性関係を持ち(この女性監督は「2つの体が溶け合うところを見てもらいたかった」と言っている)、そのあと急にナタリーはそれを後悔するがごとくルイーズに辛くあたる。そのあとナタリーは腹痛におそわれ、救急隊が来るが、彼らの鳴らすチャイムに動かないルイーズ。苦痛で声もでないナタリー。この場面についてナタリーを演じたエマニュアルは「行き着くところまで行ってしまった二人の間で、何かが殺される必要があった」として「それは彼女たちが過ぎ去ってしまった自分たちの人生に対して、『喪の仕事』をしている」と解釈しているが、エー、そんな深い意味があったかなあ、あのシーン。ルイーズの目には優しさがあるとプロにあったが、そうだろうか。私には理解しがたい。全体的にこの映画なんか物言いたげなんだけど、実は空疎な映画じゃなかろうか。
 とくに最後、ナタリーが苦しんだシーンのあと、彼女は男に刺殺される迫真の演技で「ルル」を演じて、女優としての地位を確保するが、拍手がやんだ後、雨の中を孤独に歩み去る。それを車の中からじっと見守るルイーゼの傍らには、ナタリーの前の恋人がいる。これってなんなの?社会的に成功する女性は孤独で、そうでない女は男を手に入れる幸せくらいはあるよというメッセージかしら。
 「女の友情」がテーマだっていうから、とても期待していたのに、相変わらず成功した友への嫉妬とか「個」をなくした「献身」的な関係とか「自我」の境界線をなくした「溶け合う関係」なんて、本当にがっかりだ。(SK)
 <管理人から> この映画については、木村栄さんが「エッセイの泉」の「女ともだち」で同タイトルで執筆しています。あわせて
ご覧下さい。




02.12.10
『太陽の雫』(イシュトヴァーン・サポー監督・1999年・カナダ・ハンガリー)
 19世紀末から第二次大戦後までのハンガリーのユダヤ人3代のドラマ。3時間を超える長大作。この時期のハンガリーが舞台であれば、必ずナチスの暴虐やハンガリー動乱がテーマになるのは必定だ。こういう映画は見るのには、気力が必要だ。こんなシンドイ映画を見る人は少ないだろうと思っていたのに、甘かった。大きな映画館でなかったせいもあるが、平日の昼間近なのに「立ち見」! 一瞬帰ろうかと思ったが気合いの入ったこの機を外すと、きっと見逃すと思い、がんばってコンクリの階段に腰掛けて見た。そんなわけで今ひとつ集中しきれなかったのだが……
 この映画の語り手イヴァンからみれば祖父のイグナツ。彼はオーストリア=ハンガリー二重帝国の判事として出世の階段を早足で登る。上司の忠告をきいて姓をユダヤ的でない「ショルシュ」と変える。従妹のヴァレリーと熱愛の末結婚する。皇室至上主義のイグナツと台頭しつつあった共産主義に傾斜していくヴァレリーの間に次第に溝ができる。イグナツとヴァレリーの間にはアダムが生まれるが、離婚、イグナツは失意のうちに病死する。
 父に当たるアダム。アダムはフェンシングの名士で、カソリックへの改宗を条件に将校クラブに誘われ、ベルリン・オリンピックにハンガリー代表として金メダルを獲得。ナチス・ドイツのハンガリー侵略で、アダム一家も収容所に送られる。ナチス将校はアダムに「ユダヤ人」であることを認めさせようとして、厳寒の強制収容所で雪の中裸にして水を浴びせ殴打するという見せしめの拷問をおこない、最後まで「ハンガリーのオリンピック金メダル受賞者」と言い続けるアダムを息子イヴァンの眼前で凍死させる(酷い画面)。ハンガリーはソ連軍に解放されるが、アダム一家で生き残ったのはヴァレリーとイヴァンのみ。
 戦後イヴァンは、父親の敵であるファシスト狩りに奔走する。だがスターリンの恐怖政治に疑問を感じたイヴァンは民主主義の運動に身を投じるが、ハンガリー動乱の鎮圧で逮捕される。出所後、彼はユダヤ人の姓である「ゾネンシャイン」を取り戻す。
 と、男達は政治の嵐に翻弄されている。一方、女性はどうか。
 この映画に出てくる女性はみんな情熱的で行動力がある。ヴァレリーは自分の愛を貫くために、従兄のイグナツが単身留学中のウイーンに行き、猛反対する彼の両親を押し切って結婚、次のアダムは婚約者のある女性を奪って妻にするが、兄の妻に不倫を迫られ陥落し、そしてイヴァンは権力者の妻と不倫に落ちる。いずれの場合も厳しい社会状況の中での危機を孕んだ恋であるがゆえに激しく燃え立つ。なんか1代ごとにすごいラブシーンが公平にあるという感じがした(この3代を通して演じた俳優レイフ・ファインズって!?)。映画のうたい文句にもあったが、「政治と恋に翻弄された3代の男」たちの「栄光と挫折」のストーリである。悲惨なことがあっても「それでも人生は美しい」と言ったヴァレリーが中心にあるようにも見える映画ではある(と、いう評が多い)が、ウーンどうだろう、私には男が歴史を動かし、女はその癒しというか彩りにすぎないという印象が強い。この映画(に限らないか)では、女は恋するときのみ主体的になる。




02.10.29
『アフガン・アルファベット』(モフセン・アフマルバフ監督・イラン・2001年)
 教育の恐ろしさとすばらしさを描く、短編ながら(46分)力のこもったドキュメンタリー映画。
 2002年10月、戦火を逃れたアフガンの人々のイランの難民キャンプ。この中で子ども達は学ぼうと学校と呼ばれる空間に集まってくる。ここにカメラを据え、子ども達にインタビューをおこなう監督。
 アフガニスタンの女性の95%が学校に通う機会がない(男性の場合は80%)という。難民キャンプの小さな学校でまず彼らは「水」という言葉を徹底して憶える。それから「小麦粉」。これはきっと国連の援助物資などを受け取るために必要な知識なのだろう。もちろん男女別学である。
 少女のクラスにブルカで目まで覆い、全身真っ黒な少女サミル(10歳くらいか)がいる。
 黒板の字も読めないし、指で数えるのも不自由だから、ブルカをあげるように若い女性教師がいう。サミルは家族以外の者(たとえ女性だけでも)に顔を見せることを頑固に拒む。「オマル師は、予言者のつくった箱に奥さんを入れて、好きなときにニオイをかぐの。けして奥さんを外に出さないのよ」。それは彼女の敬愛する教師でもあった父の教えでもあった。そして「水」という単語を覚えさせようと水を手に注ぎ顔を洗うことを教える教師(ヘレンケラーの話を思い出せずにはいられない)に頑強に抵抗する。「人に顔を見せて洗うなんて恥ずかしいし罪だわ」。「もし人の前で顔を見せたら来世で罰が当たるわ。アフガンの女性はいつでも顔を見せないの。誰も見ていなくても神はいつでも見ていて、来世で罰をくだすわ」。サミルの確信的な意思の強さは、それまでの家庭や社会による教育の成果である。
 このサミルを説得するのは友だちである。「私も顔を見せて罪を犯したけれど、10回祈りを唱えて悔い改めれば神は許すわ」。この現実的な知恵に満ちた少女の粘り強い説得で、サミルは教室に戻り、ブルカをあげ、一杯の水を顔に浴びる。サミルの顔のクローズアップで映画は終わる。ここからサミルたちの教育は始まる。
 何度も何度も「水」を表すAB(アーベー)と繰り返し言う少女達の目の輝き。きっと教えられることはどんどん吸収していくにちがいない。
 タリバンが崩壊して、アフガンの女性達はブルかを脱ぎ始めたという。しかし、最近の新聞報道によれば、これらの女性に暴力が振るわれているという。本当に彼女たちが素顔で町中を歩けるようになるまでに、何度かの揺り戻しがあるに違いない。でも、きっと一度開いた知の扉は閉じられないと信じたい。(S.K)




02.10.22
オペラ「ルチア」ドニゼッティ 
 ルチアとは主人公の女性の名前。17世紀のスコットランドの物語である。仇敵の関係にあるアシュトン家のルチアとイヴンスウッド家のエドガルドは密かに愛し合っていた。しかし、ルチアは兄によって政略結婚をしくまれ、家の犠牲になる。しかし、あまりの苦しみに、ルチアは新床で愛していない夫を殺し、精神錯乱状態となり命を落としてしまう。それを知ったエドガルドは墓場で自殺する。
 ストーリーはロミオとジュリエットのオペラ版である(ミュージカル版は「ウエストサイドストーリー」と思っていたけどオペラ版があるとは知らなかった)。単純なストーリーだが、結婚の自由を奪われる苦しみ、つまり心も体も人生も奪われる苦しみと、それを殺人・狂気という形で表現する女性のレジスタンスを、美しい歌でせつせつと歌いうったえかけてくるところが素晴らしかった。エドガルド役のファビオ・サルトーリのテナーは、その主役らしくない風貌(?)を全く気にさせなくさせてしまう、はつらつとした聞き心地のよいものだったが、そのすばらしさにも食われてしまわない、忘れられない印象のチンツイアフォルテのソプラノだった。気がふれた様子を高いソプラノの遊び(?)のようなメロディーとリズムで表現していたが、息の長さ、強弱のすばらしさ、叙情的な美しさは、神がかりに思えた。すごい訓練によるものなのだろう。これは、どう文字で表現してもしきれない。CDか生で是非聞いてみてくださいね(A.W)。




02.10.15
「ウォーターボーイズ」(矢口史靖監督・日本・2001年)
 ふとしたことから、文化祭でシンクロナイズド・スイミングを発表することになった男子高校生5人。てんやわんやの末、水族館で特訓合宿する、高校最後の夏休みから文化祭当日のショウまでをコメディタッチで描く青春ドラマ。
 とってもおもしろい。おもしろさを5点にまとめてみた。
 1 男子高校生を演じる主役の妻夫木聡くんはアイドル系だが、他の4人はどこにでもいるフツーの高校生(唯野高校生)。背丈もばらばらで、まったく同質感がない5人が普通は女性のものと思われているシンクロに夢中になるところがいい。ジェンダーフリーってこういうことね。
 2 海で練習しているところを遭難事故と間違えられて、TVニュースに取り上げられ、この5人一躍人気者に。それを見て、それまで5人を笑いものにし、邪魔ばかりしていた他の運動部の生徒たちもシンクロの練習に加わる。組み体操やボクシングなど彼らの運動を活かしたシンクロをデザインするところが良い。不揃いだけれど躍動感があって美しい。シンクロに参加する動機がいかにも今の若者らしくてとっても自然だ。
 3 ゲイを笑いや軽蔑の対象にせず、比較的自然に描いているところが良い(他のドラマがひどすぎるのかも)。さまざまな嗜好を持つことに柔軟な姿勢が感じられる。
 4 唯野高校が文化祭前夜、ぼやをだし、プールの水が消火に使われてしまう。同日、文化祭を開催していた近くの女子校桜木高校の生徒が駆けつけて、プールを唯野高校に貸すことを学校当局が許可したことを知らせる。プールの回りは桜木校の女子生徒と唯野高校の男子生徒で一杯になる。その中で晴れやかにシンクロを演じる生徒たち。はじける歓声。さわやかな青春群像。見られる「女性」・見る「男性」の構図を見事に逆転させてあざやか。
 5 オーバーな笑いをとらないところがいい。竹中直人が出てきただけで、主演をくってしまった「シコふんじゃった。」(92年・周防正行監督)や「Shall we ダンス?」(95年・同監督)を思い出してしまうが、この映画でもやっぱり相当に濃いものの、若者たちの引き立て役に回っている。シンクロの発表会の場面で妻夫木くんの水着が脱げてしまうシーンがあるが、ここも彼の恋人である桜木高校の少女がポケットに入れていた「LOVE」の縫い取りのあるパンツを水面に投げてピンチを救う。というふうにさりげなく処理してありドタバタにしなかったところに好感が持てた。
 二人の恋も空手をやっている強い女の子のほうが主導権を握っていて、シンクロをしていることを最後まで隠そうとする妻夫木くんとのやりとりもほほえましい。
 というわけで、暑かった今年の8月の最後の日、実話にもとづいたというこの映画をテレビで見ながら、ちょっと甘酸っぱい感傷にふけることができた。(S・K)




02.09.24
「チャドルと生きる」(ジャファル・パナセ監督・イラン・2000年)
 イランでは、出産場面など撮影することは、許されないのだろう。冒頭、何分間か字幕だけで陣痛に苦しむ女性の声のみが響く。見ている方も最初から脂汗がにじみ出る。
 その後も売春場面が非常にぼかされた形で描かれているので理解しがたかったり、仮出獄なのに身分証明書もなくバスに乗るのも困難ということが日本の法制の頭だと訳が分からなかったり、喫煙が女性の自由の一つのシンボルとなっていたり、街の絶え間ない騒音がずーっと映画の通底音になっていたり、カルチャーショックの連続である。
 陣痛の末,生まれた子どもは女の子だった。「超音波では男の子だったのに」とうろたえる妊婦の母。仮出獄で故郷に帰ろうとするのだが、身分証明書もなく保護者もいないという理由でバスの乗車もホテルの宿泊もできない若い女性。処刑された恋人の子を妊娠しているが実家の兄から追い出され、中絶を考えるが、夫の同意がないと断られる女性。医者である夫に前科があることを隠して看護婦として必死に働き、友だちが助けを求めてきても夕食をあたえるくらいしかできない女性。生活ができず幼い女の子を精一杯着飾らせて置き去りにするが心配で陰から見守る母親。母を求めて泣きじゃくる女の子。遠くを見つめ物言わぬ娼婦……。さまざまな女性像がオムニバス式に描かれる。これらの女性はすこしずつ接点を持ちつつ、最後に一同が顔を合わせるのは刑務所。
 女性の一生を描いたとも思われる。辛くて救いのない映画である。観客も少なかったが、イスラーム圏に生きる女性の今を知るための絶好の映画である。
 この映画、渋谷の映画館で見たが、中央2列ほどが女性専用シートになっていて、気楽だった。1人だと思わず知らず緊張しながら映画をみているんだなあと思った。(S.K.)




02.09.17
「蝶の舌」ホセ・ルイス・クエルダ監督・スペイン・1999年 K.S
 日本では01年に好評で単館でロングラン。昨年はとうとう見損ねてビデオでようやく見ることができた。インターネットで検索すると実にいろんなところでとりあげられている。だから詳細は既存のものにおまかせしたい。
 1936年スペイン内乱前夜、軍事化していく時代に、少年たちの成長、表情はひかえめだけど豊かな感性をもって自由や愛情の大切さを教えてくれるグレゴリオ先生との出会いと別れが描かれている。出演するすべての俳優が演技控えめで、あまり笑わず淋しげだ。そのためかえって、人の心が触れ合う一瞬や、自然の素晴らしさが、染みとおるように入ってくる。最近の映画で第2次世界大戦やナチの残酷さを扱ったもので良かった映画、たとえば、「コレリ大尉とマンドリン」「ライフイズビューティフル」「この素晴らしき世界」などはどれも、残酷な世界とともに最後に大きな希望を描いている。しかし、「蝶の舌」は最後のシーンは、希望は10%くらい、むしろ絶望的な悲しさ・人の愚かさが描かれる。大好きな先生が思想犯として逮捕され、ショック状態にある中、少年は母親の教えに従って(自分たちの父親までも逮捕されぬよう)、先生に向かって、「裏切り者」「不信心者」「アカ」とひどい言葉を投げつける。その言葉を聞いている先生の辛い表情は最後まで変らない。ただ、最後に少年が思わず、先生から教えてもらった大切なこと、「ティロノリンコ」(愛の詩の主人公)、「蝶の舌」(普段外からはみえないけれど蜜をすう大事なときに伸びてくる)を先生に向かって叫ぶ。それが10%の希望。少年の中にしっかりと、自由や愛することの大切さが育っている。その言葉が先生に届いたかどうかすらわからない。「禁じられた遊び」で最後に少女は少年と無理矢理切り裂かれる、そんなシーンを思い出した。
 ところで、感心したのは、女性の苦悩がさりげなくしかし的確に描かれていたこと。少年モンチョの家に、父親が他の女性に生ませた娘が「母親が死んだ。葬式代を」と言ってやってくる。父親がお金を娘に渡すが、モンチョの母親は黙っている。「何か言いたいことがあるのか」という父親に、「何も言ってないでしょ」と答える。裏切られた悲しさと、それを飲み込んで自身の夫や子供に対する愛情を大切にしようとする賢明さが表情によく出ていた。娘の方は娘の方で、自分が最も大切にしている犬を邪険に扱う男性を急に拒絶する。自分の欲望の満足しか考えていない男性の愚かさがよく描かれていた。これらは、この映画の主題じゃないので、どこの映画評にも書かれていないが、私にとっては100点満点をつけたくなるポイント。これまで見た映画のベストファイブに入るかな。




02.09.10
「イン・ザ・ベッドルーム」(トッド・フィールド監督・2001年・アメリカ)
 中年の夫婦がいる。夫は診療所の医師、妻は学校の音楽教師(あるいは教会のボランティアのコーラス指導者かーーなにせこの映画、原作者と著作権がらみの問題でプログラムを作製できなかったとのことで、詳細について自信がない)。2人の間に建築家を志す一人息子フランクがいる。ハンサムでやさしくてういういしいこの青年、夫と別居中の子どものいる女性と恋をしている。この女性に未練のある夫リチャードはストーカーぽくつきまとい、暴力をふるうことも。おびえた子どもからの電話でかけつけたフランクは、リチャードに頭を撃たれて死ぬ。
 突然に最愛の息子を奪われた両親の悲しみ・苦しみ。それに追い打ちをかけるのが、もみ合いの末の事故だったと判断されてリチャードが保釈されてしまい、狭い町中で反省の様子もない傍若無人な彼の様子を始終目にしなければならないこと。
 母である妻は、家に引きこもりたばこを吸いながら意味もなくテレビを見る毎日。服装は乱れ顔は青白くどんどん引きつった表情になる(演じるシシー・スペイセクがとてもいい)。そんな妻を見ていられなくて仕事に出かけてしまう父=夫。ことさら冷静に客観的に振る舞おうとしているが、それは妻の前だけ。彼を案じる友人達とポーカーをしていても上の空、診療所では昼食もできない。息子の残した建築のスケッチを見ては号泣し、庭木の手入れをしていて、息子が木登りをしたときに作ったハシゴを見て涙し……
 だが、この夫の苦しみを見ていない妻は夫のことを冷たい人間だと思い、ますます心を閉じていく。荒漠たる家庭。この2人の孤独な葛藤が実にリアルに描かれている。このシーンを「退屈」とか「冗長」と感じる人は、この映画を評価しないだろうな。
 ある日、この危うい均衡が破れて激しい言い合いになる。妻は夫が「息子を甘やかし、危険な恋愛をとめなかった」と責任を追及し、夫は妻が「いつも息子を支配していた。息子はこの息苦しい家庭から逃れるために恋をした」と昔に遡って厳しく非難する。子どもに何かあったときに両親がよく陥るパターンだ。
 裁判に頼ることにも絶望した両親は、自らの手で息子を殺した犯人に復讐する。父親は友だちの協力を得て、リチャードを深夜に連れだし、ピストルで撃ち殺す。倒れたリチャードの背中に何発も。ベッドで夫を迎えた妻は言う。「You did it.」。沈黙している夫を置いて妻は朝食の支度をする。「あなた、コーヒーができたわ」思いなしか声が明るい。白々と明けていく街。
 救いのない暗い映画である。しかし、同じ息子を失った両親の再生物語であった「息子の部屋」より、ずっとリアリティがある。あんなふうに子どもを殺されたら、親は再生できっこない。きれいごとにはいかないどうしようもない怒り・絶望感がごまかされずに描かれている。
 リチャードの背中にピストルを突きつけながら、彼を連れ出すときに、夫はふと階段に貼ってあるリチャードと息子が恋した女性の2人の輝く笑顔の写真を見る。一瞬の動揺。うなるほどうまい演出だ。リチャードを射殺した後、「森の中で殺すはずだったのに」と友人にとがめられて「それまで待てなかった」というひとことが、父親の怒り・苦しみをかたって、あまりある。このあたりも計算し尽くされていて、感心した。
 こう書いてくると暴力シーンが多いように思われるが、けっしてどぎつくない。それでいて、とても怖い映画である。若い人にはあまりおすすめしたくないが、そうでない人には今年一押しの映画。(S・K)




02.09.03
「この素晴らしき世界」(ヤン・フジェベイク監督・2000年・チェコ)
 「人間はいつどんな場合でも助け合える」「非人間的な恐怖が支配するナチスの世界をチェコ独特のユーモアと積極思考で描いた映画」、と激賞されている映画である。でも、なんだか小骨が喉に刺さっている。
 第二次世界大戦も終盤。ナチス占領下のチェコ。ヨゼフとマリエの夫婦は子どもに恵まれない。原因はヨゼフにある。彼は親ナチの仕事を嫌い、失業中。しかし、積極的に抵抗しているわけではない。戦時下でもそれなりに幸福なこの夫婦がひょんなことから、以前からの知り合いであるユダヤ人の青年ダヴィト(ゲットーから脱走)をかくまうことになる。ユダヤ人を秘匿したというだけで即刻銃殺された時代である。隣近所や家族までがスパイだったりして、誰を信じていいかわからない時代のこと。近隣にマリエに横恋慕している親ナチのホルストがいる。羽振りのいいホルストはなにかにつけて夫婦の家庭を訪問し、秘密を抱いている夫婦はそのたびに緊張する。そのうちにホルストはこの夫婦が誰かをかくまっていることにうっすら気づく。だが、彼は沈黙を守る。それを餌にマリエに言い寄るためだ。ある日、彼はマリエをドライブに連れ出し、レイプしようとする。断固、反撃してマリエは自宅に帰り着く。難問は続く。ホルストがナチスの上司をヨゼフ夫婦のうちに間借りさせようとするのだ。大ピンチ!マリエは「妊娠中で子ども部屋が必要だから」と断り、その場を切り抜けたが、さてどうするか。ヨゼフ・マリエ・ダヴィト3人の命がかかる。極限状況におかれたヨゼフの発案で、泣いて拒否するマリエを美しく装わせ、震えているダヴィトのベッドに送り込む。妊娠するマリエ。
 マリエの出産当日、チェコは解放された。ハーケンクロイツの旗が引きずりおろされ、昨日まで支配者だったドイツ軍と親ナチのチェコ人が逮捕される。混乱する街の中、医者を求めてヨゼフは連合軍司令部にたどりつく。検束された人々のなかにヨゼフはホルストを見いだす。彼はホルストを医者であると嘘を言って助ける。陣痛の苦しみの中で医者の到着を待っていたマリエの前に産婦人科医としてあらわれたホルストを見た彼女の驚愕。叫ぼうとするマリエの口を押さえるヨゼフ。占領軍の前で秘密を守らなければホルストも自分たちも救うことができない。ヨゼフ自身も「ユダヤ人をかくまっていた」ということを評価されて、「医者」と共に、自宅に帰ることを許されたのに、肝心のダヴィトがいないではないか。銃を突きつけられて絶体絶命のヨゼフの前に隠れていたダヴィトが天窓からポカーと顔を出す。そこに新しい生命の誕生を告げる産声。それは新生チェコの誕生の瞬間でもある。
 生命の危機という究極の選択のとき、とったヨゼフの行動は、人類愛に燃え、美しいのだろうか。赤ちゃんがほしくてたまらなかったマリエではあるが、誰との子でもよかったのだろうか。感情の交流はあっても、恋愛感情など持っていなかった青年と無理矢理セックスさせられ、首尾良く妊娠し、その出産の現場には自分をレイプしようとした男が「医者」として立ち会う。生きるか死ぬかというときには「女性の尊厳」とか「女性の人権」なんてふっとんでしまうということなのだろう。そういう状況こそが戦争ということなのだろう。
 平時では考えられない酷い状況があったことは史実である。客観的にみれば、マリエよりもっとずっと悲惨な目に遭った女性も多い。だが、しかしと思ってしまう。
 今の時代にこの夫婦の物語を美談仕立てにして、公開することにどういう意味があるのだろうか。女性の痛みに少しでも目がいっているだろうか、この映画。ナチスの暴虐が声高でなく語られているし、チェコが解放されて価値体系が一気に逆転する場面などとてもうまく描かれている洗練された映画だけに残念でならない。また、ホルストなど類型的な悪人役ではなく人間であることの悲しみやおかしさそれに弱さ・ずるさがかなり表現されていると思われるだけに(人物像としては、彼が一番よく描かれている)、それに比べて女性の感情が顧慮されていないことが気になってたまらない。とても諸手をあげて、「素晴らしき」などと思えない。
 揚げ足を取るようだが、一度は妊娠したと言ったって、その後流産したふうに装えばすむことではなかったのだろうか。全体的にエピソードがあまりにご都合主義的であるのも気に入らない。笑えない。(S・K)




02.08.13
『チョコレート』(マーク・フォスター監督・アメリカ・2001年)
 白人の死刑執行人と彼に夫を殺された黒人女性との恋。主演のハル・ベリーは黒人初のアカデミー主演女優賞を獲得。といったら、どうしたってワクワクするではないか。しかも『バーバー』で主演したビリー・ボブ・ソーントンの甘いマスクとシニカルな表情に久しぶりに「イイ男」を見たと思っていたので、彼が主演であるからして、予告篇上映時から目をつけていた。マスコミの評も良かった。映画館も満員だった。
 だのに、なに!?
 父の代からの看守の仕事をしているハンク(ビリー・ボブ)は、差別主義者だ。レイシストであり、ウーマンヘイターだ。同じ看守の仕事をしている息子が死刑執行のときに気分を悪くして倒れる。この余りに人間的な出来事に対して怒ったハンクは激しく息子を殴打する。
 「女々しい。プロ意識に欠けるヤツ」というわけだ。この時止めに入る黒人の部下に対して彼は怒鳴る「クロは俺の身体にさわるな」。
 自宅でもハンクは息子の不始末を暴力でなじる。逆襲に転ずる息子。息子は銃をハンクに突きつけて問う。「あんたは俺を好きか? 憎んでいるのではないか」。父ハンクは言う「そうだ、憎んでいる」。この答えを聞いた途端、息子は「俺はあんたが好きだったよ」と言って自分の胸に銃を発射する。身体を貫通してソファーの背にめり込んでいる銃弾。
 多分自殺したらしいハンクの妻と母の影が感じられ、そこにハンクがウーマンへーティングになったきっかけが隠されているのではと思うのだが、まったく映画は語らない。そしてこの父子の悲劇を招いた死刑執行シーンの残酷さ。これが延々続く。「グリーンマイル」もそうだったが、電気イスの処刑の残虐性をこうもしつこく描くのはどういう意味があるのだろう。
 最後に「ボタンを押せ」と言って、死刑に処せられた黒人男性の妻がレティシア(ハル・ベリー)である。レストランのウエイトレスをしながらチョコバー症候群の男の子を育てている。このレストランにハンクがしばしば訪れる。オーダーはいつも「チョコレート」だ。ある夜、交通事故にあった息子を抱きかかえて雨の中叫んでいるレティシアを通りかかったハンクが救う。
 ここで、息子を失い職も捨てた男とやはり息子と夫を失い家を追い出された女の寂しい心が出会う。お互いに癒しをもとめあう性愛シーンを川本三郎は「アメリカ映画史上、もっとも記憶に残るラブシーン」と激賞しているが、そうかなあ。インターネットの書き込み評でみた「あんな演技でアカデミー賞とれるならAV女優が毎年賞をとる」との酷評の方が当たっているように思うがなあ(はー、この映画はR指定だったんだ)。ハル・ベリーはスタイルが良くて美人で哀愁のこもった表情がいいけれど。
 ここから先の展開がまったく理解しがたい。つまり二人の心のヒダが描けていないのだ。最初のセックスのあとで、偶然、ハンクは自分が死刑執行した男の妻だと気づき嘔吐する。レティシアも夫が最後に遺したハンクの似顔絵から事実を知り呆然とする。しかし、このことが二人の愛にどう影響を与えたのかがまったくわからない。ここから二人の再生の話が始まると思ったのに、最後のクレジットがではじめるんだもの、唖然とした。
 唯一、ハンクがレティシアへの愛を通して自分のなかのレイシズムにめざめ克服して行く過程は説得的に伝わってくる。しかし、女性に対してはどうだろうか。家財道具と共に途方に暮れているレティシアを自宅に連れ帰る。ここでも性愛シーンがあるのだが、交わされる会話の陳腐なこと。私にはハンクが自分の男としての性を確認し、また彼女にその確認をさせたがっているとしか思えなかった。このシーン、美しくもなくてすっかりビリー・ボブへの熱も冷めてしまった。
 これって一人の男にひろわれ生活を保証される女のシンデレラ物語にすぎないのじゃないの?それに死刑とか黒人差別とかいう社会的スパイスをふりかけただけじゃない?(S.K)




02.07.09
「暗い日曜日」(ロルフ・シューベル監督・ハンガリー・ドイツ合作・1999年)
 第二次世界大戦前夜のブタベストのレストランを舞台に、3人の男と1人の女性の愛憎のドラマと言ってしまえば、簡単だが、この男性のうち1人がユダヤ人でもう1人がのちにナチスの将校となるドイツ人であるとなると、にわかに社会性・歴史性を帯びる。
 レストランの主であるラズロとその恋人イロナのところに若いピアノ弾きアンドラーシュが現れる。たちまち恋に陥るイロナとアンドラーシュ。ラズロは苦しみながらもイロナへの愛をアンドラーシュとシェアするという選択をする。美しくも波乱を含んだ三角関係にもう1人やたらジコチュウなドイツ人ハンスが割り込んでくる。イロナにふられたハンスはまったく唐突に自殺をはかり、それを助けたラズロとの間に「友情」が生まれる。一方、アンドラーシュが即興でイロナに捧げた歌「暗い日曜日」が、世界的に大ヒットする。世界恐慌など追いつめられていく第二次世界大戦直前のあの絶望的な世相にマッチしたこの曲を聴きながら多くの若者が自殺をした(これは史実である)。
 ナチス・ドイツは、ハンガリーに侵攻した。ここでも激しく行われるユダヤ狩り。最初は財産の没収、やがてユダヤ絶滅作戦――アウシュビッツへの強制連行。身の危険を感じるラズロにハンスは「友達」の安全を保障するのだが……映画の後半、ハンスは人間のもっともダーティな部分をさらけ出していく。ハンスのおぞましい裏切りが3人を命の瀬戸際に追いつめる。生き延びたのはだれか。
 この映画はファーストシーンとラストシーンが円環になっている。このシーンの生と死をどう解釈するか。私と友人は見解を異にした。見た方は是非意見をいただきたいのだが。  退廃的な音楽と「欧州の真珠」といわれたハンガリーの風景が恐ろしいテーマを見え隠れさせていて、見る者を緊張させる。小品だが格調の高い映画である。(S・K)




02.05.25
『プロミス』 ジャスティーン・シャピロ/B.Z.ゴールドバーグ監督・2002年.アメリカ
 私はナチスをテーマにした映画は、辛い辛いと思いながらも見に行く。そして「ユダヤ」という民族に生まれたばかりに迫害・虐殺された歴史の前に打ちのめされながら、いつも胸にはい上がってくるのは、「こんな目に遭った人々がどうして他の民族に同じ経験をさせるのか」というやりきれない思いである。イスラエル・パレスチナの半世紀以上にわたる抗争解決の目処はいまだに見えない。
 わずか20分ほどしか離れていないのに、厳しい検問所に遮られ、お互いの憎悪が拡大増幅し、武力衝突も希でない日々。子ども達も例外ではない。
「ここは絶対アラブ人の土地さ。何をどう言おうと変わらない。ここで生まれ育ったのは僕らだ」。
「ここはユダヤ人の地だ。アラブ人と仲良くなんかしたら友だちに臆病者扱いされちゃうよ」。
そのなかで少年・少女のドラマチックな交流が実現するのは、この映画監督であるアメリカ生まれのイスラエル育ちの青年が、粘り強く両者に働きかけた成果である。最初は警戒しながらも、次第にうちとけて体をぶつけ合いながら戯れ、ついには笑いがはじける。
  この笑顔に励まされる思いで、「人間同士だもの話合えば…」と誰でも単純に感じるだろう。でも、この両者は決して対等の力関係(経済的にも、社会的にも、軍事的にも)にないという歴史的事実の前で、たちすくむ。
 未来は、手の汚れていない子ども達が拓くといったって、彼らの背にはべったりと過去と現在が貼り付いているわけだ。 しかし、先日、テレビで徴兵拒否をしているイスラエル高校生のドキュメントを見た。イスラエルの中で本当にマイノリティだと思うけれど、これは今までになかった兆しではないだろうか。
それにしても大きな瞳、長いまつげ、彫りの深い、考え深げな表情は、私など最初はどっちがどっちだかわからないくらい、よく似ていて、かわいく美しかった。彼らは、戦火の中で今も元気なのだろうか。お互いにお互いを激しく憎むようになったのだろうか。
 このドキュメント映画は、1977年から2000年にかけて、イスラエル.パレスチナの和平工作が進んでいるときにとられた。緊迫している現在、ここに描かれているようなイスラエルの子ども達がパレスチナ難民キャンプを訪れるなんていうことは、まったく考えられない。
 私は、この映画の存在をたまたま友人に教わった。日曜日の夜に始まった先行上映会だったが、マイナーな劇場が若者で超満員になり、その後おこなわれたシンポジュームも、すごい熱気だった。そこで、若者達がNGOでいろいろな形でこの問題に取り組んでいるのを知った。やはり「希望」はあると思いたい。
* 上映は7月より。東京・東中野駅すぐ。BOX東中野  電話03−5389−6780
                                                    (S・K)




02.05.25
ロバート・イーズ  ケイト・デイビス監督 2000年 アメリカ 02年秋にBOX東中野でロードショー
 女性として生まれ、結婚して2人の息子を育てた後、男性として生きたロバート・イーズを、彼が亡くなるまでの1年間の生活に密着して撮ったドキュメンタリーである。
 ロバートは、女性として2回、男性として1回結婚した。35歳で性転換手術を受ける。子宮と卵巣が末期がんに侵されているが、医師たちは他の患者との関係を気にし手術を引き受けてくれない。ロバートと愛し合っているローラは、男性として生まれ女性として生きている。ロバートのまわりのトランスジェンダーの小さなコミュニティ。1人1人孤立していてはとても生きにくいからだろうか。同性愛の結婚を認める法律が、ヨーロッパでは次々と広がって市民権を得ているが、「欧米」と言って1くくりにはできない。アメリカの田舎では、偏見の程度は日本と変わらないようだ。登場人物の女性も、職場では男性として生きている。職を失うことは食べていけないことだから、容易にカミングアウトできるはずがない。しかし、トランスジェンダーであるという点を除けば、誰にでもある日常生活。人と人が愛しあって、食事を作ってともにし、おしゃれをし、ダンスを踊り、くつろいでいる。そして命に限りあるということも。そういうあたり前のささやかな幸せに思いを馳せる気持ちにさせられる映画だった。ただし、なぜ女性であろうとすると、あんなにしなを作るの? という違和感は残った。
 日本では、最近、性同一性障害に対する理解をすすめようという動きが少し出てきた。テレビドラマの金八先生でもとりあげられた。ただし、性転換手術をしても遺伝子的な証明がない限り戸籍での男から女への転換(続き柄の長女、二男などの欄)はまだ認められていない。今年この点についての最高裁の判例がはじめて出るので要注目である(GALの判例にも高裁判決が入っています)。この映画をみた翌日、テレビで新宿2丁目オカマバーのカラオケ合いの手大会というテレビをかいまみた。悪趣味な女装と化粧、女言葉を使いながら下着をみせたり、乱暴な男ことばや態度を急にまじえたりする。こういうのって偏見助長の最たる原因では?それでいて、高級イメージのある目黒区でも同じように家を貸してほしい、出身地沖縄での偏見などが、リアルに語られていたけど。
 映画の登場人物たちはもっと静かで知性があった。そういう普通のトランスジェンダーの人たちがもっとさらりと前に出てきてほしい。自然は多様なのに人間はなぜ多様性を認めないのというせりふが印象的だった。




02.05.11
『折り梅』(松井久子監督・日本・2002年)  SK
 公団住宅で一人で住む政子(吉行和子)が、息子に介助されて引っ越していく友だちにおすしを作り、重箱に詰めてお餞別に渡す(なかなか印象的なスタートシーンである)。こんなに元気だった政子が、一番気が合う3男(トミーズ雅)家族と一緒に住むようになってまもなく、アルツハイマー性痴呆を発症する。
 おかずを鷲掴みにする、トイレを失敗する、お金がなくなったと「嫁」巴(原田美枝子)に嫌疑をかける、みなりをかまわなくなって薄汚くなっていく……政子の病の進行とともにギクシャクしていく家族。
 それでもこの家族はましかと思うのは、そんな壊れかかっている家庭でもみんなが帰ってきて一緒に食卓を囲むし、夫が浮気したりしないし、グループホームを夫婦で見学もする。
 しかし、パートしながらの介護に疲れている妻に対して、夫は自分の母親であるにもかかわらず、「お前が引き取ると言ったんだろう」「辛いのならパートをやめたら」としか言わない。外で働くことやそこでの友だちが妻の情報源になっていることや精神的な支えになっていることがわからない夫。ああ、よくあるパターン。
 一度はグループホームを選択して、そこへ2人で向かう途中、動物園の猿の親子を見ながら、自分の子供時代を語る政子の言葉に、姑の寂しさをおもい、もう一度自宅介護の道を選ぶ巴。
デイサービスを受ける中で政子は絵画に出会う。70歳すぎて初めて絵筆をとる政子は生き生きとした表情を取り戻していく。それとともに家族に相互の思いやりが復活していく。
 痴呆も徐々に進むわけで、自分がもの忘れしていくことの恐怖感、心細さは、誰よりも当人が辛い。この表現しがたい内心の苦しみが、短いシーンのなかでよくかかれている。
 プログラムにある松井久子監督の制作ノートがおもしろい。資金集めから脚本の苦労。思うようにできたキャスティングへの喜び。大勢の力を結集しながらの創造していくプロセスが素晴らしい。




02.03.09
オペラ『ウエルテル』 マスネ作曲  02.3.2 新国立劇場
 原作は、ゲーテの「若きウエルテルの悩み」。発表された18世紀のドイツではしばらく禁書だったらしい。キリスト教では犯罪視する自殺が描かれていること、モラルなど関係無く心のままに行動する人物が描かれていることからだそうだ。
 学生ウエルテルは、シャルロッテに恋をする。シャルロッテは母なき後、妹や弟の世話を母親がわりにしている優しい女性。シャルロッテには亡き母が決めた婚約者アルベールがいる。ウエルテルと出会ったときにはまだ自由の身であったにもかかわらず、母の命令を守ってアルベールと結婚してしまう。結婚後もウエルテルは、あきらめずにシャルロッテの愛を得ようとせまる(つきまとうというべきか?)。シャルロッテは遠くに行ってほしいとウエルテルに頼む。失意のウエルテルはピストル自殺をするが、死の直前シャルロッテはかけつけ、「愛している、自分が間違っていた」と告白をし、ウエルテルはシャルロッテの腕の中で死ぬ。
 あきらめの悪かったウエルテルは置いておいて、ここではシャルロッテに注目。今からは想像できないほど、女性の生き方の不自由だった時代。自分の本心に反して規範・親の命令を守るがゆえに、結局二人の男性に対して残酷なことをしているとういうべきか。
「シャルロッテのその後」を一緒に見に行った友人と3人で議論した(原作にはもちろん書かれていない)。1説は修道院に入る(この時代離婚するにはそれしかない)。もう1説は結婚から逃れられず、シャルロッテは子を産み、アルベールはいらだちから暴力亭主になるというもの。
 パンフレットには、樋口恵子さんの「オペラは実は男女共同参画のシンボルなんです」というお話がのっていた。「ストーリー構成がどうであれ、そこで人間の男と女の声が両性で全き世界を形成している」からと。なるほど。サッバティーニのテノール、アンナ・カテリーナ・アントナッチのメゾソプラノ、どちらも、素晴らしかったです。



A.Wさん 02.02.16
映画「恋ごころ」2001年 フランス ジャック・リヴェット監督
 この映画評欄の「千年の恋」の最後に、「後世の女性がた、今度はあなた方が殿方を選ぶのですよ」とあった。それに十分答える映画。ストーリーはおかしな六角関係だけど、ストーリーを追ってみてもこの映画の優雅さや素晴らしさは伝えられない。ヒロインは劇団で主役をはるカミーユ。パリに巡業にきて、3年前に別れたはずのピエールが気になりかつての家を訪ねる。そこにはピエールと2年前から暮らすソニアが。一座の座長で演出家で俳優でカミーユの恋人のウーゴは、カミーユの心の揺れが気になる。ウーゴに、「パリの誘惑よ」と言って果敢にアタックしてくる女子大生ドミニク、・・・と、あやうい関係が続々と出てくるが、誰も暗いブラックホールには陥らないし、嫉妬から陰険な意地悪をしたりしない。ラブシーンはないのに、大人の恋ごころがたっぷり感じられる。
 ヒロインは自分でピエールを切って、ウーゴを選んで、ピエールが気になるとまた確かめに出かけて、ピエールに部屋に閉じ込められると、屋根裏からやすやすと抜け出て、芝居本番には間にあってしまう。友達になってしまったソニアに頼まれると、彼女の高価な指輪を取り戻すために危険なことも平気でする。気持ちが離れたときに無理にせまってこない優しさをもつ大人のウーゴを選んでいて、男性の選択眼は確か。
 同じ時期に上映中の映画「インティマシー」(2000年、仏)のヒロインも、自分で「選んで」いたけど、女優として伸びることができず、夫には男性としてもの足りなさを感じ、その隙間を埋めるためにセックスパートナーを作り、そしてその不倫相手が本気でせまってくると家庭を壊す勇気もなくさよならする。映画としての評価は結構高かったけど、考えてみれば何事も中途半端(しかし、これこそ現実か)。
 戻って、「恋ごころ」のカミーユは、自分らしく生きているか? 生きがいは? なんていう悩みからはとっくに抜け出て、自分に正直にかつ優雅にやさしくプライド高く可愛く生きている。こういう風でいたいのよね、私達は。



A.Wさん 02.01.19
映画「ショコラ」2000年 アメリカ ラッセ・ハルストレム監督
 非婚のヴィアンヌと娘がフランスの小さな村に引っ越してきて、ショコラの店を開く。時代はいつころなのかな。19世紀のような20世紀の初め頃のような。古いヨーロッパ風のフランスの小さな村。少しおとぎ話のような不思議な雰囲気だけど、レノ伯爵が1つの家族観・道徳・宗教でしきっている村が、彼女とショコラの不思議な魅力によって、暖かく解きほぐされて、村も人も最後には伯爵も変わっていく。
 最初は彼女を避けていた人たちも、少しずつそのやさしさに魅せられる。暴力夫から逃げてきて一緒にショコラの店を手伝い解放されていくジョセフィーヌと、夫を改造して夫婦を元に戻そうとするレノの対決。厳格な母親カロリーヌと、絶縁している祖母にこっそり会って肖像画を描こうとする息子。今の時代にも全く変わらないさまざまな家族の辛さや葛藤と、それをのりこえていく人間の魅力が描かれていてエクセレント。
 最初にレノが「マダム」と挨拶すると、ヴィアンヌは、「マドモワゼルよ」とさりげなく答え、レノが驚く。非婚で子どもを産むなんて今のフランスやヨーロッパでは当たり前だけど、昔は日本よりも厳しかったんだろうな。ひるがえって日本をみれば、少し前のNHKの朝ドラ「私の青空」では、非婚の母と子がはじめて主人公になって話題をよんだけど、今の朝ドラでは、意地の悪い婚外子が相続をたてに主人公のお店を揺さぶりにくるという粗雑で絶望的設定で、かつこの頃毎日大阪弁できつい喧嘩の場面。もうちょっと、上質な朝ドラにしてほしい。
 アメリカ映画なので英語なのだけど、婚外子をillegitimate child(直訳すれば違法な子ども)と呼んでいた。今はこの言葉は子の人権上ふさわしくないとして使わず、child born out of wedlock と呼ぶと聞いているけど、映画では時代考証のせいか。
 最近のフランスは同性愛のカップルも事実婚カップルも法的に保護するパックス法ができ、01年12月にはとうとう婚外子の相続差別を完全に廃止し、法的にも、家族の形・生き方の多様性を認めあう国に変身。
 「何を禁止するかが重要なのではなく、何を受け入れるかこそが重要」と映画で司祭がはじめてレノの拘束から解放されて語る場面が心に残った。



A.Wさん 02.01.13
映画「ムッシュ・カステラの恋」2000年 フランス アニエス・ジャウイ監督
 フランスで大ヒットしたユーモアとペーソスのある映画。期待どおり、二重丸です。一応、ムッシュ・カステラが主人公だけど、脇役もそれぞれ存在感がある。経営を有能な部下に任せっぱなしのカステラ社長が、舞台女優クララに恋をする。女優が昼間面接したばかりの英語の家庭教師と知り、カステラ氏は英語の授業を受けはじめる。クララに近づこうとその仲間と食事をしたりするけど、芸術に無知なカステラ氏は話も浮いていて馬鹿にされていて本人は気づかない。家では、唯一カステラ氏が自分の好みで買った絵も、はずせと妻に命じられる・・とストリーを説明すると長くなるのでこの辺でカット。
 良かった場面は、世間知らず風のカステラ社長なのに、生活に困らず自己中心な動物愛護家で魅力のなくなっている妻のいる家を「出る」という行動に出たこと(そのあとまた妻のところに戻るかクララと結ばれるかは余韻に残し映画は語らない)、カステラ氏が芸術家らの前で別の男性のことを「あのホモ野郎」と言うと、目の前の男性2人に、「僕らが愛しあっているようにね」とちくりと返されるところなどなど。もちろん、無知でも人が良く、実際には演劇にも涙し、部下に軽蔑されていると勘違いして厳しくあたったことを反省し謝ったりするカステラ氏の感性にほのぼのとできること、登場人物が皆どこか欠点があるけど愛すべき人たちという暖かさがこの映画の最大の魅力だけれど。
 クララの女友だちマニー(アニエス・ジャウイ監督自身が出演)とカステラ社長の運転手ブリュノの会話では、
  ブリュノ「男は誰とでも寝るし、寝ることに意味はない」
  マニー 「わかるけど間違ってるわ。女だって誰とでも寝るわ」
 マニーとカステラ氏の護衛役フランクの会話では、
  マニー 「新婚旅行の後はこの家で同居よ」
  フランク「だめだ。僕の家に来い」
  マニー 「いいわ。それで私は何をする? 子供 家事 料理?」
  フランク「嫌なのか?」
  マニー 「あなたは?私が働き、あなたが家事。これならどう?」
 フランクとマニーは、冗談風に結婚の話をしながら、結局、違いを感じてすれ違う。結婚のためにマニーの家のドアまで来ながらひきかえすフランクと、それを上の窓から眺め心がゆれながら追いかけないマニー、というように心の機微の描き方がすごくうまい。
 カステラに扮するジャン=ピエール・バクリとアニエスは、実生活では夫婦で、共同でこの脚本を書いているけど、上の会話はアニエスが役者に語らせたかったんだろうな。



K・Sさんより 02.01.13
映画「千年の恋ーーひかる源氏物語」2002年・堀川とんこう監督
 映画が始まる前にプログラムで配役を確かめて置くことをおすすめしたい。紫式部の吉永小百合はともかく、藤壺:高島礼子、紫の上:常盤貴子、六条御息所:竹下景子、清少納言:森光子etcに笑い出したり怒ったりしないように。その意味では、絶世の美男貴公子である光源氏を元宝塚の名男役の天海祐希にしたのは大成功である。
 紫式部が藤原彰子のお后教育に「源氏物語」を語って聞かせることと源氏物語そのもののストーリーが絡みながら進行するのが、この映画のみそである。いつしかそれが一体となって観客が錯覚を起こしかねないところがおもしろかった。
 それにしても光源氏という男、とにかく見境ない女好き。春夏秋冬の屋敷に女性を一人ずつ住まわせるなんて、なんと悪趣味(でも嫌らしさを感じさせない点で美しい中性的な天海祐希の起用は当たっている)。他の女性に産ませた子を自分の出世のために子を産めないことに悩んでいる妻紫の上に育てさせるーー子どもの頃から夫好みの女に育てられたとはいえ、まったくジコチュウの夫に耐える一方の紫の上は心を病んだにちがいない。
 色とりどりの女性が出てくる中で、紫の上だけが多少なりとも内面を描かれている。自分の夫によく似ていて今や権力の絶頂にある藤原道長に心ひかれながら危うく踏みとどまる紫式部が、この紫の上に自らを投影しているのが納得できる。
六条御息所や源典侍など年輩の女性のあまりにもワンパターンの描き方とか出産場面のしつこさとかラブシーンの不自然な品のなさなど不満はいっぱいあるが、中でもこの映画が創作した唯一の人物である松田聖子扮する揚げ羽の君の存在はまったく不可解。突然、聖子が宙に浮かんで歌を歌ったりする場面に目が点となった。
 とはいうものの、2時間半飽きなかった。これは原作の強さか? 豪華絢爛の絵巻物を見るような異次元の世界で遊べることはたしかである。
 1000年も前の物語にジェンダー云々などと言ってもしかたないが、今この映画が作られた意味は何だろうか。紫式部は言う。「後世の女性がた、今度はあなた方が殿方を選ぶのですよ」。これがどうやらこの超大作のメッセージのようである。



A. Wさん 01.12.29
映画「シャンプー台のむこうに」パディ・ブレスナック監督 2000年 イギリス
 少しコメディタッチの上質な映画。美容師のコンテストを舞台にして、家族模様が描かれる。かつてイギリス一番の美容師だった夫婦だが、妻は夫を捨てて美容室のモデルだった女性と駆け落ち。10年間交流できずにいる元妻と、父子。末期がんになった元妻が、傷ついた絆を埋めようとこころみる。「男性と逃げてくれればもうちょっとましだった」と嘆く元夫。「世間の人はそんなに偏見を持っていない」とさらりと言う子ども。日本でも、映画館の中では、もう同性愛は特別なことでなくなってきたけれど、判例や制度面では、ヨーロッパとはほど遠いところにある。ラブストーリーでも、同じ時期に上映されている「ムーラン・ルージュ」や「ポワゾン」のような大げさなしかけは何もないけれど、心にはしっくり。元夫のフィル役のアラン・リックマンがすてきだった。ちなみに、「ムーラン・ルージュ」と「ポワゾン」は、まとめてみればどちらも、貧困で家族にめぐまれなかった美女が、男性の愛の力で解放される古典的ストーリで、とてもハリウッド的。大人の女性には、「シャンプー台のむこうに」がおすすめ。



の・ひぐちさんより 01.12.23
映画「ウーマン・オン・トップ」 フィナ・トレス監督
ちょっと古くなりますが2001年お正月映画の「ウーマン・オン・トップ」。
これはフィナ・トレスという女性監督の第3作目。ブラジルの北東部バイアの女性シェフ、イザベラ(スペイン出身のペネロペ・クルスが演じています。)が、主演の話でブラジル料理満載、ボサノバいっぱいの「ザッツエンターテイメント」の映画です。
愛の選択や料理の世界で自分をキャリアアップしていくところの悩みなどがブラジルの神話などをスパイスに繰り広げられています。
お相手役の男性はこの映画に出演して、「本当の愛は、好きな花を部屋いっぱいに飾ることや歌を歌うことではなく、女性に対して、感受性豊かに対応し、女性を理解することだ。」と感じたそうです。本当にバラの花束攻勢で女が落ちるという神話は、そろそろおしまいにしてほしいですよね。
またフィナ・トレス監督はこう語っています。
「この映画は女性がいかに世の中で自分の道を探し出していくか、ということがテーマなんです。女性はキャリア、愛、それに世間が女性に期待することに応える方法を見つけなければならないのです。最後に惨めな思いをしないために・・・」21世紀、今の女性はこれが現実なのでしょうね。この話を友人にしたら、「世間が女性に期待することに応える方法を見つけなければならない世の中は、もう終わりにしたい。」と語っておりました。同感!
料理ではCGもふんだんに使われており、こちらの興味から見るのもなかなかオツなものではないのでしょうか。




K.N.さん 01.11.15
映画「赤い橋の下のぬるい水」 今村昌平監督
 こんにちは。映画大好きです。さて、前評判がよくて今年カンヌ国際映画祭で嵐のような拍手につつまれたというので期待して見にいったのですが、さほどでもなかったというご紹介です。リストラされて自信をなくし行き場を失った中年男性が、サエコという体内に水がたまると悪いことをしたくなったり、性的要求が強くなる(噴水のように大量に水を放出)という女性と出会って、生きかえるというストーリー。某雑誌の映画評によると、セクシー度は最高評価だったけど、それを期待していくと、がっかりします。その原因の1つは、服も脱がずいきなり下着だけとってはじめる、という描写の連続が、せっかく性におおらかな女性を描いているのに、ちょっと違うなあという感じ。こういうあまりきれいでない描き方は今村監督の好みなんだろうか。いくら欲求不満でも、女性はああいうセックスを好まないよね。それに、やたらと威張った男性が出てきて、サエコ以外の女性は、男性に反抗もせず従っているのも古い! ハッピーエンドで心がやわらぐ映画ではありましたが・・。



A.W.さん 01.11.14
映画「はじまりはオペラ」
ヒルデ・ハイエル監督(ノルウエーの女性監督)

 GALの皆さんこんにちは。プロンプターという仕事をはじめて知りました。オペラ歌手が歌詞を忘れたりしたときのために観客に見えないところで歌詞を教える仕事で演劇にもあるそうです。そのプロンプターの女性が主人公。結婚相手が、再婚で自分の都合を優先させる医者。彼も慣れない再婚で、こどもの要求や元妻の扱いに、ふらふらしているというさほど悪意の人ではないのだけど、ノルウエーは閣僚の4割が女性でこの8月に王子がシングルマザーと結婚したという平等先進国、ライフスタイルの自由な国と思っていただけに、妻の仕事に興味も理解もなく家事を優先することを要求する男性が出てきたので、「へえーっ。日本と同じ」と思いました。主人公は言いたいことを押さえて葛藤して、最後に、元妻にいじわるしたり、オペラ本番で舞台に出ていってしまって歌詞を覚えない歌手を非難してしまったり、あまり器用でない形で葛藤を爆発させてしまいます。そして行き場をなくした彼女をチェロ奏者が受け止めてくれる。アメリカ映画の「グッドナイトムーン」(ジュリアロバーツ主演の)と設定は似ているけど、あちらは元妻も含めて皆で家族のようになれるというおとぎ話。この映画の方が心理描写が現実的で納得しました。さすが女性監督。劇中劇「アイーダ」を本当に見たくなった。パンフに現代版「人形の家」とありました。なるほど。



A.W.さん 01.11.1
映画「コレリ大尉のマンドリン」---良かったのでご紹介。
 監督は「恋に落ちたシェイクスピア」のジョン・マッデン。イギリスのベストセラー小説の映画化。長い時を経ても変わらない人間の慣習・文化、悲惨な戦争の中で人間に与える音楽の力、第2次世界大戦下で同盟を組んだドイツ軍がイタリア軍兵士を集団処刑したという知らなかった事実、同じ女性を愛した異国籍の男性どうしの友情、美しい島と要衝の地にあったための悲劇、といくつものメッセージがあり、久しぶりに満足度の高い映画でしたが、中でも、まだ女性が仕事を持つことが当たり前でなかった1940年代のギリシアの小さな島で、誇りをもって結婚に流されない自分の人生を生きることを娘に教える父親と、自分の心変わりを悩みながら成長し、職業を持ち愛情を貫くヒロインのペラギアがとても魅力的でした。良かった割には映画館すいていましたよ。


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