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03.09.23
「永遠のマリア・カラス」 フランコ・ゼフィレッリ 2002 イタリア・フランス・スペイン等5ヶ国合作
 まだ熱烈なワグネリアンだった頃のニーチェは「世の中に幸せな人とそうでない人がいる。それはワグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を観劇した経験を持つ人とそうでない人がいる事である」と語ったと言う。私は趣味を問われると「オペラを聴くこと、観ること」と答えることがあるが、そういう時に心の中でこのニーチェの言葉を想起する。何故なら私のオペラ視聴体験にはマリア・カラスの存在が欠落しているからだ。録音状態のあまり良くないカラスのCDを時々聴くだけのオペラ ファンだからである。実際そんな僻みを持たざるを得ないほどカラスの存在は伝説化され、非凡な才能に関する記述は音楽書(特にオペラ関連)にあふれている。
 「オペラでは優れたプリマドンナに対して『ディーヴァ』(女神)という尊称を与え呼称するが、英語のTHEにあたるLAをつけて『ラ・ディーヴァ』と呼ばれるのはカラスだけ」(本間 公「思いっきりオペラ」宝島社)といった類の例は枚挙にいとまがない。彼女の全盛期といわれている1951〜1956年頃の映像が存在していれば空腹感も充たされるのだろうがそれも望みようもない。そこへこの映画である。加えて監督・脚本は実際にカラス主演のオペラ演出を手がけたことがあるフランコ・ゼフィレッリ。オペラ演出家であるとともに「ロミオとジュリエット」(1967)など上質な本物志向の映画で我々を楽しませてくれた名匠である。特にドミンゴとのコンビで創った「椿姫」、「オテロ」と言ったオペラ映画の分野では他の追従を許さない。ゼフィレッリならいま触れることの出来ないカラスの実像により近い映像を現出してくれるに違いないと胸踊らせて映画館に足を運んだ。

 結論から先に述べるなら、この映画にマリア・カラスの偉大なる足跡の一端をバイオグラフィック的に求めていた私の期待は裏切られた。が、しかしゼフィレッリが描出した創作劇は、そんな不満を吹き飛ばし格別の充足感と感動を与えてくれる。とにかく着眼点が素晴らしい。引退したカラスがパリのアパルトマンに逼塞していた事実に基づき、そこから先は自由にストーリィを展開、定評ある本格志向の流麗たる演出と、カラス役のファニー・アルダンの入魂の演技で一分の弛緩もなく孤高の「ラ・ディーヴァ」の姿を我々に伝えてくれる。

 1974年の東京公演で自らの声の衰えにショックを受けたカラス(このリサイタルはNHKソフトウエアのLDで見ることが出来る)は引退を決意しパリで隠遁生活をおくっている。そこへ音楽プロデューサーである昔の仕事仲間が訪ねて来る。彼はカラス主演でオペラ映画「カルメン」を撮り、不世出の天才歌手の生活に再び活力を与えようとする。問題の声は、カラス自身の全盛期の録音盤をあてはめると言う企画だ。彼女は躊躇するが結局は承諾。ひとたび撮影が始まると役柄に没頭し納得がいくまでリハーサルを繰り返えす。労働時間を気にする周囲の思惑など無視して完璧な役作りにつとめる。完成後、関係者だけの試写会が開かれ出席者全員から絶賛の拍手を浴びるが、カラスはこの映画の公開に許可を与えない。録音盤の声を使用したこの映画は「やはりフェイク(偽物)」だと主張。次は「椿姫」をと意気込んでいたプロデューサーも承認せざるを得なかった。

 このようにストーリーは単純である。が、随所に張り巡らされているゼフィレッリならではの仕掛けに快くハメられていく自分に気がつく。冒頭パリの空港に到着したプロデューサーは機内で見かけたハンサムな若い画家にデートの申込みをする。彼の愛人となったこの画家はその後も随所に登場しカラスとの絡みもある。ホモセクシュアルな人間関係がこれほど自然に、ごく当たり前の事として周囲に融和する映画も珍しいが、これら一連の描写は以前読んだジョーン・パイサーの「レナード・バーンスタイン」(文芸春秋社刊)の中での印象的な記述を思い出させる。

 ・・・1954年にカラスはイタリアでバーンスタイン指揮、ルキーノ・ヴィスコンティ演出で「夢遊病の女」を上演したが、そのオープニングのあとのパーティーで彼女はヴィスコンティに目をやりながらバーンスタインに「どうして魅力的な人はきまってホモセクシュアルなのかしら?」と問いかける。

   ゼフィレッリ自身の投影であるこのプロデューサー役は、カラス周辺に登場した幾人かの人物の統合だという。その実状の一端は上記の引用文からも十分納得いくものだ。

 特筆大書すべきは劇中劇ともいえるオペラ映画「カルメン」で、さわりの箇所を断片的に見せられるのだが、ドラマティック・ソプラノと呼ばれたカラスの声の表情の凄さにはやはり圧倒されてしまう。映像の盛り上がり方も尋常ではない。実際のカラスは舞台ではこの役を演じたことが無いと言うのだから、オペラ演出家ゼフィレッリの「見果てぬ夢」がこうした形で映像化され、熱気の渦にまきこむのだろう。また製作過程を描写することによって、伝説化されている役作りにおけるに完全主義者カラスの、全力投球する姿を余すことなく伝えてくれる。

 映画「カルメン」の完成後、プロデューサーはカラスに「次は『椿姫』でどうか?」と問う。ゼフィレッリの代表作のひとつ「椿姫」は私の愛してやまないオペラ映画だが、唯一の瑕はヴィオレッタ役のストラータスの高音である。素人の私でも第一幕の聴かせどころ「ああ、そはかの人か〜花から花へ」の箇所は聴いていてこちらが苦しくなる。おそらくゼフィレッリはこの役を全盛期に三点ホ音を出したと言うカラスで撮りたかった思いがあるのだろう。それがこの台詞になっていると感じた。

 映画の公開を拒否するカラスの台詞「フェイクだから・・・」と言う一言も暗示的だ。「不世出の『ラ・ディーヴァ』カラスの芸術と人生をどんなに上手くなぞっても、それはつまるところ『フェイク』である。何人も立ち入れない至高の芸術と人生を描くとしたらこんな形にならざるを得ない」と言うゼフィレッリのメッセージにもなっているからだ。

 映画はベルリーニ作曲「ノルマ」の『清らかなディーヴァよ』の絶唱でしめくくられる。カラス本人の声であることは言うまでもない。        織田 充




03.09.02
永遠のマリア・カラス  フランコ・ゼフィレッリ監督 02年
 朝一番でも並ぶほど人気と聞いていた。それだけでなく、彼女自身が歌ったオペラのアリアが映画中に流れるというので、絶対いかなくちゃと決めて朝一番で見た(ただし、今は上映館を増やして上映中なので今は朝一番なら余裕です)。マリア・カラスについては、20世紀を代表するオペラ歌手といういう以外には、オナシスの元恋人だった、痩せるためにぎょう虫をお腹の中にわざわざ入れた(本当かしら?)という程度にしか知らなかった。
 この映画は、オペラ演出家でマリアの友人であったフランコ・ゼフィレッリが、フィクションの形を借りて、彼女が亡くなる直前の数ヶ月を描いたというもの。オナシスを失い(オナシスはケネディ夫人と結婚)、美声を失い、パリのアパルトマンにひきこもり、薬を手離さないというカラスが、カルメンの映画化の中で再び生きる意欲を取り戻すが、若き日の声と今の映像をあわせるという手法に納得できず、莫大な費用をかけて製作した映画を廃棄するというストーリー(フィクションらしい)である。最後に、緑の中を「もう少し散歩するわ」と言って1人で歩いていくシーンが、静かにそれなりに強く生きる姿をにじませているのだが、かえって、本当のマリアは、もっともっと悲惨だったのだろうと感じさせた。美貌・美声・名声・お金を手に入れた彼女が、本当に欲しかったのは愛情だったのではと解説されている。また、「天才であった彼女も、こと恋愛に関しては、従来の男と女のありかたを踏襲しようとした。男に奉仕するのが女の幸せだと」「母になれなかったことを嘆いた」と解説にあった。日本でいえば、美空ひばりとフジコ・ヘミングを思い出した。美空ひばりが、最後、いつも淋しい、淋しいと言っていたという話(これも本当?)と重なるように感じた。生き方としては、マリアや美空ひばりよりも、フジコ・ヘミングの方に軍配。フジコ・ヘミングがブレイクする前、聴力を失い、コンサートの場を失い、日本に帰国し、孤独でも1人で(猫はたくさんいるが)しっかりと生活していたという方に共感する。ただし、映画としては、マリア・カラスの表現豊かなソプラノがたっぷり流れ、高い芸術をめざす意思の強さにうたれ、オペラファンには絶対おすすめである。録音がもっとよければ、あるいは生で聞いたら、どんなにか素晴らしい声だっただろうと思った。  F




03.08.26
『延安の娘』(監督:池谷薫/2002年/日本)
 長編ドキュメント。
 果てしなく続く高原が何度も画面に登場する。あるときは緑にあふれて、あるときは一面雪におおわれて。ここは中国革命の聖地といわれる延安。1935年、毛沢東の率いる「長征」が行われた場所であり、それから約30年後の1968年、いわゆる文化大革命で都市の青少年を農村に送り込んだ「下放」政策が行われた場所である。
 それからまた30年の月日が経って、2000年、延安の貧しい農村で両親を探し続ける若い女性海霞が、父親を探し当て、再会するドキュメントである。
 下放政策は10年続いて、農村に強制的に送られた若者は1600万人に及んだ。慣れない農村生活の中で、重い労働のノルマを課せられ、恋愛も厳しく取り締まられ、プライバシーなどまったくなかった。
 その中でも恋をし、妊娠した人々がいる。しかし、処罰を恐れて子供を育てることができず、ひそかに養子に出さざるをえなかった。海霞もそんな育ち方をした1人であった。
 彼女が実の親を探す過程で、文化革命の闇の面が炙り出される。親探しを支援する黄玉嶺もまた、下放政策の中で恋人に妊娠中絶せざるをえなくさせ、彼自身も反革命を宣告され、5年の強制労働の刑にあった。また、彼の友人は性関係すらないのに、都会からきた女性をレイプし堕胎させたというえん罪で15年の刑にあった。当時の責任者を探し出して問い詰めるが、彼はもはや年をとっていて責任のある答えができない。
 そしてようやく海霞の父親の消息が判明する。父親王露成は北京郊外の下町に住んでいる。近代的な高層ビルがたちならぶ北京と違って薄暗い路地の奥の小さな窓もないような家に彼は住んでいる(暑いのかいつも王は上半身裸だ)。彼ら下放世代は、中学途中の学歴しかないため専門の知識もなくホワイトカラーにはなり得ない。賃金も低く生活は安定しない。いまも文革の傷跡がどうしようもなく残っているのだ。
 たびたび画面いっぱいにあらわれる当時の少年たちは、赤い「毛沢東語録」片手に毛沢東をたたえ、その眼は未来に向かってきらきらと輝いている。その行く末が黄玉嶺であり王露成である。
 この映画は国家の個人に対する暴力を声高ではなく、暴力の結果である現実を提示する形で示しているだけに説得力がある。
 海霞は父親には会うことができるが、再婚している母親は夫に遠慮して娘に会うことをしない。一方、父親も再婚しておりその妻は夫に娘がいたことを告げられておらず、突然の海霞の出現に一時は泣き喚くのだが、説得されて、母娘として仲のよい関係を結ぶ。家庭における男女の関係が決して平等であるわけではないことが透けて見えてくる。
 見終わった後、辛さとどこにも向けようのない怒りがこみ上げてくる映画である。
 数種の映画祭でドキュメンタリー賞受賞。この秋11月11日より東京都写真美術館でロードショー。




03.08.26
『翼をください』(監督:レア・プール/2001年/カナダ)
 カナダの寄宿女学校を舞台に、10代後半の女の子同士の恋愛を描いた映画。
 メアリーは実母を亡くし、父とその再婚相手と暮らしていたが、森に囲まれた寄宿女学校に編入することになる。同室は、たばこを吸ったり教師に反抗的な態度をとったりと奔放なポーリーと、明るく人懐っこいトリー。ポーリーとトリーはとても仲がよく、じゃれあったりしていたが、二人は永遠の愛を誓い合った恋人同士だった。メアリーはやがてそのことに気付くが、自然に受け入れる。物語は、語り手的存在のメアリーと、ポーリー、トリーを中心に展開していく。
 3人はお互いに辛い過去のことや家庭環境について語り、親密になっていった。ポーリーとトリーの愛も確かなものに思えた。ところが、ある日ポーリーとトリーが同じベッドで裸で寝ているところを、トリーの妹に目撃されてしまう。厳しい両親に反発しながらも期待を裏切れないトリーは、噂が広まってポーリーとの仲が両親に知られるのを恐れ、ポーリーに冷たい態度を取り出す。まさに手のひらを返したようで、そりゃないよ、という感じなのである。アリバイ作りと、ポーリーとの関係を終わらせるために、兄の友人ジェイクと付き合い始めるといったことすらする。
 ポーリーは、トリーとの関係を取り戻そうと、必死の行動に出る。家族を招いての学校のパーティーで、父親と踊るトリーに男装のポーリーが近付き、父親から奪い取って踊る。図書館で求愛する。その様子は、見ていて痛々しかった。
 ポーリーはとうとうジェイクに決闘を申し込む。メアリーが見守るなか、ポーリーとジェイクはフェンシングの剣を交え、ポーリーはジェイクの足を刺してしまう。そして物語は悲しいクライマックスへと向かう。
 トリーを取り戻そうとするポーリーは、「雄雄しい」。こっけいなほど。私はこのポーリーの雄雄しさが、非常に気になった。ポーリーの常軌を逸した(ともいえる)行動は、気持ちとしては非常にわかるけれど、男装までしてしまうというのは、「性別など関係なく、トリーだから愛している」というのと矛盾しているような気もする。ちょっと納得がいかない。何かと対決しようとするとき、奪おうとするとき、強くなろうとするとき、男ジェンダーにならざるをえないのだろうか。
 映像も美しく、少女の熱く強い思いに心打たれたが、トリーの世間体や両親の愛を重んじる保身的なところと、ポーリーの行動の「こっけいさ」が、すっきりしないものを残した。                         (パンツ派)




03.08.12
「talk to her」  ペドロ・アルモドバル監督 2003年
 「オール・アバウト・マイ・マザー」から3年経てのアルモドバル監督の新作「トーク・トゥ・ハー」。前作と同じく、チラシやパンフレットでも全面に出さ れた女の顔がまず強烈なインパクトを放つ。
 交通事故により昏睡状態になったアリシアを4年間ずっと介護してきた男、ベニグノ。美しいバレリーナ、アリシアへの思いを秘めた4年間は彼にとって至福の時間だった。ある日、女闘牛士のリディアが競技中の事故により同じ病院に運ばれてくる。昏睡状態のリディアを見て落ち込む恋人マルコをベニグノが励まし、やがて男同士の友情が芽生えていく。しかし、ベニグノの中のアリシアへの思いはもはや抑えることができないまでに大きくなっていて、それが奇跡と同時に悲劇にもなり、アリシアとベニグノの決定的な別れにつながっていく。
 赤と青の色合いは、映画後半に向き合うベニグノとマルコのガラス越しの対話に通じ、同性間のつながり・友愛を想起させる。ストーリー、撮り方、演出。そのすべてから、飾りものでない生身の女に対しての敬愛が感じられた。
 作品に出てくる舞踏家・ピナ・バウシュへの監督の敬愛の深さも自然に重ねられている。パンフレットに<私から皆さんに贈る抱擁です>と監督のコメントがあるが、見終わってから私自身も<女であること>を慰撫された気分になった。
 介護士ベニグノの解釈は分かれるかもしれない。ストーカーでもここまでやったら真実の愛なのだ、人を愛することは美しくはかないことなのだ、など、観た人によって<盲目的で献身的な愛に何を加味させるか>が変わるだろう。
 ロミオとジュリエットの立場が逆転したようなベニグノのラストの心情吐露は、男の“ガラス度”を現代テイストで見事につづっている。
 孤独な彼を立ち上げる小道具として、ベティちゃんのTシャツやプーマの鞄、抱き続ける愛するアリシアの髪留め・・・と細部に渡りゆるみない演出が効いている。アリシアの病室の棚に何気なくジャン=ポール・ゴルチェの箱が置かれていたり、シビラやアニエス・べーが衣装や台詞のはしにさらりと出てくるあたりも抜け目ない。
 さて、私がこの作品で、ジェンダーの視点を感じたもっとも重要な人物・女闘牛士のリディアについてここで書いてみる。
 父親の夢を背負って、母と姉は「女の子だから」と反対していた闘牛士の道を選んだリディアは、競技の前に結婚式に参列する。「結婚式を見るのが好き」「(新婦は)若いのね」と言うリディアの言葉は従来の結婚観ではおさまらないポスト・フェミニズムを生きる女性の声に聞こえた(リディアは33歳の設定だ)。
 彼女が牛と戦うシーンでは音楽もあいまって涙があふれた。生への懸命さに揺さぶられるのだ。あれほどせつない闘牛シーンは他にないだろうと思う。
 アリシアは言うなれば、フェミニズムに目覚める前の童女であり、リディアは自らの血を流しながら自己を獲得していく大人の女。二人を対比して観ても面白い。(ただしリディアの顛末は別にして)
 ところで、主人公のベニグノは「雨の日が好き」で、彼の運命の転機となった雨を静かに見つめる。前作「オール〜」でも息子が事故死するのは雨の夜。雨の日は思いが巡り、運命が交錯する予感にあふれているのだ。  (氷室かんな ペンネーム)




03.08.12
「小さな中国のお針子」(監督、脚本、原作ダイ・シージエ/2002フランス)
 この映画を見終わったあと「これは中国版『人形の家』だナ」と思った。「自分のことや、世の中のことを知ろうというんですもの、それには独りきりにならなくちゃ。だからもうこれ以上、ここにいるわけにはいかないのよ」(イプセン『人形の家』 岩波文庫 原 千代海訳)。夫ヘルメルに家出の宣言をするノーラの台詞(第三幕)がほぼそのまま置き換えられてこのフランス製中国映画のヒロインの口から出る。”小裁縫”(小さなお針子)は恋人でもあるボーイフレンドに別れを告げて村を出て行くのだ。

 1971年中国。毛沢東の下放運動のとばっちりを受け、ともに父親が医者である親友同士の青年二人が、山郷の僻村におくられて農村で再教育を受けることになる。苛酷な労働を強いられるのだが、歌といえば「共産党賛歌」、書物といえば「毛沢東語録」しか知らない(それも読めない)村人たちにとって、ヴァイオリンを弾き、目覚まし時計を持った二人の青年の存在は驚異である。隣の村で開催された映画会にも村代表として観に行かされ、そのストーリーを村人全員に語る役目を仰せつかる。そんな生活の中で“小裁縫”の手引きで、当時禁書とされていた西欧の書物を手に入れた二人は、ユゴー、スタンダール、ドストエフスキィ、ロマン・ロランなど、それこそ世界名作文庫の世界に没入する。そしてその感動を”小裁縫“に物語として伝え、彼女は未知の世界で繰り広げられる人間の生き様に激しく感情をゆさぶられ、とりわけバルザックの『ユルシュール・ミルエ』に魅了される。バルザックの描いた女性像に感情移入され自我に目覚めるのだ。青年の一人と自由恋愛を楽しみ彼の子を宿すが中絶し、彼の制止もきかず『自分探しの旅』にでかける。ノーラが二人の子供と出世が約束されていた夫をのこして家出したように・・・。

 プロレタリア文化大革命(1966−1976)を背景にして、個人の自由が奪われ、生活も破壊され、運命に弄ばれる悲惨なドラマを私たちはあまりにも多く読まされ、観続けてきた(小説『ワイルド・スワン』、映画『青い凧』など)。問題がドラスティックであるだけにドラマになり易いのだろうが、玉石混交、重いテーマの繰り返しにはいささか食傷気味であると言ってよい。この映画も文革を背景にして物語を展開しているのだが、文革は主役ではなく、強制的に党利党略に専心させ、芸術的には無知な人間たちを生み出す背景要因として描かれている。主眼は物語や文学、音楽が人間の感性にどのよう働きかけ、生き方に影響を及ぼすのか数々のエピソードを通じて私たちに語りかけているのである。冒頭、青年二人は村長以下主だった村人たちに面接審査と持ち物検査を受ける。青年の一人が持っていた小提琴(ヴァイオリン)を始めてみた村民はそれが何か判らない。仕方なく青年は楽器であることの証しとして、メロディを奏でる。字幕ではモーツアルトのヴァイオリン・ソナタと出るが、K.334の喜遊曲の第三曲「モーツアルトのメヌエット」として親しまれているおなじみの旋律だ。

 村長:「これはなんと言う曲か?」 青年:「莫札特(モーツアルト)と言う人が作曲した『毛主席を偲んで』と言うソナタです」

 言うまでもなくこの曲も禁曲であるが、青年の機知で楽器破壊の難はまぬがれる。
滔々としたモーツアルトの旋律が緑に覆われた美しい山並みに流れる。有史以来この地に鳴りわたる始めてのモーツアルトは人々の心に、そして大自然にしみこんで行く。冒頭のこのシーンに本映画のモチーフと終始映画を支配するムードが凝縮されているといってよい。従ってこの映画の持つ肌触りは極めて優しく、ユーモア感覚にあふれている。その点が他の文革映画と明らかに異なる好感度を私たちにあたえてくれるのだが、それがまた、僻村の生活を一種のユートピアと化しているため、“小裁縫”が村を出て自立したいという願望にあまり必然性を感じさせない。
「誰に示唆を受けたのか?」の問いに対し「バルザックさんよ」と答えても、彼女のボーイフレンド同様私たちも納得しきれない。

 ただ、この映画の作者(演出・脚本)であるタイ・シージエ氏がフランス語で書いた原作が世界的なベストセラーでありながら、英語で書かれたユン・チュアン女史の「ワイルド・スワン」同様、未だ中国本土での翻訳出版がなされていないことや、この映画自体も中国での公開予定がない現状を知るときに、現代中国における女性の自立と自律の確立には未だ多くの時間を要するのであろう事を私たちは認識する。ノーラの家出は苦境のなかで自らを見つめ直したぎりぎりの選択で今日的視点からみても共感を呼ぶのだが、”小裁縫”の選択は上述のごとき中国の社会情勢からみても作者が願望を托した形而上的な象徴行為として我々は受容すべきかもしれない。

 原作でも映画でも、多くの文豪の名前と作品が紹介されるが、イプセンと『人形の家』には触れられていない。作者は原作の後書きで、「この小説は自身の体験に基づいて書いた」と明言している。だとしたら、たとえ名前は出ていなくても、青年たちが手に入れた書物のなかにイプセンの作品もあったこと、つまり青年時代の作者が『人形の家』に触発されていた事がこの作品を創作した遠因であると推測してもあながち的外れではないと思うのだが・・・。(織田 充)




03.08.05
「ブルーもしくはブルー」(中谷まゆみ脚本・NHK総合)
 NHKが山本文緒の「ブルーもしくはブルー」(角川文庫)をドラマ化し、3週連続で放送しました。登場人物がいくらか脚色されていたとはいえ、初めの方は原作通りだったので、わくわくしましたが、最後の2日間は見るに耐えない結末。なぜかDV夫が反省して急に暴力を振るわなくなり、もう一人の主人公の夫は恋人と別れて家庭に帰る・・・。それぞれの結婚を見直して「隣の芝生は青く見えるものだ」と陳腐な言葉で締めくくっていました。

 原作はというと、DV夫を持つ主人公の方は離婚に向けて踏み出し、都会の退屈な主婦の主人公の方は、恋人と結婚を決意した夫に離婚を切り出され、決心がつかないままミシン掛けのパートを始めるという内容。
 自由と束縛をテーマに、重いテーマを結論の出ないまま描いていました。

 最終回後、私の周囲では大ブーイングが起きたのに、NHKのドラマ掲示板には「ハッピーエンドで良かった」との書き込みばかり。NHKさん、投稿掲載のバランスを逸していませんかい(笑)?
 「ふたりっこ」の大石静さんが、朝ドラで主人公を離婚させる時、NHKからいろいろ言われた、とコラムに書いていらっしゃいました。

 原作と違うハッピーエンドに手放しで喜ぶ視聴者が多いとしたら、罪は大きいですね。妻がちょっと我慢すれば、DV夫は暴力をやめると思われたら、どうするんでしょ。     (もっとブルー)




03.07.15
『月の砂漠』(監督:青山真治/日本/2003年)
 三上博史主演? ウーン暗い映画だろうなあと思ったらやっぱり。
 日本映画を久しぶりに見たせいかテンポが遅くてイライラした。とくに前半。後半余り気にならなくなったのは、このテンポに慣れたのかそれともストーリーの展開がドラマチックになったせいか。
 ベンチャービジネスの成功者永井恭二(三上博史)はマスコミの寵児。TVでは成功談を語り、街の広告塔には彼の顔のドアップが。高級住宅に住み美しい妻アキラ(とよた真帆)とかわいい娘がいるが、彼女たちは彼の撮影した写真やビデオのなかでだけ輝く笑顔をみせている。仕事に夢中で妻子を顧みない夫というパターンだ。
 アルコール依存症気味でしばしば両親の幻影をみるアキラは、娘と一緒に山奥の誰も住んでない実家に帰って娘と二人で暮らそうと決心している。
 この壊れかかっている家族に、恭二に妻子探しを頼まれるホームレスの男娼キーチやその仲間のツヨシがからむ。この二人は父親との関係にトラウマがあるらしく、「父親」を殺すことにアイデンティティを見いだしている。実際にツヨシは拘禁している父親を拳銃で至近距離から撃ち殺す。
 おごれるものは久しからず。やがて恭二は会社創立時代からの友人の離反にあい、彼の生き甲斐だった会社を喪う。家庭も社会的ステータスも失い自暴自棄に陥った恭二は、キーチに強引に人里離れて住む妻子の所に連れられていく。
 ここで、拳銃片手のキーチと恭二のやりとりがあり、撃たれた恭二がキーチの後を追って妻子をかばってキーチの銃の前に敢然と立つ(ここらあたり、三上サンのオーバーアクションが好きな人にはこたえられないだろうが、そうでない人には胃にもたれるような)。この家族の再生を見たキーチは身を翻す。
 都会的な家族が庭先で鶏を飼いながら自然に囲まれた牧歌的な生活をいつまで続けられるだろうか。自然に癒されることはもちろんあるが、自然は厳しいもので時に人間に牙をむくものであるからして。そして危機の前で家族の求心力が復活するというテーマはあまりにも言い尽くされたことではないだろうか。
 幼いときに母親に買って貰った動物の木型を宝物入れの中にみつけたアキラが、らくだを月にかざす場面やキーチの携帯の着メロが「月の砂漠」だったりの小物使いが美しい。しかし、「現在の家族の肖像を鋭く描いた極めて今日的作品」であるには、ユニークさに欠けていないだろうか。またキーチやツヨシといった現代の若者のエピソードと本来のストーリーが有機的につながっていないように感じられ残念である。
 カンヌ国際映画コンペティション部門招待作品。
 9月よりテアトル池袋などでロードショー予定。




03.06.24
『シカゴ』(監督:ロブ・マーシャル/2002年/アメリカ)
 突然歌や踊りになるミュージカルはわざとらしくて嫌い。それにセクシーな映画は苦手。それなのに見に行ったのは一風変わった女性の友情物語だという映画評が頭に残っていたせいである。破天荒な映画であるが、エンターテイメントとしてよくできていて、展開は早いし大衆の飽きっぽさや陪審員制度などへの社会風刺もあっておもしろい。
 時代は1920年代。場所はシカゴ。ミュージカルスターになることに憧れているロキシーは、うだつの上がらない夫の目を盗んで芸能界にコネのある男と愛人関係にあるが、それがまったくの嘘だとわかって彼を射殺。一度は夫が罪をかぶろうとしたが、ロキシーの不倫が分かって、夫は怒り、結局ロキシーは刑務所に。そこに彼女が憧れていたミュージカルスターのヴェルマがいた。彼女もダンスパートナーだった妹と夫の不倫現場をみて頭に血が上り二人を射殺したのだ。この二人だけでなく他にも男を殺した女性たちが収監されていた。彼女たちがなぜ男を殺したのかがダンスと音楽で紹介される。ここがまずいい。
 女性の監獄には女性の看守がいる。みんなから「ママ」とよばれる体格の良いボス。このママ、賄賂をうけとれば囚人のために何でもしてやるという一筋罠ではいかないびっくりの女性。金使いの良いヴェルマのために腕のいい弁護士ビリーを紹介したりしている。正義のためとか人権擁護とかご託を並べないところが余りにもからっとしていて怒る気にもならない。
 1つの事件では弁護士も飽きるしお金も入ってこない。野心家で「銀色の舌」をもつという辣腕弁護士ビリーはモンローばりのキュートなロキシーの弁護も引き受ける。ロキシーを修道院育ちの純情可憐な女性に作り替えて、マスコミを味方に引き込む作戦。ロキシーを操り人形のように扱うビリーとの踊りが笑える。作戦は成功してマスコミやビリーの関心はヴェルマからロキシーに。刑務所の中で断然優位だったヴェルマに代わってロキシーが上位に立つ。だがまた新たにヒロインが生まれればマスコミも弁護士もたちまち彼女に走る。でもロキシーはあきらめない。「実は妊娠している」という爆弾発言で再び関心を引き寄せる。これも嘘。だがロキシーは身体をはって産婦人科医をも味方につけてしまう。あっさりした描き方だがロキシーのあざとさがうまく表現されているシーン。
 見せ場は法廷の場。ビリーの得意な弁舌とロキシーの迫真の演技で陪審員に迫る。ここは世評の高いビリーを演じるリチャード・ギアの扇情的なタップが効果的に使われていて(陪審員を彼が説得していく過程とそれに雪崩を打っていく陪審員の納得していく感情の流れを象徴している)、従来にない法廷シーンとなっていて見もの。
 釈放されたロキシーとヴェルマ。二人組んでのダンスは自分たちの犯罪をネタにしている。セクシーでダイナミックなダンス。最後の決めのポーズは二人が機関銃を構える。やんやの喝采、観衆の中には「負けたあ」という笑顔を見せているビリーの姿も。
 「私たちは歩き続ける」というフレーズがリピートされるエンディングの曲も力強い。
 フェミニズム映画の原典とも言われる「テルマとルイーズ」をもっとキッチュに軽くしあげたものである。ロキシーとヴェルマのあいだにあるものは、友情と名付けていいものか。ただお互いに利用し合っている関係にすぎないかもしれないが、とにかく男たちには頼らないずぶとさがある。ビリーの助けを借りたにしても、マスコミや裁判という巨大権力をだまし通したロキシーは自分の力に十分な自信を持ったはずだ。だからヴェルマからのコンビの申し入れに「私の名前が上よ」と言う。これを受け入れたヴェルマもなかなかしたたかだ。
 暗黒街といわれるシカゴで、まさにからだ一つでのし上がった女二人。爽快感はたしかにある。善玉・悪玉の描き方が類型的でないのがなによりいい。
 ロキシーを演じるレニー・ゼルウィガーはたよりなげでかわいく、ヴェルマのキャサリン・ゼタ=ジョンーズはちょっと神秘的で風格があり、息のあった踊りを見せてくれて、楽しめる。




03.06.17
「めぐりあう時間たち」(ステーィヴン・タルドリー監督・2002年・アメリカ)
 「めぐりあう時間たち」は、愛と死の極限に直面した人間の「決断の厳しさと美しさ」を、年代と場所の異なる空間を自在に交叉するという画期的な話法によって活写。人類の抱える普遍の命題を鮮やかに浮き彫りにして私たちを感動させる映画である。

 1923年のロンドン郊外のリッチモンド、1951年のロスアンジェルス、2001年のニューヨーク。それぞれの場所で3人のヒロインたちが過ごす「ある一日」を描写しているのだが、作品は3つのエピソードを時系列的に連ねた「オムニバス映画」ではない。この映画の製作に携わった作家たちは、時空を超えた3つのストーリーを言わば同一のストーリーとして扱い、スクリーン上で同時展開しているのである。そのため、時を経ても「人間の魂の命題は同じように繰り返される」と言うこの映画のモチーフが驚くほど強烈に迫ってくる。
 実際はスクリーンを3分割しない限り異なる年代の3つの話しを全く同時に進行する事は不可能だが、彼らは限界ぎりぎりの挑戦でテーマの普遍性を展開の同時性によって強調する構成に挑んでいる。したがってこの映画の画面は冒頭からめまぐるしく場面展開し、年代も交叉する。その手法の必然的な重要性に我々はある瞬間から気がつくのだが、開始後かなりの間は正直なところこの新しい映画文法に馴染むことが出来ず戸惑いを感じざるを得ない。ところがその戸惑いが取れたあとは、文字どおり襟を正して画面に魅入ることになるのだ。
 戸惑いはどの場面で払拭するのか?観る人それぞれだろうが、何の予備知識ももたずに観た私の場合で言うと、この映画の3つのエピソードの中に存在するいくつもの共通項を統括する大括弧付きの共通項が、ヴァージニア・ウルフの「ダロウエイ夫人」であることが掴めた段階からである。具体的に言えば2001年のヒロインである編集者が、訪ねてきた友人に、自身が献身的にサポートしている詩人の近況を話すくだりで「・・・始めて同宿した次の朝、彼が私のことを『ダロウエイ夫人』と呼んでくれた・・・」と語るくだりのところであった。したがって、前半の戸惑いが反転して、あらためて感動し直すと言う稀有な体験を味わったのは、かなりの時が過ぎてからと言うことになる。
 このことは私だけに起こった現象ではなく、大半の観客が、きっかけは異なるにしろ、同じような知覚体験を強いられるようで、本編の上映の前、この映画には「リピーター鑑賞割引制度」が存在していると案内アナウンスがあったのはこの故なのだと改めて思い知った。
 蛇足ながら、私は今までヴァージニア・ウルフにあまり興味は持っていなくて、「ダロウエイ夫人」も読んでいない。そのことが上記作品の理解度にどのくらい影響したのか、出来るだけ早期に同書を読むことによって見極めて見たいと思っている。(織田 充) 




03.02.18
「一票のラブレター」ババク・パヤミ監督 イラン 2001年
 ストーリーは単純である。選挙にまだ慣れない島の人々に、選挙管理委員会からきた女性が、投票をよびかけ票を集めて夕方帰っていく。その1日の風景を淡々とおさえた演技で描く。彼女を護衛することを命じられたのが軍の兵士。最初は、女性に命令される側になることに抵抗する。島の人が兵士の銃をこわがるのをみて、女性が彼を皮肉る。兵士はむくれて帰ろうとしたりする。そんなことがありながらも、二人の1日の旅は続く。女性30人連れてきて全員分を代わりに選挙しようとする男性(一夫多妻)、男に聞かなければ選挙できないと断る女たち、岩の下に投票して帰ってしまった人たち、神様に投票する男性、墓の区域に入れてもらえない未亡人から「あなたは自分のために票を集めているのよ」と批判されたりする。兵士は、いつのまにか、まだ若くて真っ直ぐで古くからの慣習に圧倒されながらも諦めずに投票を呼びかけ続けるその女性にうたれて恋心をいだく。それがほのかに彼女に示されるのは、彼の「選挙を年3,4回やればいいのに」というせりふ、車は全くないのに赤信号でわざと停止したこと、最後に彼が入れた一票は彼女の名前だということ、だけなのだが、彼女は一直線でそんな彼の気持ちになど気がつきようもない。飛行機が迎えにきて女性がたちさったあと、今日は眠れそうにないからと言って、もう1人の兵士と休みを交替せず、海をみつめる。
 主演の選挙管理会の女性に扮するのは、テヘラン大学でジャーナリズムを学んでいた学生、兵士役はキシュ島で監督がたまたまみつけたトルコの青年、他の配役も島の住人。素朴な演技が、結構うまい。イスラム社会の男性優位がさりげなくうきぼりにされ、民主主義を教える映画でありながら、一方で、ペルシャ湾の美しい島、海、白い砂・・・と風景は素晴らしく、東洋風のどこかゆったりした音楽にうっとりする。暴力も暴言も出てこない、ほっと癒される映画である。




03.01.21
アイリス(リチャード・エア監督・イギリス・2001年)
 イギリスの小説家アイリス・マードックの青春から晩年に至る軌跡を描く。言葉を命とするアイリスが、次々と言葉を失っていくアルツハイマー性痴呆になり、やはり作家でもある夫の献身的な愛に支えられての晩年の生活は、多くの人々の心を揺すぶったらしく、新聞紙上の広告では、「満場の観客はこのように愛されたいと願った」というようなコピーになっていた。
 夫のジョンは、物もいわなくなったアイリスを抱きしめて、「やっと僕の物になったと思ったら、もう僕のことがわからない」とつぶやくが、それほど若き日のアイリスは、自由奔放に生きてきた。
 映画は、乱雑な家の中に蠢くように生きている老いた二人と髪をなびかせ朗らかに談笑しながら自転車をとばす青春そのものの二人とを交互に写していくが、あまりストーリーにはドラマ性がない(このあたりいかにもイギリス映画らしい重厚さといえるし、退屈ともいえる)。
 アイリスの束縛を嫌う自由な生き方は、くり返し出てくる自転車のシーンと、これまたしばしば出てくる湖を一糸まとわず泳ぎ戯れるシーンで象徴されている。しかし、壮年期のアイリスが「精神の自由こそが何よりも大切な宝物」とスピーチする場面はあるが、それだけを取り出すと堅い道徳的哲学的な説教にしか聞こえず、彼女の精神の営みが十分に書き込まれていないきらいがあって、ちょっと不満。
 プロによれば、実際のアイリスは、同性愛を擁護し、マイノリティの権利を訴える作品を生みだして、現在の欧米でも人気のある文学者なのだそうである。そういう彼女の主張があまりよく描かれていないと思う。
 だが、高齢者の精神の自立を正面からテーマにしている映画として、地味だが見ごたえがある。



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