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※頂いたおたよりをホームページでご紹介させていただく可能性がございます。ホームページに掲載されるのが不都合な場合は、「掲載不可」などとその趣旨をとお書きそえください。また、ペンネームを希望する方も、ご記載願います。



04.10.19
「父、帰る」(アンドレイ・ズビャギンツェフ監督/ロシア/2003年)
 敬愛する女性ジャーナリストが最大限の褒め言葉を送っていたので、大いなる期待をして見にいった。2003年のヴェネチア映画祭で金獅子賞と新人監督賞を受賞した作品。
 とにかく宗教的〈キリスト教的〉暗示に満ちており、思い切り寡黙な映画で謎でいっぱいの映画である。
 12年ぶりに二人の兄弟の前に父親が突然に姿をあらわす。弟が物心つく前に父親が失踪して12年というのだから、この少年たちは少なくとも15歳と13歳以上のはずだが、それにしては二人の少年が幼く初々しい。父親を迎える母親も祖母も何も事情を話さず無言であり、父親の帰還を喜んでいるのか迷惑がっているのかさえ全くわからない。父親はまた突然に二人の息子に一緒に旅に出ると宣言。兄弟は行方も目的も知らされずに父親の運転するバンに乗せられる。疾走する車のスピードの速いこと。見ているだけで乗り物酔いしそうだった。
 父のことをうっすらと覚えている兄のアンドレイは、すぐに「パパ」と呼べるが、弟のイワンは強圧的な父になじめず食事を拒否したりしてすべてに反抗的になる。この子どもたちにいまにも暴力をふるいそうな父(そんなサスペンスタッチになっている)が、私は最後まで生理的に受け付けらなかった。
 三人は結局無人島(らしき島)でキャンプをはる。この間にも父親がぬかるみにはまった車を木の枝を使って引き出す方やテントの張り方、船のつなぎ方などを息子たちに教えていく。1週間のハードな旅の中で、抵抗しながらも父親の力をだんだんに知る子どもたち。「父親は男の子が乗り越えるべき壁」だというわけである。
 そして驚愕のラストシーンとしきりに喧伝されていたので、1度死んだ父親が実は生き返るのではないかと私は思ってしまった。キリストの復活のように。
 でもそんなことがあるわけは無く、突然に事故死した父親を船に乗せて二人は帰っていく。どこに? このことも謎だが、旅の途中で父親が何度も電話するが誰に?何のために?
 島には高い櫓があったり、廃船があるのだが、この島はいったい何なのか。島で父親は地下深く掘って重そうな小箱を探し当てるのだがあれは何が入っているのか? 父親は一体全体どこにいたのか。謎は解き明かされること無くエンディングに。たんにロシアの雄大で美しい風景をもとでの二人の少年の成長物語だといっては言いすぎなのだろう。
 叱責されている兄をかばうために父親から盗んだナイフで、父親に敢然と挑むイワン役の少年の演技に高い賛辞が寄せられている。私はむしろ口数少なく圧倒的な力を持つ父親と、普段は弱虫なのに強情ぱりな弟の間で、どっちにも気をつかいおもねっている(ようにみえる)いかにも慎重な長男らしい長男であるアンドレイの方に共感した。死んだ父親と重い荷物を載せて船をこぐアンドレイの後ろ姿は、力強くて、父親にそっくりであった。
 あとでプロをよんだら、このアンドレイ役の少年は映画完成後、映画が撮影された湖で事故死したという。私が良いと思う人はやっぱり早く死ぬんだわ……



04.08.31
『モナリザ・スマイル』(マイク・ニューウェル監督/アメリカ/2003年)
 1953年、若く美しい美術の教師キャサリン・ワトソン(ジュリア・ロバーツ)は、名門女子校ウェルズリー大学に赴任した。フィルムを使って意気揚揚と授業しようとすると女子大生は指名される前から、作品の題名、作者、制作年、特徴をすらすらと答えてしまう。「教科書を読んだ人は」という質問に全員が挙手。呆然としている教師を尻目に「教えてくださる事がないなら自習にしてください」と学生たちは席をたってしまう。学生はこんなにも優秀なのだが、この大学のモットーは良妻賢母。良い成績を取るより婚約指輪を。在学中にどんどん結婚する学生たち。コンドームを配布した校医が退職に追い込まれるという保守的な校風にキャサリンは、学生に「自分で考えること」を教えようとする。教科書の知識については即答できる学生も絵について「どう感じるか」を問われると返事が出来ない。ポロックの絵を見せて「芸術とは何か・誰が芸術を認めるのか」をたたみかけるキャサリン。ぼんやりとした学生の顔に次第に光がさしてくるかのようだ。
 法律を学びたい学生のためには、イェール大学の資料・願書を取り寄せ応援する。
 そんなキャサリンに心を開いていく学生たち。だが、壁は容易には崩れない。せっかく難関の大学に合格したのに、婚約者との結婚を選ぶ学生。親の言うままにエリートブランドの男性と早くも結婚式をあげる優等生。キャサリンの自由奔放な教育方針に対して保護者や学校当局から批判の矢が。
 結局、キャサリン自身も美術の本質を学び直すためにイタリアにむかう。お別れに学生がめいめい「ひまわりの花」を描いて彼女に贈る。それは個性に満ちたものであった。
 そして、この映画の原作を書いてキャサリンの足跡を残し後世代にバトンを渡したのは、彼女の教え子だった。
 教育はすぐには効果があらわれない。いくら種をまいても伸びるのはほんのわずか。でもだからといってあきらめたら何も何も変わらない。
 この女子大を巣立った一人がヒラリー・クリントンであると知るとこの映画の描いたテーマがよく見えてくる。あまりドラマティックではないので「眠い」ところもあるが、好感のもてる作品である。
 こんなにも女性の自立をめざしたキャサリンが選ぶ男性が、なんとも弱弱しかったりプレイボーイであるのは、どうしてなのかと考えるのも一興である。



04.08.03
「家族のかたち」(シェーン・メドウス監督/イギリス/2002年)
 ドラッグストアで働くシャーリーは、娘マーリーンと恋人デックと平和な暮らしを楽しんでいたが、家出をしていた夫ジミーが突然に帰ってくる。人がよくてまじめな恋人と職もなく暴力っぽいけれど魅力的な夫の間でゆれるシャーリー。
 最後の決定を下したのは12歳のマーリーン。実の父親とよりを戻した母をみたマーリーンは、敢然と母の恋人デックと家を出る決心をする。娘に家出をつきつけられ目をさまして、勝手で自堕落な夫ではなくて、カッコはよくないが地道であたたかな恋人と家庭をつくることを決意するシャーリー。
 ジミーの姉キャロル夫婦が近くに住んでいる。6人の子持ちの肝っ玉母さんだ。キャロルははじめ弟ジミーにやさしく一時自宅に住まわせたりするが、彼がギャングとのトラブルに巻き込まれていて、そのために自分の家庭をめちゃくちゃにされそうになると、家族を守るために、弟を叩き出して絶縁する。
 シャーリーは自分の本当の父親をすて、キャロルは血縁の弟を切る。つまり血縁をこえてそれぞれが自分の意思で家族を選び直している。この二組の家族のありようが軽妙に描かれていて楽しい。
 イギリスの新聞では「リトル・ダンサー」や「フルモンティ」以上という評もあったそうだが、それほどでない。イギリス労働者階級の多分等身大の姿を描いていると思われ、好感はもてる。



04.06.15
「冬のソナタ」とジェンダー その1  ユン・ソクホ監督 韓国
 語り尽くされてもまだまだ語り尽きないこのドラマ。若干軟弱なジェンダー視点で少しひもときを。といっても、客観視できないほどのめりこんでいるので自信ありません。ストーリーは、インターネットのあちこちに出ているので省略。
 まず、ユジンと意地悪チェリン。どちらも20代後半で若いのに、ワーキングウーマンとして大成功しているという設定がいい。ユジンは、設計や現場監督ができるけど、工事現場で皆で食事中に、中年おじさんから「小娘の下で仕事できない」みたいな言い方で馬鹿にされ明らかなセクシュアル・ハラスメント発言を受ける。しかし、その途端、ぽーんと言い返し(せりふは忘れました)、皆の前で急に立ってアカペラで韓国の大衆歌謡を歌いだし、けむにまく(なんとなく音程がはずれているところがまたいい)。そして、おじさんとの力関係をあっけなく変えて尊敬させてしまう。ここは、このあとはじまる恋愛での優柔不断ユジンと違い、仕事人として面目躍如の場面である。最初、このはつらつとしたユジンとおじさんのやりとりにミニョンははっとひかれるのです。同じ場面で、ミニョンは、現場のおじさんたちからユジンがまじめで一途な人物であることを聞かされ、チェリンから聞かされている「嘘つき」とどちらが本当のユジンかと混乱しながら、はっとユジンを見るあの表情、この変がミニョンの恋がすでに始まる瞬間の1つで、好きな場面の1つ。つまり、ミニョンはユジンのまじめさや思いやりだけでなく、仕事に対する姿勢に二重◎をつけるのです。高校生時代のはつらつのびのびしたユジンがここに出てくる。欲をいえば、こういう面をもっと描いて欲しかったなー。ユジンは、このあと「苦悩と涙の人」になっていきますが、仕事人としてはどんなに辛いときもきりっと仕事をこなすのです。
 チェリンも高級ドレスのブティック経営で大成功。でも、こういうのは、メロドラマで女性のあこがれを実現するということなのかもしれない。チェリンの気の強さは、ピカ一。あまり極端な意地悪キャラなので、ちょっと実感がわきません。
 理想のワーキングウーマンのユジンに対し、婚約者サンヒョクは、結婚したらユジンが仕事をすぐやめるのを当然と思っている自分の母親に抗することもなく、ユジンをあれだけ愛していながら、仕事をやめさせようとしている。ユジンと相談すらしていないみたい。本当のユジンがわかっていない保守的男性。ここに、ミニョンとの決定的違いが。ミニョンは、「何でも一緒に」「何でも一緒に」っていう人(NHKのカットシーンですが10話の別荘での朝ごはん作りの場面) 。仕事も家事も、みーんな。料理もユジンが私がするって包丁を取り上げようとしても、僕がするっていって頑張ろうとするのです。私はここで特に冬ソナにひかれた(あるいはペヨンジュン株急上昇)。なお、その後、ミニョンが指に怪我をして包丁をユジンに渡して交替した後、男性の幻想(家に帰ると愛する妻がいて食事のしたくをして迎えてくれるという)が初めてわかったというようなことを言いますが、これは、厳しい母子家庭で孤独に育った(有名ピアニストの母カン・ミヒはとても家庭的とは言い難い存在)ミニョンには当然の結果として免ずることに。
 そして、最後の不可能の家。これこそ、2人のパートナー的関係の象徴。ユジンが設計して不可能なはずだった紙の家の模型。これをミニョンは、ユジンと別れたあと、失明する前に徹夜で必死で設計図にしあげる。まるで全人生をかけるように。そして、失明はしても命は助かったミニョンは実際に「不可能な家」を建ててしまう(その資力がある大金持ちなところが、ドラマですねー)。キム次長には1人で建てたのじゃない、とつぶやく。そして、雑誌で不可能の家をみつけてユジンは吸い寄せられるように尋ねてくる。不法侵入罪など考えず、どんどん家のなかへ。ミニョン(チュンサン)との劇的再会は2人のプロとしての仕事の合作の場所そのものでおきることになるのです。しかも、美しい海の見える場所でうっとり〜。
 もう1つ、サンヒョクは結婚後の「留学」(つまりユジンもついてこいっていうこと)をユジンに相談もせず勝手に決めていた場面があります。ながーい20話の中で1回だけだけど、ユジンが、「なんでも勝手に決めるのね」なんていうせりふをいう場面が出てくる。これもミニョンとの決定的違いなのです。ユジンに対して愛されていないってコンプレックスがあるはずなのに強引、なのです。

PS でも、2人の間で苦悩して、ぐらぐら、ぐちゃぐちゃになっているユジンを、ミニョンが「僕の言うとおりにするんです」ってひっぱって別荘に連れていくところ、そして、その前に「人生でどちらかを選ばなきゃいけない別れ道にたつときがあるでしょ。そういうときは、こんな風に引っ張ってくれる方にすすむのもいいものですよ」って、手をしっかりはさんで(かなり何度も両手でつかみなおしてすっかりつつみこんで)、語りかけるところ(9話)もいい。素敵な人にこういう風に引っ張られるのは最高。以上、軟弱なジェンダー論でした。                そのうち、続きを。A




04.05.04
『ドッグヴィル』(ラース・フォン・トリアー監督/デンマーク/2003年)
 とっても冒険的な映画である。

 黒い床に白線が引かれただけで壁も扉も屋根もない、チョークで描いた配置図の上でドラマは進行する。だからドアをノックするのも空を切っているし、ある家では父と息子が背中あわせに座って会話をしていると思うと、隣の家では5人の子どもが動き回っているという感じの鳥瞰図のなかでさまざまなエピソードが同時進行する。しかも、章ごとの字幕とナレーターが出来事を予め示す。そして3時間にわたる上映時間。テーマは受容、赦し、復讐、欲望、暴力、閉鎖空間における人間関係の葛藤、狂気の群集心理……思い切って暗く重い。

 雨の降る日に一人でこんな映画を見るんじゃなかった、と何度思ったことだろう。加えて後味が良くなく、その夜は眠れなかったくらいに衝撃の強い映画だった。

 アカデミー賞を総なめにした『ロード・オブ・ザ・リング』(ピーター・ジャクソン監督)は、特殊撮影、大掛かりセット、ロケ、人海戦術で、映画の醍醐味を味合わせてくれた。『ドッグヴイル』は思い切って簡素なセットにかかわらず、あれだけ男たちに蹂躙された女としてはあれ以外の結末はありえないと納得してしまうが、あまりにも救いがないと思う人も多いだろう。それに対して『リング』は絵にかいたような大団円。どちらも3時間を越える大作ではあるが、すべてに対照的で、映画(という芸術とエンターテイメント)の両極端にある魅力を思い切り体験することができる。




04.02.24
ミスティック・リバー(クリント・イーストウッド 2003 アメリカ)
 クリント・イーストウッド、ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケビン・ベーコン・・・俳優としても演出家としても今アメリカでもっとも油の乗り切った才能豊な個性派達が一堂に会して創り上げたこの作品を前にして、私たちは言葉を失う。彼らはCGやVFXの跋扈するハリウッド的超大作の世界とは無縁に、映画の本質が凝縮されたきわめて純度の高い作品を創造、本物の映画芸術のもつ感動を我々に伝え続けてくれる銀幕のエヴァンゲリスト達である。

 「許されざる者」(1992)でオスカーを手中にしたイーストウッドの演出家・演技者としての実績については言及する必要も無いだろう。また今回の作品で甲乙つけがたい名演技を披瀝しているショーン・ペンとティム・ロビンスにしてもそれぞれ、「プレッジ」(2001)や「デッドマン・ウオーキング」(1995)といった重厚な作品の演出家として瞠目すべき実績をあげている。彼ら全員の映画に取り組む真摯な姿勢が今回の作品にも貫かれていてそれがドラマの緊張感と興趣を一段と深めてくれているのだ。

 これだけの顔触れを意の如くあやつって自分色が100パーセント以上にじみ出た作品を創り上げたイーストウッドの演出家としての才覚とオーラには脱帽するほかないのだが、それだけに緊迫した演出の連続であったことは想像に難くない。巻頭、未明のボストン イーストバッキンガム地区を満々と水をたたえた大河が黒ずんだ生命体の如く盛り上がるように流れていく・・・。このワンショットだけでも演出家の厳しい審美眼に身が引き締まる思いを感じるが、その緊迫感はたちまち我々をミスティックな流れの中に飲み込んで呪縛にかけてしまう。全編文字通り一つとして無駄なカットは無いし、意味のない演技もない。例えばこの映画のプロローグとも言うべき三人の幼年時代の忌まわしい出来事の描写から、一転して25年後の同じ街角に移行する時の鮮やかなプロップ(歩道脇の排水口や彼らがいたずら書きで各々名を刻み込んだアスファルトのブロックなど)のあしらいかたなど、映像的にも編集的にも映画演出の極致といえる鮮やかな手腕である。

 サスペンス物であるこの映画のプロットは披瀝したくないし、また、上記のような事例を挙げるとそれこそ全編にわたり言及する事になるのでこれ以上はふれないでおくが、映画の演出にこれだけの厳しさを感じさせられる事は極めてまれであって、私の場合で言えば文芸サスペンスの傑作と謳われたマルセル・カルネ監督の「嘆きのテレーズ」(1952)以来の久しぶりの感激であったことだけは付け加えておきたい。(織田 充)




04.01.20
二つのサムライ映画
「ラスト サムライ」(エドワード・ズイック 2003 アメリカ)と「MUSA」(キム・ソンス 2001 韓国)

 いま「武士道」をテーマにした男の生き様を描く二つの外国映画が上映されている。一方は華々しい宣伝をともなうロードショウ、他方は上映館を探し出すのにも苦労するまことに地味な扱いだが・・・。
 前者がトム・クルーズ主演の「ラスト サムライ」、後者がいま話題の「韓流」パワーを結実した「MUSA(武士)」である。テレビ情報によると「ラスト サムライ」の興行成績はめざましいと言うが、一方「MUSA」の方は、あるシネコンでは客の入りが芳しくなく上映回数の調整も行われているほど対照的に良くないようだ。ところが映画としての出来栄え、つまりストーリーの面白さ、演出・演技の緊迫度、作品としての感動性のどれをとっても後者が前者をはるかに上回っていたのだから皮肉なものだ。前者が後者を凌駕しているのは「話題性」だけである。

 時代と場所を異にしてはいるが、この二つの映画には、不思議なほど共通点がある。まず両者とも「時代の変わり目」に派生した歴史的事実に立脚するフィクションであること、時代の運命に翻弄され、それでも苛酷な試練のなかで「サムライ」としての義を貫く生き様をテーマとしていること、その美学の完成のために最後は全員討ち死にを覚悟した戦いに臨む姿を描いていることなどである。さらに言えば、両者とも制作国とは違う国(「ラスト サムライ」は日本、「MUSA」は中国)を舞台にそれぞれ現地スターを適宜登用して制作された作品であることも挙げられよう。

 「ラスト サムライ」は維新新政府の政策と相容れないサムライ達(士族)が政府軍と対立し最後は新兵器ガットリング銃の連射を浴びて壊滅するストーリーだ。これを新政府軍の指導教官としてアメリカから招聘したもと南北戦争の北軍勇者のトム・クルーズの体験を通して描いている。彼は南北戦争後、西部開拓時代のアメリカ原住民追討作戦に参戦。そのときの為政者の弱者に対する横暴に加わったというトラウマをひきずったまま日本での任にあたる。がそこで「滅びゆく士族」という時代の流れに立ち向かい研鑽を怠らないサムライの厳しい生き方に触れ、自棄的になっていた自らの生き方を恥じる。その結果、本来対立すべき反乱軍に組みして行動をともにする。結果は激しい銃火をあび全員討ち死にするのだが(彼一人生き延びるのはいかにもハリウッド的で苦笑せざるを得ない)、日本を舞台としたアメリカ映画としてはトラディショナルな習慣をことさら誇張することなく描いていて、この良識には好感が持てる。ただ残念であるが、この映画には期待したほどの盛り上がりがない。何故であろうか。
 思うにそれは登場した時から勝元一派のサムライ達は反乱軍であり、彼らがそこに至る必然性が殆ど伝わって来ないことによる。演出・脚本を担当したズイックは渡辺謙扮する反乱軍のリーダーをおそらく「佐賀の乱」(1874)の江藤新平とか「西南の役」(1877)の西郷隆盛にヒントをえて創造したのだろう。だとしたら司馬遼太郎の「翔ぶがごとく」を持ち出すまでもなく新政府樹立に貢献した士族達に報いる施策が廃藩置県政策、士族の家禄の廃止、廃刀令などすべて逆の目であった不満醸成の空気がもう少し伝わって来る工夫がなされていたらと惜しまれる。最後の戦闘場面にくどすぎるほどの長尺を費やす代わりにそのあたりの配慮があったならと思わずにはいられない。

 その点「MUSA」の主人公達の動機は明確である。武士が一度「救う」と約束した以上、たとえ敵方の姫であれ、義を貫き一命を賭して戦いぬく。1375年、高麗は元を万里の長城以北に追いやった明王朝に和平の使節団をおくる。南京に到着した彼らは、彼らにスパイ嫌疑がかかっている事を知らない。たちまち捕らえられ投獄されるはめとなる。ここまでは史実だそうだ。流刑地に向かう途中砂漠で元(蒙古軍)の急襲を受け引率していた明の一軍は全滅。高麗使節団は帰国すべく砂漠をさまようが、途中蒙古軍に捕らわれていた明の姫君(太宗の娘)を救出。ひと目で姫の美しさに魅せられた若き隊長は、姫を南京に連れ戻し太宗に恩を与え、本来の任務の完遂と無事の帰国を図る。一行には奴隷ではあるが無双の槍の達人ヨソルがいて姫の護衛役となる。元王朝の再興をはかる蒙古軍も必死だ。交渉を有利にすすめる切り札と言うべき姫の奪回に総力をあげてのすざましい追跡戦がはじまる。途中漢民族の難民も吸収していた高麗軍は苦戦の連続。それでも明軍の篭城している黄河畔の土城まで行けば何とかなるとの一縷の望みを持ってたどり着くが明軍は撤収したあと。やがて現れた蒙古軍との最後の攻防戦が始まる。

 幾度と無く苦境に陥る高麗軍に対し蒙古軍は「姫さえ渡してくれればよい。高麗にはうらみは無い」と申し出る。高麗軍の中にも「姫を渡して帰国に専念しよう」と言う声が充満するが、隊長・奴隷出身の護衛役・隊正(副官)の3人は「約束した以上あくまで姫をまもりぬく」との姿勢を変えない。「私さえいなければ・・・」と一人投降する姫を追って一人、また一人と姫の投降を思いとどめようとする人数が増えて、繰り出してきた蒙古軍と戦うシーンは感動的である。

 この映画の魅力はスタッフ・キャストが一丸となって、まるで本当に蒙古の大軍と戦っているのではないかと錯覚させるほどのすざましい熱気で制作に取り組んでいる気迫である。数え切れないほどの戦いの場面も一つ一つのアクションに創意と変化があって、緊迫感が途切れることがない。とりわけ奴隷役で槍の達人に扮したチョン・ウソンの胸のすく槍さばきと立ち回りには久しぶりに「活動写真」の醍醐味を満喫させられた。姫の咽喉もとへ短剣をつきつける相手にいったんは降参したと見せ、次の瞬間槍を空に飛ばして相手の頭部を貫くシーンは、黒澤明の「七人の侍」(1954)で宮口精二が最初の立ち回りで見せたあの静から動へ移行するえもいわれぬ呼吸に比肩する興奮があった。
 これで、姫君役チャン・ツィイーに魅力があれば言うことはないのだが、最近の彼女には「初恋のきた道」(2000)でデビューしたころの瑞々しい清純さが失われ、「英雄」(2002)でもそうだったがこの映画でもギスギスしたとげとげしさばかりが目立っているのが残念である。          (織田 充)




04.01.13
「百年の恋」(篠田節子原作、橋部敦子脚本、NHK総合)
 少し前に終わりましたが、とても面白いドラマで欠かさず見てしまいました。
 NHKの掲示板の書き込みを見ても、ジェンダーの視点から注目している人が少なくないことが分かります。
 年収6000万円の外資系投資銀行のバンカーの女性(りかちゃん)と200万円の売れないライターの男性(しんちゃん)が結婚して、子育てのためにしんちゃんが専業主夫になる、というお話です。ちなみに私は原作は読んでいません。りかちゃんの年収の設定などは原作と違うらしいです。
 NHKの掲示板でも複数指摘されていたように、「これだけの年収があればベビーシッターを雇うなどお金で解決できるはず」ということは私も思いましたが、ドラマですからそこはご愛嬌、ということで(「ベビーシッター」は現実的すぎて、面白いドラマにならないということでしょう…)。
 主人公の2人がジェンダーフリーの人という訳ではなく、旧来の価値観との間で揺れているところは、自然で良かったと思います。
 しんちゃんが児童文学の作家を目指しているという設定は、「何もないと専業主夫には救いがない」みたいな(旧来の価値観での)男性救済的な意味合いも感じられます…。
 変だと思ったのは、結婚前は「人生の一大事、私なんか名字が変わっちゃうのよ」と言っていたりかちゃんが、ずっと旧姓で仕事をしていること(笑)。ちなみに、しんちゃんが一人で区役所に婚姻届を出しに行くシーンがあるので、事実婚ではなく法律婚です。なお、りかちゃんが旧姓で仕事をしていることを知った時のしんちゃんが、ちょっと「えっ」と思って一応念のため聞いてみるけど特に文句を言う訳でもない、というあたりは自然な感じでした。
 また変だと思ったのは(笑)、最初は妻が料理してくれると思っていたしんちゃんが、いきなり最初から(料理も含め)家事をどんどんやり出したこと。これは余りにも家事ができないりかちゃんに呆れて仕方なく、という面もあるようですが…。
 ジェンダーの面で注目すべき登場人物は、しんちゃんの上司の秋山泉子編集長。まだ「共働き」が少なかった頃から子育てしながら仕事を続けてきた(らしい)経験がにじみ出る発言が出色でした。結婚直前のしんちゃんに「あなた家事できるの?」と聞き、最初から彼の方が家事をする役割分担になることを見抜いています。さらに「パンツも洗わず洗っている僕に感謝もしない」と愚痴るしんちゃんに、「男は今までパンツを洗う女に感謝したことなどない!」と言い放つところもとても良い!
 ジェンダーの面でのクライマックス(?)は、旧来の価値観の固まりの様な存在でことごとく対立する専業主婦一筋の母親に対して、りかちゃんが「お母さんが嫌いなんじゃなくて、お母さんの生き方や考え方が嫌いなの」と言い放つ場面でしょう。
 そこそこジェンダーフリーが浸透しつつあるけど、旧来の価値観や制度(例:別姓の民法改正が未だ成らずetc.)も残る現時点の日本(といっても東京ですが)の状況を良く反映した、とても良く出来たドラマだと思います。再放送などあれば是非ご覧になって下さい。(畑)




04.01.01
「復活」(監督・脚本パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ 2001年イタリア)
 文豪トルストイの晩年の傑作「復活」の殆ど完璧ともいえる映画化である。殆どという余計な言葉を加えたのは世紀末の専制的警察国家ロシアを舞台としたあまりにもロシア的なこのドラマの台詞がイタリア語で終始していることによる。制作者が作品のテーマをより深く追求しようとすれば他国を舞台としたドラマでも自国語で制作するのは当然であるが、どちらかと言えば陽性ラテン系のイタリア語はスラブ的な背景の中でくりひろげられる重厚なテーマにそぐわないと私には思えたからである。そのことが本質的な問題でないことは言うまでもないのだが、本編があまり成功例のないトルストイの大河小説の映像化において圧倒的に充実した成果を挙げているだけに贅沢な注文をつけたくなったのである。
 タヴィアーニ兄弟ががっぷり正面から取り組んだトルストイの長編小説の映画化は、人口に膾炙しているネフリュードフとカチューシャの愛の物語、即ち根源的な罪と悔悟、献身的な償いと寛恕をテーマとした愛憎のドラマを縦糸に、専制国家社会の権威の欺瞞性と上流・下層の二重構造社会の偽善的弊害を横糸にして、これらを有機的に絡み合わせながら私たちをスクリーンに釘付けにする(この映画を観たミニシアターは構造上の欠陥から前列の観客の頭部がいちじるしく視野をさまたげ、187分の上映時間中、首を斜にかしげて鑑賞せざるをえなかったのだが、終始緊迫した隙のない構成と演出はそれを苦痛に感じさせなかった)。

 窃盗、毒殺の殺人罪を問われた娼婦の裁判に陪審員として列席したネフリュードフ公爵は、被告人が大学3年の夏休みに叔母の家で出会った家事見習いの私生児カチューシャであること、ひと夏の恋の相手であり、その3年後に再開した復活祭の夜、関係を結び、翌朝代価の100ルーブルを強引に手渡して別れたカチューシャであることを認めて愕然とする。彼女の潔白は明らかだったが、過去が明らかになることをおそれたネフリュードフの消極的な沈黙もあって彼女にシベリア流刑の判決がくだる。実際に苛酷な刑が宣言されたことは、ネフリュードフに「カチューシャの転落の因は自分にある」との激しい自責の念を呼び起こし、貴族で大地主である地位と財産も捨ててあらゆる方策で彼女を救おうと奔走し、彼女に結婚を申し込む。その返事を待ちつつ彼女のシベリア行きに同行する。彼の献身的な愛に次第に心をひらくカチューシャだが、彼の愛は真実の愛でなく自責の念にかられた使命感が優先するものである事をわきまえ、また彼の約束された輝かしい将来の栄達に自分の存在が妨げになることを考慮し、自分を「人間カチューシャ」として愛してくれる囚人仲間のシモンソンと結婚する。シベリア行きの列車が出発したあとネフリュードフは一人荒野をさまようが、やがて少数民族の部落にたどりつく。おりから新しい世紀を迎えようとする前夜にあたり部族の人々は新時代への希望を祈念するお祭りにネフリュードフを誘う。明日からの新しい生活、ネフリュ−ドフの再スタートを予感させる夜明けの情景が象徴的に映しだされてこの映画は終わる。
 「・・・この晩からネフリュードフにとってまったく新しい生活が始まった。(中略)彼の生涯におけるこの新しい時期がどのような結末を告げるかは、未来が示してくれるだろう。」
 原作の締めくくりの一文が見事に映像化された結末であると感嘆させられた。
 以上のように、「復活」は決して感傷的な恋の物語ではない。わが国では築地小劇場以来の「カチューシャかわいや・・・」の歌のイメージが先行して、原作者が提示した福音書に示唆されている「原罪・悔恨」と「寛容・人間愛」の有機的相関関係をテーマとした厳しい人間ドラマは原作を読まないかぎり認識されていないようだ。しかしこの映画は原作を経験していない観客にもトルストイの意図した命題を正確に伝えてあますところがない。その意味でも正に文芸映画の記念碑的作品であると言える。「アンナ・カレーニナ」や「戦争と平和」など過去たびたび映画化されているトルストイの作品は、私が観た限りでは、例外なく主題のある一面のみが強調され、膨大なストーリーは大半ダイジェスト的にあつかわれていた。そのためストーリー・テラーとしても文明評論家としても驚嘆すべき多面性をもつトルストイの世界観には殆ど満足に触れることは出来なかった。
 いささか余談めくが、これまで私がこの種の長編文芸作品の映画化で感動をおぼえたのは、ドフトエフスキィーの「カラマーゾフの兄弟」のテーマを翻案した(と、信じている)ルキノ・ビスコンティの「若者のすべて」が唯一であった。強烈なイメージが確立している文学作品の映画化において原作のテーマを明確に描出するためには、原作の背景にとらわれることなく、映画作家の得意とする世界の中で主題の提示を行う方法しかないのではないかと思っていたのだが、(忠実な原作の映画化という惹句にさんざん裏切られていただけに)今回、正攻法の演出による完成度の極めて高い映像作品に接し得た事は私にとって正にエポックメーキングな出来事であった。

 この映画でもっとも感動を受けるのは、薄倖の娼婦カチューシャが社会の権威の象徴である支配階級の欺瞞性によって苛酷な人生を経験させられ、それでも朽ち果てることなく、逆に強靭な生命力を身につけて、ネフリュードフの差しのべる安易な救済の道を選ぶことなく自らの規範に沿った厳しい選択を採択できる自律性をもつ女性に成長する過程である。自分のたてた規範に従って、自分の事は自分でやっていく自律性を身につけることは極めて今日的な、切実なテーマであるからだ。(織田 充)



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