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国際社会の現在(いま)―ジェンダー視点から
日本婦人会議の牽引車だった津和慶子さん(その1)(2014.02.14)

 津和慶子さんは、1983年から、清水澄子議長の下で、日本婦人会議(2002年からI女性会議)〈以後、婦人会議〉の事務局長を務め、1989年に清水さんが参議院議員になったのち、2004年まで、議長として婦人会議を 牽引した活動家だ。2006年に、脳梗塞のため、歩行・言語障害となり、今はリハビリ生活をされている。

<津和さん宅へ>
 昨年秋のある日、杉並の津和さん宅を訪問した。津和さんと活動を共にしてきたフェミニストで、同じ区内に在住の高木澄子さんが、案内してくださった。2階建てアパートの急な外階段を上がったところに、津和さんのお住まいがあった。車椅子生活なので、お住まいは1階だとばかり思っていた私は、他人事ながら大丈夫なのかと心配になってしまったが、津和さんの外出時には、手すりにつかまりながらゆっくりと、階段を上り下りされているという。
 玄関まで出迎えて下さったご夫妻にしたがって、お部屋に入ると、ベッドの周りの壁や窓には、ご夫妻の兄弟姉妹と友人の孫たちの写真が所狭しと貼ってあり、書棚や物入れがコンパクトに整理されていて、ベッドから手を伸ばせば、必要なものはすぐに手に届く工夫がされていた。津和さんがベッドに腰掛け、ベッドの横に置かれた食卓をはさんで高木さんと私が座って、お話を伺った。あらかじめ送っておいた質問項目の字が小さくて読めないということで、夫の崇さんが拡大コピーしておいてくださった。主には、婦人会議時代の活動を質問として用意していたが、津和さんの生い立ちなど、婦人会議以前の話で盛り上がった。
 実は私は、津和さんにお会いするまで、津和さんは、まだ言語障害が残っていて、ヒアリングは難しいのではないかと危ぶんでいた。高木さんが、「私の方が聞きなれているので、通訳方々同行しましょう」と言って下さったので、その言葉に甘えてお訪ねしたわけだが、お会いして話し始めると、その不安はすぐに吹き飛んでしまった。なによりも、津和さんが、お話になりたい意欲と話題に満ち溢れていたからだ。もちろん、語り口はたどたどしく、言葉がなかなか出てこないもどかしさはある。だが、津和さんの一言を、私たちが自分なりの連想を入れて復唱するとたいていは当たっていたし、違う場合にも、聞き返し、やり取りする内に、彼女が言おうとした言葉にたどり着くのに、そう時間はかからなかった。だから、コミュニケーションは十分可能だったし、私は聞きたいことのほとんどを、答えてもらうことができた。

 <生い立ち>
 津和さんは、私より2年後の1944(昭和19)年末に松本市郊外の浅間温泉で4代続いた旅館の跡取り娘として生まれた。小さい時から、窓やトイレ掃除の仕方や、料理の仕方など、旅館の女将になるよう、母から厳しく育てられた。だから、結婚してから、料理を10品ではなく5品にするのが、大変だったという。
 松本深志高校の出身だが、安保闘争に際して、高校で初めて校長、教員、生徒が全員参加した全校デモを行うなど、政治に関心を持つ環境だった。立教大学に、日本初の観光学科ができたので入学。だが卒業近くになって、旅館を継ぐのを辞めたくなり、怒った母から仕送りをストップされ、奨学金やアルバイトで大学を続けた。松本では、後継者がいないため、旅館建て替えの資金を銀行が貸してくれないなど、深刻な問題が発生したそうだ。
 1966年に大学を卒業した。当時は女性の就職機会は少なかったが、通産省の天下り組織である機械振興協会の経済研究所に就職できた。試用期間中に、労働組合結成の話が持ち上がり、上司は親睦会のつもりだったようだが、団結権、交渉権、争議権を持つ組合を作り、津和さんはすぐに組合の執行委員になった。
 当時、女性社員も結構いたが、花嫁修業のための就職で、正規の社員でない人が多かった。津和さんは、正社員で図書館に配属され、後に研究所勤務となった。
 1967年、23歳で、津和崇さんと結婚。結婚した理由は?と聞くと、ちょっと恥ずかしそうに、「考え方が同じだったから」と答えられた。元の苗字が「鈴木」でよくある姓なので、苗字を変えたかったとも言われた。
 研究所に4年間勤める間に、論文を発表したが、女性に論文等書けるわけがないと思われて、「夫に手伝ってもらったのではないか」などと言われたという。また、研究所内で、自分が調査員補なのに、後輩の男性をいきなり調査員にしたことや、津和さんを一人で事務局員もいない東南アジアの国に派遣しようとするなどの嫌がらせに遭った。こうしたなかで闘う決意でいたが、丁度その頃、婦人会議専従への誘いがあり、面接を受け、転職したという。

 <婦人会議での活躍>
 日本婦人会議は、安保闘争後の1962年に、日本社会党の提唱によって発足した組織であるが、社会党から自立した組織として、独自の歩みを続けてきた女性運動団体である。発足当初の議長団は、松岡洋子、高田なほ子、田中寿美子、深尾須磨子、羽仁説子、岸輝子、田所八重子、野口政子の8人で構成されており、結成大会では、「平和憲法のもとに、婦人の地位向上と解放のため、全日本の婦人の力を結集することを目的」とし、「党の支持団体としてではなく、自主的な女性の大衆組織」であることが確認されている。
 津和さんが婦人会議に入ったのは1972年だが、当時の婦人会議は、田中寿美子さんが一人議長で、清水澄子さんが事務局長だった。津和さんは、当初から『婦人しんぶん』の編集を任され、後には、新聞のほか、婦人会議が刊行する冊子や書籍の編集も、一手に引き受けていくことになる。
 1974年に、市川房枝・田中寿美子両氏の呼びかけで、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」の準備会ができた際には、実務的な手伝いをした。75年以来の「国際婦人年日本大会の決議を実現するための連絡会」には事務的なメンバーとして参加する。
 津和さんは、1978年に婦人会議の常任委員に、さらに82年に清水澄子さんが参議院議員候補に選出された後の1983年に事務局長になった。その後副議長を経て、1989年に議長となり、2004年まで婦人会議を実質的に背負うことになり、2006年に病気で倒れるまで、フル回転で活動した。
 たとえば、1980年12月に、「戦争への道を許さない女たちの連絡会」が発足し、以後毎年のように、8.15には反戦マラソン演説会、12.7には反戦の集会を開催したが、津和さんは、連絡会発足当初から、事務局として運動を支えた。集会の壇上で発言するのは吉武輝子さんを初めとする有名人だったが、当日の場所取りや、座り込みのシートや旗の用意は、婦人会議の仕事として引き受けたという。
 その他、政府に先んじて、1982年頃から男女雇用平等法制定をめざす運動を開始し、男女雇用均等法成立過程に、政府や経営者側に批判的な視点で関与した。91年に金学順さんが名乗り出て以後、「日本軍慰安婦問題」の解決をめざして、政府に働きかける一方で、南北朝鮮半島の女性団体と連携しながら運動するなど、多方面にわたる活動を展開した。
(次回へ続く)

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