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国際社会の現在(いま)―ジェンダー視点から
20世紀を駆け抜けたフェミニスト田中寿美子さん(2015.02.16)

Part3 研究活動

 1.フェミニズムの理論的根拠を求めて
 田中寿美子の後半生を、議員としての政治活動だけで語るのはもったいない。彼女のもう一つの側面として、研究活動にも触れたい。実は私自身、直接田中さんと接したのは、こちらの方面での活動を通じてなので、私自身の思い出を混じえながら、田中さんの研究活動を紹介したい。

 <社会主義婦人論への疑問と文化人類学への関心>
 Part1で触れたように、田中さんの前半生、特に1945年の敗戦までは、夫稔男に導かれて社会主義活動家としての人生だった。戦前から戦後にかけて、女性史・女性論に取り組んだ女性たちのほとんどが、社会主義婦人論をベースに、物事を考え、運動にコミットしてきた。田中さんも、その一人であり、原始共産制から古代奴隷制、封建社会、そして資本主義社会へと、生産力の発展を原動力として人類史は推移し、その過程で、階級社会と女性差別が同時に発生したとする史的唯物論に基づく歴史観を前提として、階級社会を廃絶し、社会主義ないし共産主義社会の実現と共に男女差別も解消すると考えてきた。
 田中さんは、この社会主義婦人論を基に、フェミニズムの思想と運動にコミットしてきた。ところが、戦後、ボーヴォワールの『第二の性』などを読んだり、生物人類学者アシュレー・モンタギューの『女性、このすぐれたるもの』を翻訳したりする中で、社会主義婦人論の公式に疑問を持ち始めたようだ。1954年にアメリカのブリンマー大学に留学し、本格的に文化人類学を学んだことで、いよいよその思いが強くなったようだ。
 当時、社会主義婦人論の聖典とされた、エンゲルスの『家族・私有財産及び国家の起源』(1884)が定式化した乱婚→プナルア婚→対偶婚→単婚(一夫一婦婚)という家族進化論は、スイスの文化人類学者J.J.バッハホーヘンの「母権制」論や、アメリカの人類学者ルイス・H.・モルガンの著書『人類の血族と婚姻の諸体系』(1970)や『古代社会』(1877)に依拠していた。
 バッハホーヘンの「母権制」論は、家父長制社会成立による「女性の世界史的敗北」以前の古代社会で、女性が母性を持つ存在として、宗教的祭祀のみならず世俗的にも支配的な力を発揮したという論で、後に実証的にはその存在を否定されたものの、フェミニズムやユング派の精神分析等に大きな影響を与えた仮説である。モルガンは、インディアン社会(特にイロクオイ族)の研究を基に、人間社会の発展を、野蛮→未開→文明の3段階で説明する進化論的人類学を展開し、「アメリカ合衆国の人類学の父」とも呼ばれる人である。もっとも、このモルガンの議論は、ヨーロッパ白人文化の優位性を立証するものとして、後のアメリカ政府によるインディアン同化政策にも影響を与え、「科学的人種差別主義」とも呼ばれている。
 マルクスやエンゲルスが、史的唯物論を定式化した19世紀は、進化論が風靡していた時代であり、彼らは人類の歴史は進化してきたし、今後も進化し続けると考える中で、資本主義社会ないし階級社会を、人類史のある発展段階の一つにすぎず、やがて資本主義が崩壊し、階級のない社会、差別のない社会が到来するとの未来像を描くことができたともいえる。
 しかし、20世紀に入ると、世界各地でのフィールドワークが盛んに蓄積される中で、マリノフスキーやラドクリフ=ブラウンの機能主義人類学やレヴィ=ストロースの構造主義人類学が台頭し、「未開社会」にも、それぞれ一定の規範や諸制度が機能する文化や構造があるのであり、西洋社会の方が優れているとか、進んでいるとは一概に言えないとして、従来の西洋中心主義を批判する声が高まっていくことになる。後に女性学の「ジェンダー」概念生成に大きな影響を与えたマーガレット・ミードの『3つの原始社会における性と気質』(1935)、『男性と女性』(1949)なども、こうした人類学研究の地図の塗り替え作業の一環として位置づけることができよう。以上、素人の特権で、人類学の歴史を大雑把に単純化してまとめてみた。
 田中さんが留学した1954年は、ミードがコロンビア大学で教鞭をとり始めたことに象徴されるように、当時のアメリカは、進化主義ではない新しい人類学が幅を利かせていた時期であった。田中さんがイロクオイ族に関心を持ったきっかけは、たぶんモルガン→エンゲルスの言及の故ではないかと推測するが、しかし、これら先住民の文献を実際に読むに当たっては、動機はともかくとして、従来の進化主義的、発展段階論的人類学ではなく、機能主義的人類学の視点で読み解いた可能性が強い。田中さんはイロクオイ族の研究を論文にまとめ、帰国に際して送ったはずが、なにかのまちがいで、結局日本に届かなかったと、後に口惜しがっていた。だから、内容についてはついにわからずじまいだが。
 少なくとも、田中さんが母権制の存在を疑い、エンゲルス流の婚姻や家族の発展段階論の公式に疑問を抱いたことは疑いない。帰国後、加藤秀俊と共訳で、マーガレット・ミードの『男性と女性』を出版(1961)し田田中さんは、文化人類学を通じて、フェミニズム思想の新たな根拠づけを模索しようと考えたようだ。
 田中さんは、たまたま、中部スマトラのミナンカバウ地方に、母系制氏族が残っていることを知り、1956年暮れに、戦後まだ国交が樹立していなかったインドネシアのスマトラ島に、日本人として初めて入る機会を得て、現地で聞き取り調査を実施し、その報告を『婦人問題懇話会会報』(17号、1972)や、著書『パラシュートと母系制』(1986)に発表している。
 田中さんは、女性が男性を支配したとされる母権制の存在は否定しつつ、しかし、母系相続と母方居住制から成る母系社会では、女性が財産権とある程度の自由裁量権をもち、家父長制社会の女性たちに比べ、尊重され、自信を持って生活している事実を掘り起そうと考え、議員を辞めたら、本格的に母系社会の研究をしたいと常々話しておられた。実際には、療養生活のため、新たな研究をすることはできなかったが、ミナンカバウで出会ったジュスマ・マンシュルさんの伝記をどうしてもまとめたいということで、文化人類学者でミナンカバウに詳しい前田俊子さんの協力を得て、人生最後の著作『ジュスマ・マンシュルさん物語』を1991年に上梓した。ジュスマさんは、戦争中に、勤めていた百貨店からスマトラに派遣された日本人女性で、ミナンカバウの男性と結婚し、敗戦後もそのまま現地に留まった人である。

 <国際人類学・民族学会への参加とエヴリン・リードさんとの出会い>
 1973年8月、シカゴで国際人類学・民族学会が開催され、日本からも、人類学会の会員たちがツアーを組んで参加した。田中さんはすでに国会議員だったが、ぜひ参加したいということで、私を誘ってくださった。私にとっては初めての海外旅行であり、初めは躊躇したものの、アメリカ経験の豊富な田中さんと一緒という安心感があり、お伴することにした。もう一人、年配の編集者の女性と3人組でツアーに参加し、途中、学会から離れて、3人でウィスコンシン大学のあるマジソンや、ニューヨーク、ワシントンなどを回る、3週間の旅をした。この年、円が自由化されたばかりで、1ドル360円ではなかったが、それに近いレートで、持ち込める金額にも制限のある時代で、私には何もかも珍しい発見のある、楽しい旅だった。アメリカの生活習慣や英語表現など、さまざまなことを、田中さんから直に学ぶことができたし、当時アメリカで始まっていたWomen’s Studiesの動きを目のあたりに見ることのできた、実り多い旅行だった。
 思い出すことは色々あるが、ここではエヴリン・リードさんとの出会いに絞って、少し書いてみたい。どういう経緯で、リードさん宅を訪問することになったのか、詳しいいきさつは覚えていないが、私たちは旅行中のある日、ニューヨークのリードさんのアパートで、ランチを共にした。
 エヴリン・リードさんの略歴は、1974年8月に邦訳出版された『性の神話』(三宅義子・大原紀美子訳、柘植書房)の訳者あとがきに詳しい。それによると、「在野の哲学者である夫ジョージ・ノバックとともに、30年以上にわたるアメリカの社会主義運動家」であり、1971年に全米女性堕胎行動連合(Women’s National Abortion Action Coalition,略称WONAAC)を立ち上げた創立者の一人である。
 「オーソドックスなマルキシズムの理論体系に立ち、独学で積み重ねた人類学の知識を駆使して」まとめた『性の神話』(原題“Problems of Women’s Liberation”1969)は、74年当時、「アメリカではすでに6版を重ね、4万部以上売れ、50の大学でテキストに使用され」、さらに7か国語に翻訳されていたという。実は私も、改めて邦訳本を見直したところ、目次に報告担当者名をメモしてあり、大学のゼミのテキストに使ったらしいことを思い出した。
 このリードさん宅は、古びた何階建てかのアパートで、ドアの鍵が何重にもあるだけでなく、戸棚さえいくつもの鍵を使って開け閉めするセキュリティの厳重さに私はまず驚いた。またランチが、ツナ缶と野菜にパンとコーヒーという、きわめて質素なものだったことも印象に残っている。シカゴの学会で、マーガレット・ミードが示した権力者ぶりや、ウィスコンシン大学のアルトバック教授の家に泊めていただいた時の食事と比べて、運動家の生活はこんなにも質素なのかと思ったりもした。
 私は、たまたま榎美沙子さんに託されて、中ピ連(中絶禁止に反対する女性解放連合)のビラやポスターを持参し、リードさんに届ける役割を果たした。榎さんからなぜ頼まれたのか、はっきり覚えてはいないが、たぶん、私たちが訪米する数か月前の5月に来日し、アメリカの反堕胎法闘争について講演し、当時日本で盛んだった「優生保護法改正」反対運動にエールを送ったことへの返礼だったのではないかと想像する。
 田中さんは自分とほぼ同世代(4歳年下)の社会主義活動家であり、かつ在野の人類学者でもあるリードさんに、親近感を持ったようで、ランチの間中、熱心に質問し、議論をしていた。残念ながら英語が苦手な私は、会話の内容についていけず、帰国して1年後に出版された邦訳本や、田中さんが月刊『ペン』(1974年10月号)に書かれた文章「ニュー・フェミニスト運動の展開―家族・性の抑圧からの解放」から、リードさんの思想の概要を知ったという体たらくであった。
 だが、今読み返してみると、田中さんがリードさんに傾倒した理由が、わかるような気がする。社会主義の公式論に疑問を抱いていた田中さんは、この頃、すでにアメリカのベティ・フリーダンやケイト・ミレット、イギリスのジュリエット・ミッチェルなどの著作を読んだり、婦人問題懇話会などを通じて、日本のウーマン・リブにも関心を示していた。しかし、家族からの解放や性の解放に問題を焦点化するラジカル・フェミニストたちに対しては、「女性の経済的独立、育児の共同化、家事の社会化」等がなければ「完全な性の自由を得る」ことはできないのであり、「現在、性の自由を主張し実行できる人たちは、底辺の婦人労働婦人たちではなくて、エリートの人々あるいは中流以上の経済力のある人たちなのである」と違和感を示し、資本主義体制の変革抜きに女性の解放はありえないとの立場を表明する。
 そして、アメリカで「社会主義政党」を名乗ってリブ運動に参加しているのは「リードさんたちのSWP(社会主義労働者党)のグループが一番目立ったものである」として、リードさんの議論に注目するわけである。田中さんに言わせれば、リードさんは、「資本主義は女性抑圧の物質的基礎」とする一方で、「フェミニスト運動は社会主義革命の欠くべからざる部分」と位置づける、アメリカの数少ない社会主義フェミニストであった。
 リードさんが、モルガン―エンゲルスの母権制論をそのまま支持していることについては、田中さんは、当時の文化人類学の成果を受け入れて、母権制と母系制を区別しなければいけないとしつつ、「母権制があったからなかったからということで、女性の権利や解放は否定されるべきではない」と主張。中絶の合法化や、無料の24時間託児所、家事の社会化等、「資本主義下の改良闘争の重要性」を説くリードさんたちの運動に共感を示したのであった。
 1970年前後から、マルクス主義をベースにしつつ、新たなフェミニズム理論を模索する動きが欧米各地で開始されるが、リードさんもそうしたマルクス主義フェミニストの先駆者の一人であったといえる。田中さんは、この後、議会活動等、現実の政治活動に忙しく、フェミニズム思想の新たな展開にどこまで目配りできたかは不明である。けれども、1970年代初頭に、少なくとも、当時最先端のフェミニズム思想に積極的に接触し、社会主義婦人論の公式から自由に、自分なりのフェミニズムを模索していた事実は特筆に値する。

(次回へ続く)

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