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国際社会の現在(いま)―ジェンダー視点から
一途な活動家 清水澄子さんを偲ぶ (その1)(2013.04.15)

 3月17日連合会館に約500名が参集し、清水澄子さんを偲ぶ会が開かれた。国際婦人年連絡会世話人山口みつ子さん、北京JAC共同代表船橋邦子さんをはじめ、和田春樹さん、在日朝鮮民主女性同盟、部落解放同盟、フォーラム平和・人権・環境の各代表、社会民主党委員長福島みずほさん、友人代表の山村ちずえさんのほか、平壌からアジア女性と連帯する朝鮮女性協議会会長、ソウルの金大中平和センター理事長からも追悼のメッセージが寄せられ、最後におつれあい清水茂夫さんのご挨拶があった。
 清水さんは、日本婦人会議(現アイ女性会議)の事務局長→議長→常任顧問として、また1989年から2001年まで参議院議員として、さらに亡くなるまで北京JACの共同代表として、日本軍慰安婦問題の解決、アジアの平和に向けての南北朝鮮女性との連携、無償労働の貨幣評価などに尽力された。にこやかな笑顔の写真の前で、それぞれの立場からの追悼の言葉を聞きながら、生前の清水さんの日本とアジアの平和と女性解放実現に向けての、一生懸命で粘り強い活動ぶりをあらためて思い起こし、ご冥福を祈った。
 清水さんが亡くなられたのは、正月明けの1月14日。今年いただいた年賀状には、昨年始めたヒアリングが、急な入院のため中断していることへのお詫びの言葉がしっかりした手書きで添えられてあったので、退院も間近で、春になったらまたお話を伺えるかと楽しみにしていた矢先の訃報であった。清水さんのあまりの突然の逝去に、私は大きなショックを受けた。
 田中寿美子さんの足跡をたどる会の仲間といっしょに、清水さんのお話を聞く会を持ったのは、昨年8月13日、お盆前の暑い日だった。その1ヶ月ほど前に、婦人問題懇話会の同窓会を開いたところ、清水さんも来てくださり、終了後喫茶店でおしゃべりするうちに、清水さんから、議員生活の裏話など興味深いお話を伺った。雑談ではなく、きちんとお話を伺う機会を持とうということになり、清水さん自ら、議員会館の1室を予約してくださり、ヒアリングに至ったという事情だ。あらかじめ質問項目をお送りしたところ、清水さんは、ノートに何ページにもわたって、ぎっしりメモを用意してくださり、生い立ちから始めて、プライベートな生活、福井での活動、田中寿美子さんの秘書としての活動など、汲めども尽きぬ泉のごとく、次から次へとお話くださった。まだまだお話足りないことがおありのご様子だったが、さすがに4時間以上の長丁場はお体に障るだろうと、次回を約して、その日はお別れしたのだった。続きを伺えなくなってしまい残念だが、この日伺ったお話と、清水さんの著書『手さぐりの女性解放』(日本婦人会議中央本部1983)から、清水さんの辿った軌跡をまとめておきたい。

 <生い立ち>
 清水さんは、1928年3月、福井県で沢崎家の三女として生まれた。父は母をつれて大阪の小学校で校長をしていたので、澄子さんは福井で祖父母の下で育った。イエ制度と軍国主義教育の下、「女性の人格が全く認められない」時代だった。1945年、女学校卒業後、父のいる大阪に出て、高槻の女子医学専門学校に入学するが、3月13日の大空襲で大阪が全滅し、一家は福井に引き上げ、敗戦を迎えた。
 父が公職追放になった上、農地解放でほとんどの土地を没収されたので、食糧難の時代に収入源もなく、かろうじて残された田畑を耕して生活するしか家族が生活できなくなった。澄子さんは三女だったが、実質的に長女の役割を担い、一家の「野柱」(この当時、農村では一家の稼ぎ手をこう呼んだ)として、農作業に明け暮れ、進学の夢も吹っ飛んでしまった。色々な結婚話も持ち込まれる中で、「家の言いなりで一生を終わりたくない」という気持が芽生えて、ある夜風呂敷包み1つで家出し、叔母の家に逃げ込んだ。手に職をつけるために、洋裁学校に通い、近所の人のシャツやブラウスを縫って、学費を稼いだ。

 <県評勤務と結婚>
 この頃、二度の「足入れ婚」(本人の意思とは無関係に、親の考えた男性のところに預けられ、男性と先方の親が気に入った後、結婚となるという、女性の人権を無視した結婚方式)をさせられ、数ヵ月で離婚。生きていく糧を求めて、職業安定所の門をくぐり、福井県労働組合総評議会事務局(福井県評)の書記採用試験を受け、合格・就職したのは、1951年23歳だった。その直後ぐらいに、社会党委員長の講演や街頭演説を聞き、良いと思って入党した。「その当時は、社会党の演説はすごくよかった。若者たちの心を揺り動かした」という。講和問題で、社会党は左右に分裂するが、清水さんは「県評や総評婦人部との人たちとの人間関係やつながりがあるから、どうしても左派の方につながって」いき、その後もずっと左派の立場を貫いた。右派には加藤シズエたちがいて、婦人問題研究会などをやっていたが、左派は「くらしの会」をつくり、参議院の藤原道子が会長だった。この左派社会党と連携して、山川菊栄たちが月刊誌『婦人のこえ』を刊行(1961年9月まで)したが、清水さんはずっとこの雑誌の読者だった。『婦人のこえ』は、山川のほか、田中寿美子、平林たい子の3人が顧問で、実際の編集事務は、菅谷直子が担った。
 清水さんは洋裁学校の親しい友人の兄が共産党の幹部だったことから、青年工作隊の活動や共産党の集まりに顔を出したり、中野重治の妹で詩人の中野静子が主催する「ゆきのし田」文学サークルや、『婦人公論』の読者会にも参加するなど、社会問題に関心をもっていた。とはいえ、県評に入ったとき、社会主義のことも組合用語もわからず、“ゼンテイ”が全逓信労働組合の略称など思いつくわけもなく、「まるで外国に紛れ込んだような心地」で、“デンツウ”“タンサン”“ゼンセン”などとカタカナ書きで覚えたという。勉強せねばならないと思い、事務局長に薦められるままに、仕事の傍ら、『空想から科学へ』や『労働組合論』『唯物弁証法』などの本を次々に読んだという。マルクス・レーニン主義の考え方が身についていくにつれ、働く人の権利を守るために労働組合が重要だということもわかり、労働組合の結成や組合の女性部づくりに奮闘した。
 この頃、澄子さんは清水茂夫さんと知り合い、1954年に結婚する。結婚の経緯を恐る恐るお尋ねしたところ、次のようないかにも澄子さんらしいエピソードを話して下さった。最初は、勤務先の県評本部のあった県庁の労働会館の食堂のおばさんの仲介で、県庁職員の茂夫さんと不承不承会ったところ、いきなり結婚を前提につきあってほしいと言われ、「私は結婚に失敗している女ですよ。私は絶対に働くことをやめない決意ですから、私は結婚を考えていないのです。子どもも見なければならないし、家庭のこともやってもらわないと困るので、私なんかと結婚したら大変ですよ。」と断った。あきらめると思いきや、茂夫さんの答えは、「離婚なんて、長い人生の一つのつまづきに過ぎないではありませんか。そんなことで一個の人間を全否定するなんておかしいですよ。第一、ほかの人間ならともかく、どうしてあなた自身が出戻りとかキズ者なんて言葉を平気で使うのか、ぼくには解せません。」という立派なものだった。
 数年間の交際の後結婚するが、その後も茂夫さんの態度はぶれることなく、たとえば、毎朝子どものオムツを干す茂夫さんに対する近所からの好奇の目を意識して、澄子さんがやめてくれるよう申し出た時には、「君は、いっていることとやっていることが違うじゃないか。子どもは二人の間の子どもだから、父親がオムツを洗ってなぜ恥ずかしいんだ」と一蹴されたという。「口では女性解放をいいながら心のうちでは世間の目を気にする矛盾と“古さ”を、見事に突かれた」と、澄子さんは述懐する。亡くなるまでの60年間、澄子さんが理想に向かってまっしぐらに突き進むことができたのは、この開明的な茂夫さんの支えに拠るところが大きい。

 <福井での実践活動>
 清水さんは福井県の働く女性たちの状況を改善するために、さまざまな新しい試みを始めたが、中でも福井県の実践がモデルとなって全国に広がった取り組みとして、「働く婦人の会」の組織化と、保育所づくりが挙げられる。福井県は全国でも働く女性の比率が高い県だが、清水さんが県評で働いていた1950年代当時、労働者の権利や女性の権利に突いての理解はあまり浸透していなかった。清水さんは「働く女性は団結しなければならない」ということで、工場や病院、学校で働く女性たちに呼びかけ、1956年に5000人が集まり、「福井県働く女性の会」を結成した。県教組の女性部長が会長で、清水さんが事務局長を引き受けた。
 まだ20代で「純粋だけで、ものを知らないことが多くて」、あちこちとぶつかったという。たとえば、県立病院がバラック建てで、看護婦さんたちが食事をする場もなく、立って昼食を食べている状態だったので、病院長に団体交渉して食堂を建てさせることに成功したが、県庁職員組合を通さず独自に交渉したことが、県評で問題にされた。また、繊維工場で働く女性たちが「働く女性の会」に多数集まったが、民社党系の全繊同盟傘下の組合員を入れたということで、総評と全繊同盟の両方から抗議され、結局2000人の繊維労働者が、会を脱退せざるをえなくなった。こうした混乱があったものの、「働く女性の会」は、色々な職場の交流ができるし、運動して勝ち取った体験をもてたし、お料理サークルや合唱サークルなどもあって、「ものすごく楽しい活動」を続けることができた。こうした活動がやがて、総評の「働く婦人の会」につながっていくことになる。
 全国に先駆けて「福井県働く女性の会」が始めた取り組みに、保育所づくりがある。当時子どもを預かってくれる所が少なく、せっかく女性の若年退職制や出産退職制を廃止させたのに、働き続けることが出来ない現状をなんとかせねばということで、保育所づくりリ運動を始めたという。清水さんたちの保育所運動は、ゼロ歳児保育の導入に成功したこと、また工場労働者だけでなく農家の子どもも入れる保育所づくりをした点で、他県とちがう先進性をもっていた。
 1961年に「働く婦人の会」が運動を始めた頃には、「3歳までは母の手で」という3歳児神話が根強く、市役所や議会に何度も陳情しても、「ゼロ歳児から保育所に預けるなんて母親失格だ」と叱られるばかりで、相手にされなかった。「では、自分たちでつくろう」ということになって、夕方仕事が終わってから街頭でカンパ活動を続けたところ、道行く人たちが協力してくれ、またあるお寺の住職さんが境内を提供してくれることになり、「ひまわり保育園」というゼロ歳児からの保育所を開園することができた。さらに、「ベビーバス」を運行させ、バス内にベッドをおき、バスで園児を迎えにいった。これが一躍有名になり、全国から自治体の議員が視察にやってくるようになった結果、福井市も、この保育所を認可することになったという。
 一方、福井県は農業で、農家で働く女性も多いが、農家の人たちのためには、農繁期だけの季節保育所があった。しかし、農業は1年中やっていて、親の目が届かない間に、あぜ道で用水にはまって死んだといった事故が頻発する事態を改善して、農家の子どもも1年中入れるように、保育所を増設すべきだということで、農協婦人部に協力を求めた。初めは、労働組合婦人部の人は「アカ」だからいっしょにはやれないと言われたが、県農協本部の男性に働きかけるなどして、結局、農協婦人部と県評婦人部、働く女性の会で「福井県保育所づくり推進協議会」を立ち上げ、農協婦人部長が会長に、清水さんが事務局長になった。
 子育ての実態調査や勉強会をしたり、県への予算要求などをしつつ、「保育所づくりの鈴」を各家庭や学校、職場で買ってもらうなどの資金集めも行う。知事選では、農協と県評が手をつないで、保育所作りを公約に掲げる一人の候補を支持し、当選させた。そうした精力的な運動の結果、1966年には、県の独自予算で100ヵ所の保育所が設立されるに至った。これは「保育所づくり福井方式」と呼ばれ、全国の保育所運動に影響を与えた。
 清水さんの話では、最近でも福井県では独自予算で、病時保育や一時預かりなどを進め、全国の保育行政のモデルになっているという。半世紀前に清水さんたちの蒔いた種が、今でも花を咲かせ続けているといえよう。
(続く)

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