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国際社会の現在(いま)―ジェンダー視点から
一途な活動家 清水澄子さんを偲ぶ (その2)(2013.05.15)

 <女性会議結成のいきさつ>
 1962年4月14日に、全国組織日本婦人会議が結成された。現在のアイ女性会議の前身である。それに先立つ3月25日に、清水さんは全国初の福井県本部を結成した。60年安保の直後に暗殺された浅沼稲次郎の妻亮子衆議院議員の呼びかけで、社会党と共に、憲法を守り、民主主義を守り、反独占国民戦線の一翼を担う女性の組織をつくることが、1961年の第20回社会党大会で決定された。それまでの女性の運動は、母親大会など、1年に1回程度集まるカンパニア的な運動だったので、「もっと組織的に、一つの目標を持った運動体」が必要だと考えたのである。
 その年(1961)年11月に婦人新聞(現在の「I女の新聞」が創刊され、総評書記をしていた原田清子が編集長になる。翌年に発足した日本婦人会議は、高田なほ子、田中寿美子、松岡洋子、羽仁説子、深尾須磨子、岸輝子、野口政子、田所八重子の8名を議長団で、日教組の山下正子を事務局長として出発した。ところが、選出された、これらの役員たちは、社会党が作った運動方針は、自主的な女性の大衆組織の方針としては不適当だとして廃棄し、8月に臨時総会を開いて、新しい運動方針を採択した。そこでは、憲法を拠り所にして、女性と子どもの権利と幸せを守り、民主的で平和な社会を願う人は誰でも会員になれるとし、社会党支持を明記しなかった。つまり、共産党を含む、女性の統一戦線をめざしたという。この組織綱領はその後も受け継がれるわけだが、同時進行で1962年に、共産党が、母親大会を基盤として、新日本婦人の会を結成し、各種運動の場面で婦人会議と競合するにつれ、婦人会議は実質的には社会党系の婦人団体として位置づけられていくことになる。なお、婦人会議の議長団には、社会党系でも共産党系もない高田なほ子らも入っている一方で、羽仁説子、岸輝子のように、婦人会議の議長団のメンバーであると同時に、新日本婦人の会の呼びかけ人にもなっている人たちもいた。
 ほぼ同じ時期に、山川菊栄が田中寿美子、菅谷直子らに呼びかけて設立した婦人問題懇話会も、政党にとらわれず、幅広い女性の研究団体を作り出そうとしたものであった。婦人問題懇話会は研究を主眼とし、「政治活動は各自に任せる」ことが可能であったのに対し、運動団体としての婦人会議は、政治活動を抜きにはできない組織であったために、政党色をぬぐいきれない側面があったように思われる。
 清水さんは、日本婦人会議結成当時、福井にいたので、この議論の経過を詳しくは知らなかったが、1967年に事務局長に就任した後、婦人会議の組織問題の経緯を整理しておく必要があるということで、調査したのだという。清水さんによれば、女性の解放を、社会主義政党と無関係にやることは、空想的であって現実的ではない。けれども、日本にはきちんとした政党が無いので、私たちは女性解放論を自分たちで独自に作っていかなければならない。

 <男性支配の組織への憤りと確執>
 清水さんは、1950年代以来の生粋の社会党員で、社会党が社会民主党に改名した際には副党首に就任するなど、社会党員としての生涯を貫いたが、しかし、社会党に対する批判の目は持ち続けておいでで、今回のヒアリングでも、社会党の労働組合中心主義と女性差別的体質に対する怒りを露わにされた。
 清水さんが福井県評を辞める決意をしたきっかけは、1965年の選挙だった。この選挙は、田中寿美子さんが初めて立候補し、全国第4位(社会党では1位)で当選した選挙である。その数年前から評論家として活躍していた田中さんは、母親大会や働く婦人の中央集会で助言者として活躍していたので、清水さんも田中さんとは面識はあったが、特別親しい関係というわけではなかった。選挙運動中、田中さんが福井に遊説するというので、支持母体の動力車労組、全林野、全専売と日本婦人会議が、田中さんを励ます集会を開き、清水さんも福井県婦人会議の代表として、この会の開催にかかわった。ところが、この時、社会党は、福井に日教組出身の福岡県出身者を割り当てていて、田中さんの割り当て地域ではなかったという。
 清水さんが田中さんの集会に関ったことを知った県教祖の委員長が激怒して電話をかけてきて、「お前は誰に食わせてもらっているんだ」「田中寿美子を支援するなら、お前はクビだ」と怒鳴った。当時日教組は数が多いので、どの県でも県総評の委員長になり、力を持っていた。清水さんは、この委員長の言葉を聞いて、自分が考えている労働運動とは全然違う人だと思った。私は給料以上の仕事をしていた自信があったから、「食わせてもらっている」などという言葉を組合の人が使う、しかも教員である委員長が使うことにあきれ、こんな委員長の下で私は仕事をしたくないと思ったという。ただし、このことは、田中さんの当選とは全然関係がないし、秘書の話などは当時考えてもみなかった、むしろ、この際、福井県全体の女性運動を作ってみてやろうという夢を描いていたという。

 <田中寿美子さんの秘書に>
 田中寿美子さんの秘書になってほしいとの電話を受けたのは、選挙が一段落した10日ぐらい後のことだった。田中さんの選対委員長だった藤原道子さんから、「田中さんが、あなたにぜひ来てほしいと言っている」との電話があり、とんでもないと断ると、数日後に夫の田中稔男さんから、「寿美子が困ってますけど」と電話があった。
 清水さんは、一方的なので、納得できなかった。むしろ「私にすれば迷惑よ。私はこっちに生活があり、夫は県庁に勤めているし、そんな簡単に決められないし。だいたい、東京は、大きな集会で行くだけで右も左も知らない。まして国会の秘書なんて考えたこともないし。田中先生なんて、私たちは遠くから偉い人と思って、助言者としてみていた人なのに、私が行って何ができる?」と思ったという。本当に困って夫に相談したところ、意外にも夫は「行こう」と答えた。実は後でわかったのは、夫の茂夫さんは、福井での清水さんの、あちこち飛び回って外出・外泊が多く、家にいても朝晩誰かが訪ねてくる忙しい生活から抜け出して、東京に行けば規則的な会社員のような生活ができるのではないかと期待したらしい。
 結局、清水さんは田中さんの秘書になることを引き受け、茂夫さんも福井を離れて前橋の水資源公団に職を見つけ、家族で前橋に居を移した。ところが、茂夫さんの期待に反して、秘書生活は福井時代以上に忙しく、しかも、新幹線はもちろん特急も無い時代で、前橋・東京間は片道3時間もかかり、家に帰れない日や、子どもの顔を見れない日が続いた。これはまずいということで、1年後に前橋と東京の中間地点の大宮に家を借り、ようやく落ち着いたという。
 田中さんが清水さんを懇望した理由を、清水さんはこう解釈した。「田中先生は、女性解放運動と政治活動を結びつけようという考えでしょ。それには女性解放という視点と、それの協力者がいないと無理なのではないか。その一人に考えてくれているのかと思った。そうすると、田中さんの国会活動を成功させること、協力することが、やはり女性解放につながるのではないか。私はそういう思いで田中さんの秘書を決心したのです。」
 東京に着いて、田中先生の部屋に入ると、「やっと来てくれたわね」「あなたは第一秘書です」と言われた。しかし、清水さんは、第一秘書と第二秘書の違いがわからず、給料差も仕事の内容もわからなかったので、もう一人の男性を第一秘書に、自分を第二秘書にしてくれと頼んだ。「彼は男性だし、東京を知っているだろうし、こういう所に来ているのだから、色々知っているだろうと思った」という。しかも、その場で清水さんは、2年間の契約にしたいと申し出た。「先生と一緒に仕事をしたことがないから、先生が何を私に求めているのか、さっぱり想像がつかないし、先生も私を買いかぶっているかもしれない」ので、2年間やってみた上で、「これなら私もやれるという自信ができ、先生も、この人なら置いておこうと思ったら、その時にまた約束しましょう」というわけだ。
 きまじめな清水さんらしい、選択と契約の仕方である。2年後に、清水さんは、「このままならやれると思った」が、日本婦人会議の事務局長を引き受けることになり、田中さんとは、議員と秘書の関係ではなく、婦人会議議長と事務局長の関係として、その後も長くつきあうことになる。

 <国立療養所の食事を国会論議に>
 1965年12月に召集された第51回国会の予算委員会で、田中寿美子さんは初質問をした。複数項目の質問を用意した中で、特に国立療養所の患者の待遇改善要求は、メディアでも取り上げられるなど大きな話題になり、田中さんの国会デビューを華々しく飾るものだった。実はこの質問は、清水さんの発案・お膳立てによるものだった。
 清水さんは、秘書になるや、田中さんを選挙で推してくれた労働組合に電話をかけ、選挙のお礼方々、各組合の要求を聞いて回った。その内、医労協から、「患者の食事が粗末で栄養がない。もう少しカロリーを高める食事を出せということを要求しているとの返事があった。清水さんは、「これは絶対に質問できる」と考え、国会での質問当日、国立結核療養所の厨房で作った、患者用の朝食と昼食の現物を運んでもらい、看護婦さんたちに白衣で傍聴席に並んでもらった。衛視に止められたが、「資料です」と言って、国会の中に持ち込んでしまった。
 質問に立った田中さんは、国立療養所の患者たちの食事がいかに貧しいものであるか実物を見てほしいといって、質問台の横に置いてあった新聞紙をとったので、佐藤栄作総理大臣を初め、福田赴夫大蔵大臣、鈴木善幸厚生大臣らが、お膳を覗き込んだ。「中身は、朝食がみそ汁、ご飯と漬物、佃煮、昼食はコロッケ1個と大根の切干の煮物と漬物だった。大臣たちはいかにもこれではーーーと言うような顔をして見ていた」。田中さんは、「このような食事では結核療養所の患者が健康体になるのは難しい。だからこういう一番経済的に困った者に対しては、もっと保障していかなければいけない」と主張した。(田中寿美子『パラシュートと母系制』p135)。この質問は効果的で、予算がついたという。
 清水さんは、「絵になる」演出をした上で、あらかじめテレビ局にも電話しておいたそうだ。清水さんの運動家としてのアイデアと実行力が、いかんなく発揮されたといえよう。「私などは面白くなると思うのに、田中さんはものすごく恥ずかしそうにやっていた。やはり上品だから。」田中さんの戸惑い振りが目に浮かぶようで、私は内心苦笑してしまった。

 <貪欲な吸収力と行動力>
 清水さんは、田中さんに誘われて、政治や国際問題についての勉強会に参加したり、中国、朝鮮などを歴訪し、しだいに、福井県の活動家から、日本そしてアジアの活動家へと成長していく。日本婦人会議の事務局長を経て、議長を長年勤め、常任顧問となる。また、1989年以来2期12年間、社会党選出の参議院議員として活躍した。
 政治家としての清水さんの業績として特筆すべきことは、偲ぶ会に、朝鮮半島の南北の女性たちから、メッセージが届いたことからもわかるように、南北朝鮮の女性たちの交流に尽力したことだった。1991年に韓国と北朝鮮の両方から女性たちが来日し、日本からの参加者も含め、700人が「アジアの平和と女性の役割」を開催した。朝鮮半島分断後、初めての南北女性の出会いであった。清水さんは、この交流会の準備・推進に、大きく関った。
 国会で日本軍慰安婦問題に、正面から取り組んだのも、清水さんだった。1990年12月以後、国会で質問したほか、韓国、台湾、フィリピン、香港、中国などに調査に出かけ、「慰安婦」を含む「戦後補償問題」に取り組まれた。河野談話や「アジア女性基金」設立にも、積極的に関与されたようだ。
 また、1996年第2次橋本内閣で経済企画庁政務次官となった清水さんは、庁内に「家事労働に関する研究会」を発足させ、「家事の値段」を発表した。子どもの商業的性的搾取についても、早くから問題視し、1999年に児童買春・児童ポルノ禁止法制定に、超党派で尽力したことは、記憶に新しい。こうした政治家としての清水さんの活動について、お聞きしたかったことも多いが、ヒアリングを中断したまま、別の世界に旅立たれてしまった。
 それにしても、最期まで、がむしゃらなまでにエネルギッシュな活動を続けた清水さんの原動力は、差別や不正義に対する強い憤りと、貪欲なまでの学習能力、そして正しいと思ったこと、効果があると思ったことは、必ずやり遂げる実行力だったと思う。
 清水さんは、いまどき珍しいほどの一途な活動家だった。戦後を生きてきた私たちにとって、行動の指針となってきた日本国憲法の存続自体が、風前の灯となりかねない今、清水さんのような馬力のある活動家を失ったことは、かえすがえすも残念でならない。
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