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国際社会の現在(いま)―ジェンダー視点から
高橋喜久江さんと矯風会(その1)(2014.05.15)

 昨秋(2013年)、矯風会の高橋喜久江さんに、インタビューする機会があった。仲間と一緒に、田中寿美子さんの足跡をたどる活動の一環としてお会いしたのだ。お話しているうちに、高橋さんご自身と矯風会に興味が出てきて、参考資料など紐解いたので、紹介したくなった。初稿をまとめて、5月1日に再度、矯風会館に高橋さんをお訪ねした。今度は、昔「売買春問題ととりくむ会」事務局で働いたことのある、ゆのまえ知子さんとご一緒だった。
 高橋さんは、1957年以来、財団法人日本基督教婦人矯風会(以後、矯風会と記す)のメンバー(後に会長)として、また「売買春問題ととりくむ会」事務局長等として、50年以上にわたって、売買春問題に取り組んでこられた、息の長い活動家だ。1992年には、「女性の地位向上や女性問解決のために、先駆的仕事をされた方に贈られる」「東京女性財団賞」を受賞されている。

 <矯風会に就職するまで>
 高橋さんは、1933年東京生まれだが、戦時疎開のまま、鳥取で高校まで過ごした後、お茶の水女子大入学時に帰京。1957年にお茶の水女子大学を卒業後、私立高校の非常勤講師をしながら、スタートしたばかりのお茶の水女子大学専攻科で学んだ。
 高橋さんが専攻科を出た1950年代には、女性が4年制大学や専攻科を修了しても、非常勤的な仕事しか得られなかったが、とにかくフルタイムの職に就きたいと奔走されたという。たまたまご両親がクリスチャンだったことや、母上の津田塾時代の友人福田勝さん1 が矯風会関係者だったことなどから、「矯風会本部で若い人を探しているから、行って御覧なさい」と言われ、迷わず本部に出かけ、久布白落実(くぶしろおちみ)さんの面接を受け、「じゃあ、春からおいで」ということになったのだそうだ。
 4月1日就職の日に、久布白さんと次のようなやりとりがあったという。「何でここに就職するのか」と聞かれ、高橋さんは「結婚前に社会見聞を広めておきたい」と答えたところ、「ふーん、エックスペアリエンスかね。」と言われたそうだ。このエピソードは、私にはお二人の性格が表れているようで、興味深くお聞きした。
 久布白さんは、徳富蘇峰・蘆花兄弟の姪であり、父大久保真次郎も夫久布白直勝も牧師で、自身も幼児洗礼を受け、米国オークランドの太平洋神学校予科に入学した生粋のキリスト者。伝道のため渡米した両親の後を追って1903〈明治36〉年に渡米。10年後に帰国した後、1916年から矯風会の総幹事、1921年には副会頭になり、廃娼運動、婦人参政権獲得運動のリーダーとして活躍した、日本キリスト教界ならびに婦人解放運動の重鎮である2
 24歳で高橋さんが就職した1957年は、前年に国会を通過した売春防止法が施行された年で、社会的に話題になっていたので、高橋さんは多少とも、この問題に関心をお持ちであったはずだ。その上、当時、久布白さんはすでに74歳で、矯風会の大御所的な存在であった。その久布白さんの質問に、何のてらいもなく、社会勉強のためにここに就職しますと答えた高橋さんの正直さも微笑ましいし、茶化すように英語で応じた久布白さんも、なかなかの人物だと思える。
 この数日後に、高橋さんは、矯風会の先輩の福田勝さんらに吉原に連れて行かれ、売春防止法に反対する側の幇間(ほうかん) 3たちとも会ったという。高橋さんにとっては、衝撃的な出発だったのではないだろうか。私たちの世代から見ると、売買春反対一筋の人と見えていた高橋さんにも、こういう時期がおありだったのだということを知って、むしろ、私は親近感を抱いた。
 高橋さんは、「久布白落実と出会えたこと、久布白を初めとして、ここで活動している人たちを好きになったことが、私の人生を決めた」と言われる。実は、今回ご一緒したゆのまえさんは、「売買春問題ととりくむ会」に2年間勤務されたが、ここでの活動を通じて、多くの薫陶を受けたという。多分、久布白さんや福田さん、そして高橋さん等々が示される、弱い立場の女性たちに対する息長く献身的な支援の姿勢が、他の人々の心を動かすのだろうと想像する。
 高橋さんは、就職後、結婚し二人の子どもが生まれるが、職場の近くに住居を持てたことや、保育園のお迎えなど、何かの折には母上が駆けつけてくれたことなど、仕事をもつ女性としては恵まれた生活だったと回顧された。このような、生活者としての思い出話をお聞きできたのも、私にとっては意外な発見だった。

 <矯風会の歴史>
 高橋さんが終生の活動の拠点とされてきた矯風会は、1886(明治19)年に、矢島楫子会頭の下に東京婦人矯風会として出発し、世界キリスト教婦人矯風会にも登録され、1893年に、「日本基督教婦人矯風会」として全国組織化した(1986年に「日本キリスト教婦人矯風会」に改名)。矯風会というと、廃娼運動のイメージのみが強いが、一夫一婦制の建白,女性の政治的権利獲得のための治安警察法改正運動、母性保護法制定運動等々、その時々のフェミニズムの課題に対応した幅広い運動に、取り組んできた。平塚らいてう、市川房枝らによる新婦人協会が結成された1920年に開催された世界婦人参政権協会に、矯風会の久布白落実が日本人としてただ一人加入し、翌1921年には日本婦人参政権協会を設立。1924年に市川が婦人参政権獲得期成同盟を結成した際には、この協会も構成団体、久布白が総務理事となり、以後長期にわたって、市川らと行動を共にしたことは、意外に知られていないが、記憶に値しよう。
 1894(明治27)年、大久保百人町に1600坪の土地を求め、そこに「慈愛館」を建設し、足尾鉱毒問題地の女性・少女や、吉原遊郭を脱出した女性などを受け入れた。当時の大久保は、まだ「田舎だった」と言われるが、この土地を有していることが、現在に至るまで、矯風会の活動の物質的な基盤となっているようだ。
 戦後、新憲法が発布され、民法が改正され、参政権や一夫一婦制度が実現した後、矯風会は、売春禁止法制定促進委員会を組織し、超党派の女性国会議員と連動して、公娼制度の廃止と婦人保護事業の確立を定めた売春防止法の制定に尽力した。1956年に売春防止法が成立した後は、すでに設立していた社会福祉法人慈愛会を拠点に、売春防止法に基づく婦人保護事業を展開する一方で、防止法が期待に反して、売る側だけを罰する「片罰制」だったことに反対して、買う側も罰する「両罰制」に改正する運動を開始し、毎年繰り返し、議員たちへの働きかけを続けてきた。
 矯風会の活動については、大正期の伊藤野枝以来、「傲慢・偏狭な慈善事業」「キリスト教的道徳主義」などの批判が向けられ、1990年代以降にも、娼婦に「醜業婦」としてのスティグマを刻印したとして指弾されてきた。しかし、矯風会の120年以上にわたる息長い活動によって救われた女性が数多くいたことも事実だ。伊藤野枝らの反感もわかるし、性産業従事者への差別意識に対する批判も理解できるものの、一方で、弱い立場の女性を援助してきたキリスト者たちの献身的な努力に対する敬意を抜きにして、後の世代が一方的に断罪することには、私は抵抗感を覚えざるをえない。

1)福田勝(1904-2001)は、女子英学塾〈現津田塾大学〉卒業後、秋田県、千葉県で高等女学校教諭を務めた後、1947年から1964年まで、矯風会の婦人ホーム「慈愛寮」寮長(後に理事長)。この間に、久布白落実を援け、売春禁止法制定促進委員会事務局長等を務めた。折井美耶子編『女ひとりわが道を行く』(ドメス出版 2005)参照
2)久布白落実(1882-1972)の生い立ちや私生活、社会活動は、自伝『廃娼ひとすじ』(中央公論社1973→中公文庫 1981)に詳しい。久布白の葬儀に際しては、矯風会関係者以外に、山高しげり売春対策国民協会理事、市川房枝婦選会館理事長、植村環日本YWCA名誉会長、櫛田ふき日本婦人団体連合会会長、藤原道子日本社会党参議院議員、小笠原貞子日本共産党参議院議員など、各界から超党派の人たちが、弔辞を寄せており、久布白の活動や交流の幅の広さが覗える。『婦人新報』No.867久布白落実追悼号参照
3)男芸者、太鼓持ちとも呼ばれ、遊郭などで、客の宴席で、座を取り持つなどして、遊興を助ける男のこと

(次回へ続く)

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