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国際社会の現在(いま)―ジェンダー視点から
高橋喜久江さんと矯風会(その2)(2014.06.13)

 <高橋さんの売買春問題への取り組み>
 高橋さんが、本気で売買春問題に取り組むようになったのは、沖縄や韓国に出かけて、当地の売買春の実態に触れた後だったという。高橋さんが最初に沖縄に視察に行ったのは、返還前の1969年で、パスポート持参で出かけた。復帰後の1972年夏に、また1978年秋には、矯風会として訪問し、『婦人新報』1に掲載した報告記事は、田中寿美子議員の国会質問2につながり、答弁に立った橋本龍太郎厚生大臣も、この記事に注目したという。「官僚ばかりに任せておくわけにはいかない」という田中の提案で、翌79年6月に、田中、高橋ら5名の女性がチームを組んで、沖縄を訪問した。
 1972年に「沖縄の売春ととりくむ会」の発足にかかわり、翌1973年に「売春対策国民協議会」(売春防止法制定直後から法改正運動に取り組んできた矯風会を中心とする34団体)と合流してできた「売春問題ととりくむ会」(1986年に「売買春問題ととりくむ会」に改称)の発足に際して、事務局長に就任し、2014年現在までその任にある。
 同じく1970年代初頭に、日本人の男性たちが団体で韓国に買春ツアーに行く、いわゆるキーセン(妓生)観光問題が浮上してきた。キーセン観光は、その後、世界的に問題化する、アジア諸国へのセックス・ツアーの最初の事例と言われ、60年代に日本人の海外渡航が自由化されて以来、観光会社が男性向けのパック・ツアーとして、悪びれることなく商品化していた。これに対して、韓国の女性たちから、批判の声が上がった。
 1973年には、韓国教会女性連合の問題提起を受けて、日本でもキーセン観光批判の声が上がるが、高橋さんも、日本キリスト教協議会の山口明子さんと二人で、自費で韓国を訪問し、キーセン観光の実態を見てきた。現地の人に教えられ、妓生カードを持つ女性たちが出入りするホテルに出かけて、観察したが、早朝、大人の妓生たちが、ホテルからタクシーに相乗りして帰る中、一人トボトボと歩いて帰る14-5歳の少女のことが気になったという。当時、高橋さんには、小学生の娘さんがおり、東京に残してきた自分の娘と引き比べ、とても心に残ったという。その後も、韓国に行くたびに、あの少女はどうしているか、気にかかったという。翌1974年に、「売春問題ととりくむ会」は、「韓国の女性たちの闘いに連帯し、キーセン観光に反対する集会」を、「アジアの女たちの会」など、他のフェミニズムグループと共催するが、高橋さんの問題意識の原点には、この少女への思いがあった。
 売春防止法に象徴されるように、従来、金銭を介したセックスを「売春」と呼び、「売る」側だけを問題視する風潮があったが、「買う側」の問題を意識させる「買春」(カイシュン)という言葉は、このキーセン観光批判運動の中でつくられていった。この言葉を最初に使い始めたのは、この運動を積極的に推進した高橋喜久江さんと、松井やよりさん(当時朝日新聞記者)だったといわれる。(『岩波女性学事典』中、ゆのまえ知子による「買売春」の項参照)

 <今に続く矯風会の活動>
 矯風会は、1986年の創立百年事業として、国籍を問わず緊急保護を必要とする母子・女性の駆け込みセンター「女性の家HELP(Home in Emergency of Love and Peace)を設立し、多くの女性たちの保護と自立支援に当たってきた。
 また、矯風会 性・人権部の幹事である宮本潤子さんと斎藤恵子さんが共同代表をしているECPAT/ストップ子ども買春の会を通じて、1999年の児童買春・ポルノ禁止法成立に関わった。2000年には、女性の家HELPディレクターを経て矯風会ステップハウス所長となった東海林路得子さんが、事務局長を務める「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWWW-NETジャパン)を支援し、女性戦犯法廷の開催に協力した。また、2001年の「配偶者からの暴力防止及び保護に関する法律」が成立するが、慈愛会では、以前からDV被害者を受け入れてきたので、さらにその活動が強められた。
 高橋さんは、「売買春問題ととりくむ会」事務局長の傍ら、2001年5月―2004年5月まで、矯風会会長を務め、さらに、現在、慈愛会理事長も兼務されるなど、名実ともに、矯風会関連諸団体をリードしてこられた。
 先述したように、高橋さんへのインタビューで、私は高橋さんの、いわば殉教者ではない、生活者としての側面に触れて親近感をもったが、ほかにも驚いたことが2つある。1つは、高橋さんの、事実に対する几帳面さと誠実な態度だ。あらかじめお届けした質問項目に対して、古い資料を探して、事実を確認してくださったが、これほど几帳面に記録を残しておいでの方は珍しい。おかげで、数十年前の出来事でも、何年何月何日に、誰と誰が打合せに参加し、集会で発言したかなどが、克明に浮かび上がってきた。
 発見したことの2つ目は、高橋さんと矯風会の意外ともいえる柔軟さと先見性だ。政府や行政が入管法をタテに外国籍女性への支援を渋っている中、1986年に、いち早く「女性の家HELP」を設けたこと、「売春問題ととりくむ会」の名称を「売買春問題ととりくむ会」と改称し、「買う」側こそ問題であるとの認識を社会的に定着させたこと、「慰安婦問題」や児童買春・ポルノ問題に積極的に取り組んできたこと等々、その時代時代に必要な、弱い立場の女性たちに対する支援活動に果敢に取り組んでこられた勇気と柔軟さには、感嘆させられる。矯風会に対してしばしば発せられてきた批判に対して、直接的に反論したという話は寡聞にして聞かないが、矯風会は、その実践活動自体を通じて、批判に応えてきたと言えるのではないだろうか。

 <高橋さんの活動の原動力>
 ところで、高橋さんが、日本軍「慰安婦」問題に取り組み始めたのは、1988年の尹貞玉さんとの出会いがきっかけという。その後、ソウルのハルモニたちの水曜デモに呼応して、日本で1990年頃から、志を同じくする友人といっしょに、国会会期中の毎週金曜日に、参議院議員会館前でプラカードを掲げて座り込みをし、足が少し弱くなられた最近でも、毎週通っておいでという。
 最後に、高橋さんに矯風会への批判についてのご意見を伺った。高橋さんによれば、矯風会は「女パリサイ人」3と見られていよう。もし性を売らざるを得ない女性がいて、その人との間で、矯風会とトラブルが起きたら、イエスはどちらの側に立たれるかというと、性を売らざるを得ない女性たちの側に立つはずだ。しかし、そのことを知りつつ、必要があれば、仕事をし続ける存在が矯風会だ、と言われた。批判を十分承知しつつ、「自分たちがやらなければ!」(『婦人新報』2010年1月号掲載の、高橋さんのエッセーのタイトル)の気概と使命感こそ、高橋さんの原動力なのだと私は思った。

1)矯風会の機関紙。1895(明治28)年に、『婦人矯風会雑誌』が発行禁止処分を受けたのを機に、『婦人新報』と改称して発行し、現在に至る。NHK連続テレビ小説「花子とアン」のモデル村岡花子は、1910年頃から、1935年に「文書部長」を次の人に引き継ぐまでの約25年間、この雑誌に関わったという。藤沢陽子「花子とアンと矯風会」『婦人新報』第1345号〈2014年4月〉参照。
2)田中寿美子議員は、1979年3月29・30日に、参議院予算委員会で、本土復帰後も、沖縄では管理売春が横行し、売春婦たちの大半が、事実上の前借金に縛られている実態について質問し、主管官庁を明確にして早急に対処するよう要請した。
3)『新約聖書』に出てくる、厳格派の律法学者。モーセの律法に厳格に従って、異邦人とかかわりのあることをすべて避ける人々のこと。

2014/05/02

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