判例 女友だち 映画ウォーキング 情報BOX わがまま読書 リンク おたより欄
世界のフェミニストは今 井上輝子
田中寿美子さんのこと

 二つの顔
 暑い夏の午後、月島に住む田中寿美子さんの妹・片柳定子さんをお訪ねし、寿美子さんの思い出を伺った。近くにお住まいの朝倉和子(定子さんの娘)さんも一緒だった。
 「田中寿美子って誰?」という若い人たちに、彼女のことを説明するのは、存外難しい。寿美子さんは、少なくとも2つの顔を持っていた。一つは政治家の顔。1965年に社会党から参議院議員に当選して以来、1983年に引退するまでの18年間、彼女は社会党を代表する女性議員として、日本婦人会議議長、社会党婦人局長、社会党副委員長などを歴任した。この間、「国連婦人の十年推進議員連盟」「戦争への道を許さない女たちの連絡会」、「中間施設を考える会」等を設立。「男女雇用平等法案」を国会に提出するなど、フェミニストの議員として精力的に活動した。社会党の女性政策が、固定的なマルクス主義婦人論から脱して、新しいフェミニズムへと踏み出すことができたのは、寿美子さんの功績が大きい。
 他方で、寿美子さんはマーガレット・ミード「男性と女性」の邦訳者であり、「近代日本の女性像」「女性解放の思想と行動」等の編著、「パラシュートと母系制」「ジュスマ・マンシェルさん物語」等の著書をもつ研究者でもあった。1950年代にブリンマー大學に留学して人類学を学び、帰国後評論家として活躍。1961年の創立以来、婦人問題懇話会にかかわり、初代代表山川菊栄さんの死去に伴い、81年から代表を務めた。
 決断の人
 寿美子さんの多方面な活躍を日常生活面から支えたのが、定子さんだった。今回改めて発見したことの1つは、寿美子さんが人生の岐路において、何度か思い切った決断をして自分の意志を貫いたこと。最初は稔男さんとの結婚。1930年代当時、20歳そこそこの彼女が、家族の反対を押し切って、3,15事件(編集者注:1928年3月15日日本共産党員などの運動家がいっせいに検挙された事件)被告と結婚するには、大変な決意が必要だったと想像される。失業中の夫に代わって働きながら3人の娘を産み育て、戦時中は夫の実家に疎開し、敗戦後に帰京するまでの15年間は、彼女にとって長い苦難の時代だった。
 戦後、労働省に勤務し、課長として将来を嘱望されていた1954年に、娘たちを定子さんに託して、アメリカに留学したことも、思い切った決断であった。1ドル360円の時代に、40代の既婚女性が、単身留学するということは、勇気のいることだったにちがいない。定子さん夫妻の協力があればこそ出来た決断ではあったが。
 第2の発見は、アメリカ留学の期間が、わずか1年だったこと。彼女の英語の堪能さは定評がある。私は寿美子さんのアメリカ旅行に同行させていただいたことがあるが、その折、旅行の各場面で必要な英語表現や、アメリカの生活習慣を時に応じて伝授していただいた。それなので、私はてっきり寿美子さんは、3−4年のアメリカでの生活経験がおありだと思い込んでいた。以前からアメリカへの関心と憧れが強く周到な下準備の上での留学、その上家族から離れて自由に行動できる身軽な学生生活の中で、彼女はアメリカでの生活と勉学にいそしみ、短時日の間に何年分もの凝縮した経験をしたのではなかろうか。
 寿美子さんは、多彩な能力と強い意志とによって、政治と研究を共に成し遂げたフェミニストであったが、社会の着実な進歩を確信できた20世紀という時代も幸いしたのかもしれない。話に興じて、定子さん宅に思わぬ長居をしてしまった。

Copyright(C) 2001 GAL. All Rights Reserved.
 
TOP BACK