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国際社会の現在(いま)―ジェンダー視点から
一人でミニコミを40年以上続けている久野綾子さん(2013.09.13)

 <ウーマン・リブから生まれた『おんなの叛逆』>
 『おんなの叛逆』というミニコミがある。A5判、70ページ前後の冊子で、発行部数は多い時は2000部あったが、最新号は500部という、文字通りのミニコミだ。1971年、ウーマン・リブ運動の最中に創刊されて以来、不定期刊で続けられ、今年6月に59号目が発刊された。70年代はミニコミの創刊ラッシュの感があったが、現在まで続いている例は、ほかにあまりないだろう。このミニコミを一人でずっと続けてこられたのが、久野綾子さんだ。
 久野さんは、40年生まれで現在73歳。つい最近まで朝日新聞名古屋本社勤務の記者だった。久野さんが入社した当時、名古屋の編集局に勤める約200名中、女性は1−2名。「バイトの人が1人ぐらいいたかもしれませんが、長い間女性は実質一人。見渡すかぎり大部屋に一人だけ」だった。名古屋本社全体では十数名の女性が働いていたが、女子専用トイレが4階にしかなく、2年越しの訴えで女性用トイレが各階に設置されたのは、70年のことだった。しかも労働基準法の「女子の深夜業禁止」を理由に、女性の時間外手当が低く算定されるなど、女性への差別待遇が日常化していた。久野さんは、こうした女性への処遇に疑問を感じ、組合活動に関っていった。
 折しも、ウーマン・リブが話題になり始めた時期だったが、ウーマン・リブのデモや集会の記事は、名古屋版には出されず、都内版に小さく報道されるだけだった。久野さんは、都内版の記事を見つけて、頻繁に東京に出かけ集会に参加したり、田中美津たちのコレクティブを訪れたりした。その中で、女性の処遇が「差別なんだ」ということに気づいた。
 久野さんがミニコミを発刊し始めたのは、ちょうどこの頃、71年のことだった。創刊号(71.1.25)は、『ふじんのしおり―抑圧からの解放』と題し、朝日新聞労組名古屋支部青婦部の発行となっている。久野さん自身は、「おんなの叛逆」としたかったが、「すごい抵抗があって」、4ヵ月後の71年5月5日に、編集・発行久野綾子による『おんなの叛逆』として創刊(通算第2号)し直した。この号の編集後記には、「マスコミ界に働く女性有志が力をあわせてつくることになりました」とあり、編集部員として、久野さんのほか、東京本社の女性5名の名前が上がっている。もっとも、この編集部員というのは、名前だけで、最初から実質的に久野さんが一人で編集にたずさわり、朝日の社内の人が、原稿を寄せてくれたり、表紙を描いてくれるなどの協力をしてくれたという。編集部員の名前は、第7号(通算8号)までで、それ以後は記されなくなり、名実共に久野さんの個人誌の体裁に変わる。
 71年8月に、信濃平でリブ合宿があり、久野さんも参加した。リブ合宿には、私も参加したが、「ぐるーぷ闘う女」の呼びかけチラシを頼りに一人で出かけたが、最寄駅名が書いてあるだけで地図もなければ、おおよその距離もわからず、1時間ぐらい歩いてようやく到着した覚えがある。着いてみると、100 人の予定が200人も参加したということで、食べ物の確保から寝る場所や布団の確保まで、まさに生存競争。合宿のプランも、1日目に車座で自己紹介の大集会、2日目は分科会などの大枠は示されていたものの、具体的中身は参加者が勝手につくっていくということで、柔軟で自由な半面、混沌のるつぼでもあった。
 集まった女たちの経験談や憤懣話も、共感できるものもあれば、度肝を抜かれるような話題もあり、とにかく驚くことや刺激されることの連続であった。
 久野さんも、それまでの常識がいちいち破られて、「なにもかもびっくり」する一方で、「男の物差し、価値観に骨の髄まで染みている」自分を見直すきっかけになったという。ここで色々な女性たちと出会い、『おんなの叛逆』の寄稿者も、朝日新聞社や名古屋地域を超えて、一挙に広がることになる。実は私が久野さんと知り合ったのもリブ合宿で、合宿の感想を第3号(通算4号)に寄せたのが、お付き合いの始まりだった。

 <自由で柔軟な発行姿勢>
 以来、『おんなの叛逆』を毎号購読しているが、このミニコミの特徴は、刊行周期もテーマも柔軟で自由なことだ。年に3回発行していた時期もあったが、年2回刊、年1回刊、そして、1度も発行しない年もある。発行日も実態に即した日付をそのまま記すせいか、82年5月10日(25号)の次は82年12月11日(26号)、その次は83年7月6日(27号)と、全く不規則だ。特集テーマは、初期にはお茶くみ問題や職業病など、職業との関係が多かったが、次第に嫌煙運動、リブ運動関係、さらに優生保護法や子宮筋腫手術などの女性の身体に関すること、戦争責任、慰安婦問題、性暴力、DV問題へと広がっている。近年は、「女性に対する暴力」の問題に照準が絞られつつあり、同じテーマを2度3度特集することもある。
 久野さんは、次は何月にどのテーマでと決めずに、久野さんが関心を持ち、参加した集会や手元に集まった資料がある程度まとまった時点で、新しい号をつくるのだという。 「背伸びしたって無理でしょ。難しいことやったって無理だから、自分の目線でできる範囲内、しかも自分の触れる範囲内のことしかやらない」という、久野さんの気負いのない姿勢こそ、40年以上の間、『おんなの叛逆』が続けられている秘密のような気がする。久野さんの個人的都合や、個人的関心の赴くままにテーマが選ばれ、発行時期も決まっているようだが、久野さんの関心は不思議に、その時期その時期に、日本の女たちが知りたいテーマや、主張したい内容と合致している。もしかしたら、関心が合致しているのは私も含めた同世代に限られているのかもしれないが。
 久野さんの柔軟な姿勢や特集テーマのほかにも、『おんなの叛逆』が長期にわたって、読者を惹きつけてきた魅力がある。特集タイトルのつけ方と表紙の絵だ。特集タイトルは、「私とリブ合宿」「忍び寄る職業病」「化粧は女性侮辱そのもの」「小さくて痛い女の靴」「わずらわしい世間体」「髪は女の命か」「子のない人生肯定したい」等々、タイトルが中身を簡潔に示すだけでなく、編者からのメッセージが伝わってくる。

 <持続を支えたシスターフッド>
 表紙とカットは、当初朝日新聞社内のデザイナーに頼んでいたが、10号目(1974.9.25)以降は、久野さんの友人の妹豊島潤子さんに替わった。豊島さんの表紙は、特集テーマの主張をビジュアルに表現したもので、1枚1枚に女の怨念や時には希望が込められている。この豊島さんの知り合いの書家和久田桂子さんが、11号(1975.2.18)以降の題字を担当されている。豊島さんは関東在住の友人で、和久田さんとは久野さんは面識もないという。しかし、これらの女性たちが、40年近くの間、『おんなの叛逆』を側面から支えてきたのである。シスターフッドの力というべきだろう。
 久野さんは、『おんなの叛逆』を続けてよかったことは、「色々なお友だちが全国にできたこと」だという。だが、座してお友だちが自然にできたわけではもちろんない。久野さんの友だち作りまたは運動の広げ方には、久野さん独自の粘り強さと楽観主義がある。数年前にインタビューした際に、原稿の集め方について尋ねたところ、次のような答えが返ってきた。
 「例えばテーマに関心のある方10人に、『書いてみない?』って声をかけて、4人がOK。その内2人は、『やってみたけど書けなかった』。でも、その人に『考えただけで充分書いたのと同じだから、その問題について考えたわけで、私の初期の目的は達したからいいのよ。また何かの時に書いてね』って。書くことが目的じゃなく、関心を引き寄せたことが大事。それが次の行動につながるから。最終的に10人中1人が執筆、掲載に。でも私はがっかりしない。同じ問題を考える人が一人でも増えていくから。」
 久野さんがミニコミを作っていること自体が、一種の運動になっている秘訣がここにある。1970年代のウーマン・リブ運動の中から多くのミニコミが生まれたが、ミニコミの果たす、運動としての機能をこれほど的確に表現した言葉を私は他に思いつかない。
以上

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