判例 女友だち 映画ウォーキング 情報BOX わがまま読書 リンク おたより欄
国際社会の現在(いま)―ジェンダー視点から
20世紀を駆け抜けたフェミニスト田中寿美子さん(2014.09.16)

Part1 生い立ちから評論家時代まで

 <日本のボーヴォワール>
 田中寿美子の名を知る人は、今や本当に少ない。ある程度年配の人は、名前を聞いたことはあるが、何をした人か覚えていないと言い、若い人は、名前さえ初耳と言う。ネットで検索しても、私が数年前に、このGALで紹介した文章ぐらいしかまとまった記事が見つからない。戦後の日本の女性たちの思想や運動に与えた影響力は甚大なものがあったし、社会党初の女性副委員長として、土井たか子さんや福島みずほさんなど、女性党首への道を開いた重要な人物であるにもかかわらず、意外なほどに忘れ去られてしまっている。
 生前の田中さんに直接接し、そのお人柄や活躍ぶりを敬愛する私たちは数人で、2012年から「田中寿美子さんの足跡をたどる会」を立ち上げ、資料集めや、聴き取り調査をし、2014年中に、その成果を冊子にまとめる準備をしているところだ。この調査で発見したことを含めて、田中さんの足跡を、この場を借りて、簡単に紹介したい。
 田中寿美子は、1909(明治42)年に生まれ、1995年に享年85歳で亡くなった。1908年に生まれ、1986年に78歳で死去したシモーヌ・ド・ボーヴォワールと同時代を生きた、20世紀を駆け抜けたフェミニストの一人といえる。田中の「生涯の友」といわれる松永伍一が、田中の議員引退時に、「日本のボーヴォワールに」と題する詩を詠ったのは、あながち持ち上げすぎというわけでもないだろう。ボーヴォワールよりわずか1年後の生まれで、青年期以来社会正義をめざす運動にコミットする一方で、女性差別の根源を求めて思想的、理論的な模索を続けたことなど、田中の人生航路は、ボーヴォワールのそれと重なる点が多い。おしゃれに気を配るフェミニストだった点でも、二人は共通していたと思うのは、私だけだろうか。
 けれども、同じく20世紀初頭に生を享けたとはいえ、フランスと日本では、女性をとりまく状況は大きく違っており、特に日本の家制度の支配下で結婚し子育てをした田中は、ボーヴォワールほどには自由な人生を歩むことできなかったことも確かだ。

 <生い立ち>
 田中寿美子は、父西島良爾・母千代の三女として生まれた。一女、次女が早世のため、長女的役割を果たしたという。父母とも、伊豆の出身だが、父の仕事の関係で、神戸で生まれた。父は上海で学び、中国語に堪能だったため、裁判所の通訳官を務める傍ら、日中両文の新聞や雑誌の編集をし、日華親善に尽くした人だったが、寿美子が14歳(高等女学校2年)の時に亡くなった。
 母はクリスチャンで、二人の兄と寿美子、妹、弟二人の6人きょうだい全員が洗礼を受けたといわれる。父の急逝後、母の決断で、一家は東京に転居し、寿美子は、私立小石川高等女学校に転入した。母子世帯になったため、生活は貧しく、大学生の兄たちは家庭教師のアルバイト、寿美子は母の内職を手伝い、家計を助けた。ただ、貧しくても文化的な環境だったようで、二人の弟たちが、貸本屋で借りてきた探偵小説やロシア小説などを、声をあげて読んでくれたり、一緒に映画を見に行ったりしたという。二人の兄は後に、それぞれ新聞記者、弟たちは劇団の演出家、俳優になった。

 <津田英学塾>
 寿美子は、1927年に津田英学塾(現在の津田塾大学)に入学し、奨学金やアルバイトで学費を工面し、1931年に卒業する。寿美子が津田で学んだということは、その後の将来に大きな意味を持った。一つには、ここで身に着けた英語力が、その後の人生の折々に訪れた危機を救ったこと。翻訳や英語の家庭教師、学校教師をすることで、寿美子はたびたびの経済的困難を乗り切ることができたし、後述するパラシュート事件や労働省勤務等で、寿美子を蘇らせたのは、その英会話力だった。今話題の村岡花子もそうだが、戦前戦後の日本で、社会的活動を続けることのできた女性たちには、英語力を武器にした人が多い。よほどの幸運がなければ海外渡航ができなかった時代に、学校を卒業しただけで直ちに通用する英語力を習得させた、ミッション系女学校の英語教育のレベルの高さにはあらためて驚嘆する。
 英語力に加えて、津田人脈の広がりも、特に戦後の寿美子の活躍を支えたように思われる。疎開先の熊本から出てきたばかりの未経験の寿美子が労働省に職を得ることができたのは、当時婦人少年局長だった津田の先輩山川菊栄の推薦によるものだし、婦人課長に抜擢された後には、山川を継いだ、同じく津田の恩師藤田たきに何かと世話になっている。
 それだけではなく、津田塾時代に、藤田たきに誘われて、婦人参政権運動に参加し、市川房枝らと知り合うなど、社会問題に目覚めたことがきっかけで、寿美子は社会主義に関心を持ち始め、キリスト教に疑問を持ち始めたという。津田塾で学んだ経験は、寿美子のその後の人生を、大きく左右したといえよう。

 <思想結婚>
 津田塾卒業後、寿美子は東京政治経済研究所に助手として就職し、そこで、田中稔男と知り合う。田中稔男からマルクス主義の手ほどきを受け、数か月の内に結婚。家族の反対を恐れ、家出同然で稔男の下に走った。結婚がばれて、二人とも研究所を追われ失業。寿美子が病院の事務員をしたり、家庭教師や翻訳で家計を支えた。古本屋で本を売って、「お米の1升買い」をしたり、電燈代が払えずロウソクで徹夜でガリ切りをするという貧乏生活の中で、夫婦で図書館に通い、マルクス・エンゲルス全集を読んだり、資本論の学習会をするなど、勉強を続けた。
 寿美子は後に、この頃を振り返って、「貧しかったが未来の社会変革を期待していたので、つらいとは感じなかった」と述べている。一方で、自分たちの結婚を、相手の人格や性質に魅かれた恋愛というよりは、社会主義という思想に導かれた「思想結婚」だったとも述懐する。

 <厳しい戦時下生活とパラシュート事件>
 1935年に長女眞子を出産し、38年に長男英一、43年に次女道子、44年に三女邦子を産むが、英一を3歳で亡くす。戦争が始まり、生活がますます苦しくなる中で、稔男がボルネオの製鉄所に赴任。寿美子は1944年、娘たちを連れて、熊本県の田中の実家で姑と暮らすことになった。戦時下の物資不足の上に、「葉隠乙女」を任ずる姑との確執に苦しむ、つらい日々であった。1945年の敗戦後まもなく、寿美子はこの厳しい境遇から、抜け出すきっかけとなったのが、パラシュート事件であった。
 8月15日の無条件降伏後に各地で略奪事件が起きたが、寿美子の住む寒村も例外ではなかった。たまたま海軍航空隊の格納庫においてあったパラシュートをばらして、本絹の布や紐が村中に配られた。ところが、9月になって、進駐軍が接収に来て、格納庫にパラシュートがないことがわかり、村長を人質にとって、村中にあるパラシュートを返還せよと要求される大事件になった。この時、進駐軍に詫びを入れる交渉の通訳として、寿美子に白羽の矢が当たった。寿美子の英語力と交渉力によって、なんとか難事を切り抜け、お咎めなく終わったことで、一躍寿美子は、「村の恩人」となったという。(「パラシュート事件―日本軍武装解除のエピソード」『パラシュートと母系制』pp9-24)寿美子35歳の出来事であった。津田で鍛えた英語力が、身を救ったわけだ。

 <労働省婦人少年局時代>
 1946年5月に稔男が復員し、翌47年戦後第2回の衆議院選挙に、福岡県3区で社会党から立候補し当選する。その年の秋に、寿美子は3人の娘を連れた東京に戻った。そして、たまたま婦人問題資料を見せてもらうために、山川菊栄婦人少年局を訪ねたところ、渉外担当の嘱託として働けということになった。田中にとっては「政府の役人になるなんて戦前には夢にも考えられないことだった」が、津田の先輩山川から、GHQへの文書の翻訳という打っ てつけの仕事を与えられ、官僚としての第1歩を踏み出したのである。その後、本雇の事務官となり、1950年には高級公務員試験に合格し、労働省婦人少年局婦人課長に就任する。とんとん拍子の出世であった。
 田中寿美子の婦人課長就任は、ビッグニュースだったようで、『アサヒグラフ』〈1950年9月13日号〉は、表紙に田中寿美子の顔写真を載せ、「グラフの顔」欄に藤田たきの推薦文を掲載している。労働省時代の田中は、農村の生活実態調査に出かけたり、基地売春、赤線地域の調査をしたり、婦人団体の女性たちと会合するなど、山積する「婦人問題」に取り組んだ。

 <留学後、評論家として活躍>
 しかし、田中は、生涯官僚で終わるつもりはなく、婦人問題研究に方向転換を図ろうとしたようで、1954年44歳の夏、労働省を休職し、妹の片柳定子一家に娘たちを預けて、ハーバード大学夏季国際セミナーに参加し、引き続きブリンマー大学特別研究生として社会学・文化人類学を学んだ。大学から奨学金をもらい大学院寄宿舎に入り、図書館と寄宿舎を往復する毎日だったという。ここで、マーガレット・ミードの”Male and Female”〈後に、加藤秀俊と共訳で『男性と女性』を出版1961年〉に出会ったり、アメリカ・インディアンの中で母系制の伝統をもつイロクオイ族の文献等を読み漁った。
 しかし、家庭の事情もあり、留学をわずか1年足らずで切り上げ、1955年6月には帰国。労働省を退職し、著述・講演など、社会評論活動に入った。主として『婦人公論』を舞台に、日本の婦人問題、婦人運動について、また諸外国の女性の歴史や現状について、精力的に論考を発表する。折からの主婦論争でも、アメリカでの主婦回帰傾向を是とする坂西志保への反論「主婦論争とアメリカ」を書き、一石を投じた。『若い女性の生き方』(1959年)『二人のための人生論』(1968)などの単行本も次々に出版。いずれも、自身や娘たちの結婚や仕事の具体例を紹介しつつ、自立と平等を求める若い女性たちをエンカレッジする内容で、感動する読者も多かった。
 61年にカイロで開催された第1回アジア・アフリカ婦人会議で基調報告するなど、国際的にも活躍している。またソビエトや中国を訪問して、社会主義国の家族のあり方に触れ、『新しい家庭の創造−ソビエトの婦人と生活」(岩波新書1964)を著したりもした。母親大会の助言者を長く引き受けるなど、いわゆる婦人問題から平和問題まで、幅広い評論・講演活動をして、田中寿美子は一躍「時代の寵児」となった。

(次回へ続く)

Copyright(C) 2001 GAL. All Rights Reserved.
 
TOP BACK