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世界のフェミニストは今 井上輝子
青木やよひさん訪問記

 先日、ウーマンリブ研究会の仲間といっしょに、伊豆高原に住む青木やよひさんをお訪ねした。青木さんのリブ運動とのかかわり、ならびに74−75年に発刊されたリブのミニコミ「新しい地平」について、お聞きするのが、主たる目的だった。あいにく土砂降りの雨だったが、おつれあいの北沢方邦さんと二人で、歓待してくださり、内容豊かなお話を伺うことができた。敗戦時18歳だったという青木さんの戦争体験や、長らく勤められた出版社での経験など、青木さんの思想の原点ともいうべきものを聞かせていただいたので、報告したい。

戦後からの出発
 青木さんは、敗戦の前後には東京から浦和に疎開し、薬専(現在の東京薬科大学)に通っておられた。ある日、下校時に乗っていた電車が荒川の鉄橋にさしかかった時、空襲警報が鳴った。身動きができないほどの満員電車の中で、もしここで爆撃されて、みんな黒焦げになって川底に沈んでしまえば、私がどこで死んだのかもわからぬまま、その存在がこの世から消されてしまうだろうと思い、「そうか、戦争とはこういうものだったのか。戦争は、体を滅ぼすだけでなく、一人一人の人生の歴史を無にしてしまうのだ」と、瞬間的に考えたという。これが啓示となって、戦後の生き方につながったという。
 戦後、戯曲や小説を書いたり、俳優をめざしたり、色々な試みをしながら、生き方を模索する中で、片山敏彦に出会い、みすず書房に入社し、ロマン・ロランの全集を1人で担当。ここで20年間勤めた間、自分の意見などを自由に発言し、特に差別などは感じなかったが、退職の際、嘱託の条件などを交渉しようとした際に、「あなたには、立派なだんなさんがいるでしょう」といわれて愕然とし、「女性差別に目覚めた」という。

アメリカでの目覚め
 1971年に北沢さんがアメリカ国務省から招待され、二人で、2ヶ月間アメリカ各地を旅行した。ちょうど女性運動が盛り上がっている時期で、NOWをはじめ大小さまざまな団体を訪ね、それまで持っていたアメリカの女性の方が解放されているとの幻想が崩れたという。たとえば、青木さんと北沢さんが別姓を名乗っていることや、財布を別にしていることに、アメリカのフェミニストの活動家が感嘆して、アメリカでの女性の抑圧的な実情を話してくれたという。また、アメリカ人たちの科学技術に対するあまりにも楽天的な信仰にも驚き、日本のリブは別の道を探るべきではないかと、考えたという。
 それまでは白人並の人権とチャンスを求めていた黒人たちが、「ブラック・イズ・ビューティフル」を唱え始め、胸を張って歩いている姿にも共感し、「そうだ。女だって、いまさら男に追いついてどうなるの?」という思いが湧きあがってきた。アメリカ先住民との出会いが、青木さんの世界観を決定的に変えた。アメリカ旅行が、その後の青木さんのフェミニズム論に与えた影響は、とても大きなものがあった。

「新しい地平」の時代
 帰国後、富山妙子さんから誘いを受け、三宅義子さんと3人で、「新しい地平」を始めることになった。「新しい地平」は、いわゆるリブ世代よりも上の世代で、リブ運動が始まる以前から市民運動等に関わっていた女性たちが集まり、「市民に権利の回復を!市民連合」を組織し、2ヶ月に1度発行したミニコミである。1974年1月1日に創刊し、翌75年8月15日に8号で終刊した、短命の雑誌であったが、装丁も内容もとても凝った密度の高い雑誌であった。
 リブ関係のミニコミの多くが手書きガリ版刷りだったのに対し、紙こそザラ紙だが活字印刷で、しかも毎号、画家富山妙子さんの絵やイラストがふんだんに掲載される、立派なモノだった。表紙が無彩色ではさびしいから、毎号どこか1箇所は色をつけようと、富山さんが、編集会議をしながら、色塗りをしたのだと、青木さんはなつかしげに、話された。
 毎号、多様な人々を招いて、「プライバシーとは何か」「適齢期について」「親の解放 子の解放」「女の自立を求めて」「妻子とは何か」「女と仕事」などの特集討論を組み、富山妙子の「女の美術史」の連載、青木やよひによる「女と男の対話」シリーズ、堀場清子の「真説」シリーズなど、多彩な紙面であった。「女と男の対話」以外でも、特集討論などへの男性登場率が高く、さながら当時の市民派知識人のフォーラムの観がする。ちなみに、青木さんの対話相手は、津村喬、柴田翔、伊藤成彦、西江雅之、西川潤、岡本太郎であった。
 「新しい地平」主催で、連続講座「時代と女性」も開催され、青木さんのほか、中村智子、高良留美子、渡辺一民、色川大吉、新島淳良らが、講師に名を連ねている。この講演会を機に、若い人たちのグループも生まれたという。リブセンターを中心とする、いわゆるリブ運動が、社会的運動としては下火になりつつあった時期に、「新しい地平」は、男性を含めた多くの人々に、リブの思想を伝え続けた貴重な存在だったといえる。

フェミニストとして
 青木さんは、75年に、女性の立場から人口論を展開した論文「マルサスの影と現代文明」で、毎日新聞社日本研究賞を受賞したのをきっかけに、女性問題、人口問題の評論家として、執筆活動に従事する。『誰のために子どもを生むか』(1976)、『女性・その性の神話』(1982)、『性差の文化』(1982)、『フェミニズムの宇宙』(1983)、『母性とはなにか』(1986)、『フェミニズムとエコロジー』(1986)、『シングル・カルチャー』(1987)、『女が自由を生きるとき』(1988)、『シングル感覚』(1989)等々、次々と著作を発表した。
 この中には、青木さん個人の著作もあれば、何人かの文章を編集されたもの、対談集もある。青木さんは、対談を通じて、ご自分の思想を語りつつ、相手の思想を引き出す名手で、「新しい地平」以来、対談相手には女性のみならず、多くの男性が登場している。実は、私も一度青木さんと対談させていただいたことがあり、女性としての経験に基づく問題の立て方に共感するとともに、青木さんの卓抜な表現力に感心した覚えがある。
 青木さんが、対談その他の著作を通じて、フェミニズム的な物の見方が、女性のみならず男性にとっても考えるべき重要な課題であることを、日本の思想界に認識させる役割を果たされたように思う。特に「シリーズプラグを抜く」の第3巻として編集出版された『フェミニズムの宇宙』には、自然と身体を大事にしつつ、男女が平等に生きれる社会を追求する、青木さんのフェミニズム思想が全面的に展開され、大きな反響を呼んだ。

フェミニズムとベートーヴェン
 その後、青木さんはマスコミから性差極大化論者とみなされ、取材や原稿依頼が来なくなったという。そのこともあり、また、青木さん自身、若い時からベートーヴェンの伝記を書きたいと心に秘めておいでだったことでもあったので、91年に『遥かなる恋人にーベートーヴェン・愛の軌跡」を出されて以後は、フェミニズム関係の著作はほとんど出されず、もっぱらベートーヴェンに関する執筆に集中されることになる。フェミニズムを経たからこそ書けるベートーヴェン像、言い換えれば、ベートーヴェンのフェミニズム批評を描くことを、ライフワークとして取り組まれている。
 ご自身では、「歳をとって、昔の3分の1の仕事量しかできないのが悔しい」とおっしゃるが、最近も『ベートーヴェンの日記』(2001)、『ゲーテとベートーヴェン』(2004)などを出版されており、『ベートーヴェン<不滅の恋人>の謎を解く』(講談社現代新書 2001)は、ドイツ語訳が出版予定という。
 一方で、青木さんご夫妻は、伊豆高原のお宅の隣にお持ちのセミナーハウスで、昨年から、セミナーを始められた。年6回、「インド思想」「性とジェンダー」など、テーマを決めて、泊りがけで開催されるセミナーには、毎回20人程度の参加者があり、活発な討論がなされるという。
 80歳に近いお歳とはとても思えない若々しいお顔と張りのある声、しっかりした記憶力と豊かな感受性に感嘆し、若さの秘訣を伺った。「ヨガと自然食を35年も続けていることが、健康の秘訣」とのこと。「自然との調和」を訴えてこられた青木さんらしい生活態度といえる。一緒に訪問した若い仲間が「理想の夫像ね!」と思わずもらした、素敵なお連れ合いと二人で、伊豆高原の緑に囲まれて自然のリズムに合った生活をしておいでで、フェミニストの一つの生き方モデルとして、訪問した私たちも、すがすがしい気分でお宅を辞したのであった。

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