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国際社会の現在(いま)―ジェンダー視点から
20世紀を駆け抜けたフェミニスト田中寿美子さん(2014.10.15)

Part2 政治活動

 <社会党参議院議員になる>
 寿美子は、すでに留学から帰国した1955年に社会党に入党していたが、長らく評論活動に従事し、夫稔男の選挙運動を手伝う程度で、政治活動にそれほど熱心だったわけではない。だが、1965年に社会党より参議院全国区に出馬し、当選する。
 労働組合出身ではなく、特定の地盤があるわけでもない寿美子が、選挙で当選するのは、並大抵のことではなかった。党の方から全専売労組、動力車労組などを割り当てられたものの、全国区で当選するためには、そうした労組の票だけでは到底足りない。そこで、友人や秘書が中心になって、一般市民を組織する「田中寿美子を励ます会」を急遽立ち上げた。事務局長は先述の松永伍一が引き受け、水上勉、杉村春子、千田是也、深尾須磨子などの文化人が協力した。最近では、選挙に候補者に「励ます会」はつきものだが、当時、労組以外の一般市民を組織する「励ます会」は珍しかったという。
 評論家時代の知名度に加えて、幅広い市民層の支援を得るという新しい方式のおかげで、田中は85万余票を獲得し全国区4位で当選、社会党では1位という、本人も周りも、びっくりの結果だった。寿美子の秘書たちに聞くと、当時は絶叫調の演説が多かったのに対し、寿美子の演説は、淡々とした話し方で、それがかえって新鮮だったと言う。美しい寿美子に憧れて、高校生が選挙ポスターを盗んだというエピソードもある。週刊誌も、「若さと美貌の80万票」と話題にしたという。実はこのとき、寿美子はすでに55歳だったが。

 <議員活動>
 田中はその後、1971年に参議院全国区選挙で当選(2期目)し、1977年にも参議院全国区選挙で当選(3期目)。通算18年間、議員生活を送った。国会での初質問は、1965年12月27日の予算委員会で、物価の値上げ問題についての質問だったが、国立療養所の食事を実際に議場に持ち込み、患者の食事がいかに貧しいものであるかを示した。当日の新聞は、佐藤栄作総理大臣、福田赳夫大蔵大臣、藤山愛一郎国務大臣などが、持ち込まれた食事をのぞき込んでいる姿を写し、大きな話題になるほど、鮮烈なデビューであった。
 その後、1968年に、社会党国民生活局長に就任し、公害追放・食品総点検運動を進め、政府に先んじて、「公害白書」を刊行したことも、特筆に値する。今から振り返ると、当時は社会党の黄金時代ともいうべき時代で、第1野党である社会党議員の質問や要求に、各省庁の官僚たちも真摯に応じ、互いに連携をとりながら、公害の調査や対策を進めた様子が覗える。国会議録を読むと、政府の答弁も、議員の質問に対して、少なくとも今よりは真剣に対応しており、それなりにかみ合った議論の応酬があったようだ。
 田中は1970年に念願の社会党婦人局長に就任して以来、フェミニストとしての立場を正面に出して、活躍するようになる。田中が特に力点を置いて取り組んだのは、売春問題、国連婦人の十年推進、雇用における男女平等、高齢者福祉の問題であった。
 ここで詳しく論ずる余裕はないが、1978年に国連婦人の十年推進議員連盟を結成し、事務局長として、女性差別撤廃条約批准及び、国籍法の改正、国際人権規約における男女平等保障の推進に貢献したこと、また1978年5月に他党に先駆けて、社会党から「雇用における男女の平等取扱いに関する法案」を提出して以来、1983年まで5回にわたって、同法案に改正を加えて議員立法案を提出し、男女雇用平等法制定のための地ならしをしたことは、田中の大きな功績と言えよう。

 <日本婦人会議議長として>
 1961年、田中寿美子は、松岡洋子、羽仁説子、深尾須磨子らと日本婦人会議を結成し、8人の初代議長の一人となる。その後1975年の 日本婦人会議第13回大会で議長を辞任し、顧問になるまでの15年間、田中は、日本婦人会議の代表として、日本の女性運動を牽引した。とりわけ、1970年に社会党婦人局長に就任して以後は、社会党婦人局と日本婦人会議を両輪として、男女平等政策の推進ならびに、近隣諸国の女性たちとの連帯に努力した。
 日本婦人会議は、元来社会党の党大会で発議されて発足した組織ではあるが、初代議長団の顔ぶれからもわかるように、当初は、超党派的な、幅広い女性の運動組織をめざして結成された。だが、社会党側からの期待と婦人会議構成員たちの多様な思惑との間の葛藤もあり、婦人会議は長い間路線問題を巡って、議論を繰り返した。婦人会議議長として田中が目指したのは、社会党の下請け機関ではなく、あくまでも社会党からら独立した機関として、地域で独自に活動しながら、その上で社会党に協力するという、かなり綱渡り的な道だったようだ。
 とはいえ、田中は、婦人会議議長として、かなり精力的に活動している。特に1966年、中国婦女連合会の招待で文革さ中に日本婦人会議代表団代表として訪中し、社会党から顰蹙をかったという。1967年には、「忍草母の会」と「三里塚婦人行動隊」の交流集会を取り持ち、1972年には、日本婦人会議沖縄婦人問題調査団団長として沖縄を訪問。また同年、初の社会党婦人活動家として、朝鮮民主主義人民共和国を訪問するなど、近隣諸国の女性たちとの友好を深めるなど、八面六臂の活躍をしている。

 <社会党副委員長に>
 1980年2月10日開催の第44回社会党党大会で、田中寿美子が、社会党の副委員長になることが決定した。社会党だけでなく、日本の大政党で女性が幹部職に就くのは、初めてのことで、各メディアも「快挙」として大きく取り上げた。
 田中が副委員長に就任したいきさつは、国際婦人年を経て、女性が政治の場で平等な発言権を得なくては何も始まらないと考える、有力な女性党員たちが図って秘かに奔走し、当時の飛鳥田一雄委員長に直訴したとのエピソードがある。だが、女性副委員長の誕生は、党の外側では歓迎されたものの、社会党の男性党員たちには、簡単には受け入れられなかったようだ。男の領域だと思っていた政治の世界で、女性が発言すること自体に抵抗を示す男性党員が多かったと、当時を知る女性党員の多くが証言している。
 とはいえ、田中の社会党内での発言力は大きく、すでに1975年頃から、党の女性政策を牽引していた。田中の周囲には、参議院議員の金子みつ、党本部の渡辺道子、河野嘉子、東京都本部の重藤都、婦人会議議長の山下正子、事務局長の清水澄子、総評婦人部長山野和子らが集まり、党の女性政策について、検討を重ね、女性差別撤廃条約批准に向けての政策づくりや、雇用平等法案策定等、社会党の女性政策として推進していったという。
 しかし、個別的・具体的な要求や政策だけでは不十分であり、体系的な女性政策が必要だということで、1980年に田中が副委員長になったのを機に、社会党は、「婦人のための85の政策」という冊子を刊行した。女性の直面する諸問題を統計データで示し、85年をめざして、多方面から対応しようという内容で、他党に先駆けての、体系的な女性政策の提示であった。この時期の田中は、社会党のフェミニズムを党の内外に示す象徴的な存在であったといえよう。

 <市川房枝との連携プレイ>
 議員時代、田中は、フェミニズムの視点からの政策や運動にかかわって、市川房枝と行動を共にすることが多かった。議員会館の部屋が一緒のフロアーだったこともあり、年中行き来していたという。市川房枝宛てに田中が出したハガキがいくつか残っているが、それらを見ると、田中が議員になる以前の1950年代から、二人は親交があったことがわかる。また、市川と田中の仲の良さについては、当時周辺にいた人たちの多くの証言がある。
 市川は無所属で田中は社会党という会派の違いを超えて、参議院で、売春対策、国連婦人年等、女性に関わる政策について、二人は連携プレイをしている。議会以外の女性活動においても、二人は、しばしば共同歩調をとった。たとえば、1972年の「沖縄の売春問題ととりくむ会」の発足に当たって、市川房枝、山高しげり、藤原道子の3氏が代表委員として名前を連ねているが、5月12日の発足集会には、田中寿美子が主催者代表としてあいさつした。その後この会は、婦人矯風会を中心とする34団体から成る売春対策国民協議会と合流し、1975年に「売春問題ととりくむ会」(1986年から「売買春問題ととりくむ会」となる)が、この代表委員も上記3氏だったが、藤原道子の没後、田中寿美子が引き継いだと、両組織の事務局長を務めてきた高橋喜久江は、証言している。
 1975年に発足した「国際婦人年をきっかけに行動する女たちの会」を呼びかけたのも、あまり知られていないようだが、実は市川と田中であった。1974年秋の準備会は市川が本拠とする婦選会館で開かれたし、75年9月に同会が、27項目からなる「要望書と質問状」を携えて、NHK会長を訪ねた際にも、吉武輝子らと並んで、市川房枝、田中寿美子も同行している。後に二人はそれぞれ、同会から距離を置くようになったが、樋口恵子、吉武輝子、中島通子らに、この会の設立を呼び掛けたのは、市川、田中のコンビであったことは、記憶に値しよう。
 市川と田中は共に、戦前ないし敗戦直後から日本のフェミニズム運動に身を投じてきた人たちであるが、国際感覚に富んでおり、海外での新しい動向に敏感な人たちであった。二人とも、1970年代に、それぞれアメリカやヨーロッパを旅行し、新しいフェミニズムの運動を自分の目で見てきて、好意的に報告をまとめている。たぶん、二人とも、日本での運動の停滞に疑問を感じていたこともあったのかもしれない。
 私は、お二人が、日本における第1波フェミニズムと第2波フェミニズムをつなぐ役割を果たしたと考える。1893年生まれの市川を姉貴分、田中を16歳年下の妹分として、二人は、国会の内外で互いに連携しながら、1970年代から80年代にかけての、日本の女性運動をフェミニストの先輩として牽引し、女性差別撤廃条約の署名と批准 、及びその後の女性政策と女性運動の活性化につなげたのではないかと推測する。

(次回へ続く)

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