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アフガンの歌 喜多悦子
青 空
青空(1)――ユニセフアフガン事務所にて
1988年4月、10年間、アフガンを占拠したソビエト軍の撤退が、米ソとパキスタンの間で合意された。パキスタンにいた350万、イラクにいた200万のアフガン難民が、いっせいに祖国に帰るかと期待した国連は、アフガン復興一大キャンペーンをぶち上げ、その一環として、私は、ペシャワールに新設されたユニセフアフガン事務所に派遣された。
 そして、翌年2月、撤退を喜ぶ若いソビエト兵士をのせた最後の戦車がアムダリア河を越えて、冷戦の一方の雄ソビエトはアフガンから消えた。 確かに、つかの間ではあったが、アフガンに平和が戻ってくるような錯覚があった。 当時、ペシャワールに拠点をおいていた世界各国からの250をこえるNGOも、7,8の国連機関も、CIAもクロスボーダー(国境越え)作戦で、アフガン内部に目を向けはじめた。
 当時、ユニセフが支援していたMSH(Management Science for Health、アメリカのNGO)のパーテイで、イルマ・ハドソンと出会った。
 イルマ・ハドソンはペルシャ語文化圏の研究者で、その頃、ペシャワールのキサハニ(語り部)・バザールについての本を書いていた。1年の半分を大学で、残りをパキスタンの現地調査にあてていたが、たまたま、共通の知人がいたMSH(Management Science for Health、アメリカのNGO)のパーテイで顔をあわせたのだった。ほとんど灰色の髪はオカッパ、深いブルーの瞳、すらりと背が高く、シャルワール・カミーズとにひらひらのチャドルがよく似合うアメリカ人であった。もちろんペルシャ語もダリ語も判るので、現地の人々との付き合いは深い。何もかもが現地風ながら、住まいは外国人の住む地域に探していた。その彼女のニーズと、治安上、女の一人住まいを避けたい私のそれが合致したため、無料の部屋に、か細い腕ながら、女用心棒が住み込むことになった。話がまとまった翌日の夕刻、彼女は、よく使われた革製の衣装箱と、小型のスーツケース、それに書籍の段ボールを、タンガ(馬車)に載せて引っ越してきた。

 私の豪邸は、その昔にはカイバル峠まで走っていたという鉄道の線路が残っている、ペシャッワールのユニバーシティ・タウンにあった。絶えて久しく列車が通ったこともない小さな踏切を越えて、弓なりに延びる小さな路地は、100年以上前、現在のペシャワール大学宗教学部でもあるイスラミア学院を創設したシャヒブダザ・アブダル・カユムの名前にちなんでいる。通り抜けると、また、別の踏切に到るこの小道の両側には、日本では、それこそ大々邸宅といえる住宅が並んでいる。 当時、最も有名な住人は、ペシャワール拠点の7アフガンゲリラの1人、後に、短期間ながらアフガンの首相にもなったヘクマテォアールであろうか。もっとも、大きな勢力を持つゲリラのボスは、援助成金よろしく、何軒もの邸宅をもっていたから、わが近隣のそれも、おそらく、ペシャワールにある数軒のヘクマティアール邸の1つにすぎなかったのであろうが。

 喜多邸は、その邸宅群の中では、小振りな方であったが、それでも、日本の個人宅では、滅多にないほど大きな扇型の敷地であった。その真ん中あたりに、少し弧を描いた細長い煉瓦建ての、まるで学校の様な建物があった。庭は煉瓦塀に囲まれていたが、一方は、現地の諜報機関ともされていたアメリカ情報センター長の私邸、他方はUSAIDの幹部宅であった。つまり、カラシニコフのみならず、手榴弾を満載したチョッキを身につけた、制服姿の警備員が24時間、四方八方に目を光らせているという住宅にはさまれており、緊急の際には、塀を越えれば護衛がいるという環境であった。

 その細長い建物の一端の、バストイレ付き、20畳もあろうベッドルームをイルマにあてがうと、実は、他の一端にある私のベッドルームまでは、相当の距離があり、何かあっても、互いに用心棒にはなり得ないのであったが、が、幼稚園の運動会なら、十分可能な大きさの屋敷に1人でいるよりは、はるかに、気が安らいだことは事実である。

 イルマの滞在を、何よりも喜んだのは、ほとんど朝食を摂らない私の代わりに、腕こきのホテル級ブレックファーストを、ゆっくり楽しんでくれる人が現れたコックのナニックであったかもしれない。(青空(2)に続く)

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