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アフガンの歌 喜多悦子
アフガンの希望(2)――「殉教者」とその娘

シマ・サマールとの再会
 そんなアフガンの中で、私はわくわくする経験をした。
 昨年(2003年)11月の彼女の訪日に続いて、シマ・サマールに会った。はじめてくつろいだシマを見た、といっても良い。今までは、難民キャンプの診療所か会議がでしか会ったことがなかったので、かなり親しいといっても、所詮、よそ行きのシマ・サマールをみていたのだと、今回の普段着の彼女をみて思った。
 シマ・サマールの自宅は、パキスタンやアフガニスタンの、やや、上流階級の家とかわらない。門番−といっても、本当に門を開け閉めするだけで、いわゆる警備機能を持たない、たいていは老人を現地ではチョキダールという。車が門前に止まると、気配で覗く窓をみて、身元?車元?を確認したチョキダールが、道に面した大戸を開く。門から建物の傍らまでは舗装されていて、車2台が前後に並べるほどのスペースがあって、その一面は庭、他方は塀である。
 途上国の住宅事情を誤解のないように話すのは難しい。政府の役人や医師、大学の教員や地域の有力者は、日本の常識から云えば、少なくとも広さの点では大邸宅に住んでいる。私が訪問したアフリカの元大臣のヴィラと書かれた邸宅は、門とゲストがたむろするラウンジとよばれていた小建物の間には、乗用車50台分のスペースがあって、それと本家屋の間には、ホンモノの象よりもはるかにでっかいコンクリート製の象の親子がおかれていて、それが小柄に見えるほどであった。
 が、通常、そのような国には、いわゆる中間層がいない。つまり、日本なら一般庶民という層は、時には読み書きが出来ず、ほとんど収入らしい収入もない。で、日本式に云えばワンルームだが、悪しざまに云うならば、掘っ建て小屋に近い粗末な住まいに数名、時には10名もが住んでいる。国の中のギャップが大きいといえばそれまでだが、保健医療の領域を通じて、それを何とかしたいとしているのが、「国際保健」でもある。しかし、私のようは外国人が接すのは大邸宅組であることが多く、また、本当のところ、庶民層との意志疎通の難しさから、云うは易く行うは難しである。
 サマール邸は、ソビエトの侵略時も、タリバンと北部同盟の首都攻防戦でも破壊されてなかった一角にあるが、あまり、建て付けの良くない玄関の扉が開かれると小さなロビーがあって、いくつかの部屋につながっている。この辺りによくある間取りのように見えた。玄関にも応接にも、贅沢な感じはなく、最低限、必要なものだけがある、といった風であった。応接には、立派な大きな暖炉もあるが、何年も焚かれたことはなく、そしてこれからもないだろう、という風に、まるで壁の一角の穴に見えた。その代わり、窓に近い場所には、粗末なストーブがあって、薪というより、木のきれっぱしが、ボソボソとわずかに焔を上げている。でも、外気に比べるとほんのり暖かい。そのストーブからは、アルミ製の煙突が、まず、天井に向かい、途中で向きを変えて、窓の外につながっている。古めかしい応接セット。床の、象の足形と云われる、典型的な模様の赤いアフガンカーペットが色を添える。

母と娘
 ざっくりと編んだ、丈の長い濃い色のジャケットを羽織ってシマ・サマールが現れた。ジャケットの裾に、くすんだ色合いで大きな花模様が編みこまれている。
 ソビエト軍の侵攻後、夫とともに捕らえられたこと、その夫はそのまま、消息を絶ったこと、そして彼女はパキスタンのクウェッタに避難したことは1989年、はじめて会った時に聴いた。彼女は、それまで一度も国外に出たことは無かったが、人権はどこにあっても護られるべきとする姿勢は、当時から西欧系の人々の共感を呼んだように思う。以来、ソビエト、親ソ政府、ムジャヒィデーン、タリバンと、その都度、相手は変わるが、常に抑圧されるアフガンの女性、人々のために闘ってきた人権主義者なのだが、ジャケットに突っかけという出で立ちのシマは、アフガンのShuhada(殉教者、シマ・サマールのNGO)というイメージではなく、やさしい、そして弱々しさもある、ひとりのヒトという風にしか、私には見えなかった。岩男先生ら同行者を紹介し、あれこれ、四方山話が始まった。当然、アフガンの歴史的な話はでるにしても、ただただ、インテリの仕事熱心は女性であった。

 真中に小さな丸い区切りがあって、周辺を4つに割ったガラス製の大盆に、カシューナッツ、干しぶどう、松の実、ピ−ナッツ、白いつぶつぶのついた砂糖菓子が盛られている。自らもそれを口にし、すすめてくれるシマは自らも拷問を受け、家族と離別し、そのような難を逃れるべく祖国を離れ、そして今も原理主義者に狙われている人道主義者のshuhada 殉教者などとは見えない。
 やおら、隣室に食事が用意されたという。羊の干し肉がいっぱい入ったアフガン風まぜご飯、ビーフのカレー、野菜、そして果物とスプライト。山盛りの大皿、典型的なアフガンの食事。でも美味しかった。
 ひとりの少女が現れた。恥かしげに、そしてそぅっとシマの傍らに坐る。
 私の娘・・・と紹介する。

 名前は?
 Tamana・・・
 なんと言う意味?
 希望!!!

 シマ・サマールが、養女に与えた名前は、希望なのだ。殉教者は、希望を見出している!!
 私は、言葉には云えない感動がわき起こった。アフガンに希望が生まれたのだ。シマ・サマールほどの人が、それを見いだしたのだ。
 楚々とした感じのシマの娘は、母の肩に顎をのせて、その背にぴったりとくっついたまま、瞼を閉じて、大人の対話を聴いていた。英語を話す彼女は、幾分、対話の内容が理解できていたと思う。が、何も話さなかった。時折、やさしい、これほど優しい眼差しはないといった風に、シマが娘を見る以外。そこにはアフガンの平和と希望があった。

希望の種子
 あなたが大人になった時、いや大人になるまでに、あなたの母は、あなたの国に希望を実現できる、数少ない人なのだ。
 別れの時間がきた。シマは、玄関から外には出ない。が、シマの希望、娘のTamanaは、シマの弟の運転する車に乗って、ホテルまで送ってくれた。
 さようならTamana、また、会いましょう。すぐに! 

 ユネスコ関連の識字教育関連の活動も、また、今までとは異なるものだった。会議は、云うに及ばず、副大臣が案内してくれた非公式識字教室では、明らかに元ムジャヒィデーンのひげ面男たちが、何と女性の先生から、読み書きを習っているではないか。この国、字を覚えることが、銃を上手に扱えるよりも、生活の糧を得るに必要な手段になろうとしている。

 まだ、アフガンの紛争は、すっかり解決していない。しかし、この国は、もう後戻り出来ないことを知ったのだろう。

 2003年初の私のアフガン行は、今までとは異なる展開を示唆するものだった。
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