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アフガンの歌 喜多悦子
爆 破

 アフガニスタン東部ナンガルハル州の州都ジャララバードで、爆発事故があったという。4月8日、現地有力者とケシ栽培撲滅についての意見交換のため、現地を訪れた暫定機構国防相ファヒムの乗用車の近傍で爆発があり、住民4人が死亡し、16人がけがをしたという。国防省は「暗殺の疑いがある」と述べているらしい。この爆破は車列の後方約200メートルで発生したらしいから、あの事件よりは距離がある。

*暗殺だ!
 あの事件は、1989年の夏だった。
 1988年4月、10年来、ソビエト軍に占拠されてきた当のアフガニスタン代表が入っていない奇妙な会議ではあったが、米ソとパキスタンがソビエト軍のアフガン撤退に合意し、実際、それが全うされた後であった。が、地元ペシャワールのパシュトン人は、「アフガニィは、最後の二人になるまで殺しあう・・・」と、ちょっと見下げたような云い方で、隣国の安定に疑いを持っていたが、国際社会では、350万とも云われていたパキスタン滞留のアフガン難民が、いそいそと本国帰還すると思い込んだ時期であった。

 ペシャワールのオールド・タウンのホテルで開かれる会議に出るため、私は、愛用のミツビシ・パジェロ(このように発音する)で、ユニバーシティ・ロードを走っていた。まもなく、ペシャワール空港のはずれにさしかかろうという地点であった。突然、轟音が炸裂し、1台前を走っていたトヨタ・クラウンが、傾きつつ反転した。正確には、よく見えなかったが、そのように思えた。私の車の直前を走っていた、荷台の後ろの枠にTOYOTAの文字が浮かんでいるピックアップは、急ブレーキを掛け、反対側の車線に突っ込んで止まった。かろうじて、その車の後ろに急停止した私の運転手は、カイゼル髭をひねり上げていった。「Assassination(暗殺)だ!!」と。
 私は、いつも首に引っ掛けているカメラを構えた。

 「マダム!!」
 運転手は、今まできいたこともないような厳しい声で、カメラを押さえつけ、車を発進させようとした。
 「何するのよ!!チョット、写真を撮るのだから、じゃまをしないで!!」
 私も、負けずに厳しい声で云った。
 「マダム、あんたは殺されたいのか? こんなところを写真に撮ったりすると、あんたも仲間と思われて殺された奴らの一味に襲われる。とんでもない」
 運転手は、思い切りクラクションを鳴らして、集まりつつあった群衆をかき分けるように、その場から離れた。
 「惜しいシーンを・・・」
 私は、ブツクサ云いながら、遠ざかりつつある現場をながめていた。
 翌日、地元新聞にスクープが出た。たまたま、以前、ユニセフを取材してくれた記者の記名記事、殺されたのは、パレスチナ・ゲリラの親子、父親と2人の息子、それに運転手で、道の側溝に仕掛けられていた時限爆弾が、正確に作動した結果とあった。顔面に血のこびり付いた父子3名の顔写真付であった。ほんの1、2分違えば、自分の車が反転したかもしれないのに、なぜか、その時は、そんな危険性がピンと感じられないばかりか、あの現場写真を撮っていれば、日本のフォト・ジャーナルに送れるのになどと、不謹慎なことを思ったりした。

*取材者も殺された
 数日後のことであった。スクープした記者が、イスラマバード空港で亡くなったと耳にした。理由を聞いて、愕然とした。

 正体不明の襲撃者に、頭から塩酸をあびせられたその記者は、鼻腔がつぶれるほどに、顔面から身体にやけどを負い、治療のために、イギリスに向かうべく、首都の空港に到ったところで、力尽きたというのである。私の運転手は、スクープなどしたことは、襲撃者の一味であり、暗殺された側の報復を受けたのだと断定した。
 「マダム、私の云ったことがわかったであろう。あんたが、写真を撮っていたら、今頃、あんたがそうなっているのだ」というのである。

当時、ユニセフ事務所のスタッフとして、地元メディアの何人かとの交流はあった。が、パキスタンの男性としては、割合、小柄でやわらかい顔立ちのその記者には、特に親近感を持っていた。多分、ある日本人国連スタッフが誘拐された時には、いち早く情報をくれたり、ややこしい地元の人間関係について、判りやすく解説してくれたりしていたこともあったからかもしれない。信じられないことが起こるのだ、と信じられるようになったのは、彼の死亡記事を眼にした時だった。

*アフガニスタンに出来たテロリスト学校
10数年たった今も、決して、忘れてはいないが、この爆破事件は、当時の私のこころには、相当強く、そして相当長い期間、とげとなっていたが、現地の人々が話題にした記憶は無い。それが、再び、しくしく痛み出したのは、9月11日以後である。

 その頃、ペシャワールの近郊の小さな村に『アラブ・ゲリラのテロリスト学校が出来た』と聞いたことを思い出したからである。かのオサマ・ビン・ラディンのアル・カイーダ(基地)は、1988年頃に設立されたという。アラブ・・・は、パレスチナ・・・とほぼ同じと理解されていたことは後に知ったが、当時、何ゆえ、ペシャワール辺りにパレスチナ・ゲリラが・・・と、思った私は何とナイーブであったことか。

 今回の爆破があったナンガルハル州の多数派はパシュトン人である。暫定政権は、タジク人やウズベク人などを中心とする、いわゆる北部同盟が実権を握っているとされているが、パシュトン人武装勢力の中には、彼ら、かつての少数派に支配されることに反発するものもいるとされており、このような一味がタジク人の国防相を狙ったとの見方は十分なりたつ。さらに、アフガニスタンの首都カブールでは、4月7日、国際治安支援部隊の本部施設を狙ったとみられるロケット弾攻撃も発生している。着弾地点の南西約4・5キロの野原では、さらにロケット弾や発射装置が見つかったとの報道もある。

 アフガニスタンの短い春はもう終わっただろうか?
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