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アフガンの歌 喜多悦子
アジザイ(1)
 平和とは何なのか。
 2機目のジェット旅客機がワールド・トレード・センター・ビルに激突する、その瞬間を、偶然、つけたテレビで見た時、あるかなきかと思っていたが、この10年間、あの地に願っていた平和が音を立てて壊れたような気がした。対アメリカテロ・・・といえば、彼らしかない。そして、彼らはあの地にいるはずだ。アメリカとイギリスの空爆の、そして地上特殊部隊の的となったタリバン支配下のアフガニスタンに。

 アジザイが生きていたら、もう、20歳になっているだろう。20歳になるかならない女性が生きていることを疑わねばならない国がアフガニスタンだ。その国から、隣国パキスタンに避難してきた人々の健康を回復させ、維持し、向上させることを任務に働いて以来、14年の年月が流れた。アフガニスタン。ガにアクセントを置いて発音するアフガニスタンで、たとえ、アジザイが生きていても、その毎日が平穏だという確証はほとんどない。

少女アジザイとの出会い
 1989年夏、45度をこえるペシャワールの街、ユニバーシティ・タウンの真ん中、オールド・ババ・ロードに面したNGOの小児病院の庭で話し掛けてきた、彫りの深い、利発な顔立ちのアフガンの少女がいた。一般の女性が外部者に働きかけることが滅多にない社会で、はじめてであった活発な少女。アジザイが日本に生まれたなら、どんな一生であっただろうか。
 その日、ユニセフ本部からの視察者を案内して訪れたアフガンNGOの小児病院の庭で、アジザイは所在なげにうろついていた。小児病院といっても、日本風には大邸宅だが、ペシャワールの中流家屋を転用した、にわか造りの診療所である。通路は複雑で、ニューヨークからの訪問者にとっては、あれもこれも興味の的になるこの地の文化習慣のため、視察はしばしば脱線する。好奇心をそそられた人々は分散し、次の訪問地に送り出す前には、群れを離れた羊を探すように駆けめぐらねばならない。狭い曲がりくねった階段を下りて、中庭に出た時だった。やれやれ、気まぐれな客人はどこか? と私はため息のひとつもついたのであろうそこにアジザイが現れた。「ひとりはこっち、もうひとりはあっち!」という風に、私を導いてくれた。最後のひとりがマイクロバスに収まって、「Thanks so much !! Good luck !!!」 と、満足を残して去った。
 「シュクレア(ありがとうね)!!」と私は、傍らにたって、同じように視察者一行に手を振っていた少女に話しかけた。
 「お名前は?」
 「アジザイ・・・」
 「何歳かな?」
 「8歳・・・」

好奇心に満ちた少女
 ここまでは、どの難民キャンプで、どの子どもとあっても同じだ。 が、アジザイは違った、とても。 彼女は続けた。
 「あなたの名前は? そして何歳?」
 「キタ エツコというのよ、何歳と思う?」
 少女ははにかんで、少し、身をよじらせた。 そして答える代わりに、違う質問をした。
 「医者なの?」
 「そう、子どものネ」
 私は、彼女の反応をまった。
 「それは何?」
 沈黙の後、彼女が関心を示したのは、カメラだった。 私は、彼女にファインダーをのぞかせた。
 まるで、何かがはじけたように、顔を輝かせたアジザイは、私が教えたズームを操った。
 「学校に行ってるの?」
 「今は行ってないけど、前は行った。」
 「字は書けるの?」
 「書ける、私の名前・・・」
 アジザイは、地面に石で、私には読めない文字を書いた。

本をプレゼントする
 アジザイは、身内の子どもが入院している、この病院に毎日来るといった。
 その日の夕方、私は、ペシャワールのオールドタウンにあるロンドン・ブック・ストアに行った。 片言の私と対話していたアジザイに読んでもらえる本を探しに。 だが、同行してくれた現地スタッフは、彼女はパシュトゥー語ではなく、ダリ語を話すはずで、その言葉の子どもの本はないという。鉛筆やノートが彼女の生活を楽にさせることはない。字を覚えようと思えば、地面に書いてでも覚えられる。
 無駄になるとは思ったが、私はアルファベットの絵本を買った。アジザイがこれを持っていると、からかわれるかもしれない、取り上げられるかも知れない。それはしかたない。が、襲われることがないことを祈りながら。(つづく)

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