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アフガンの歌 喜多悦子
アジザイ(2)
少女との別れ
 数週間後、勤務中のユニセフ事務所にアジザイが現れた。 受付の女性が、難民が面会に来ているという。何だか、真剣な様子なので、彼女の言葉がわかるスタッフに通訳を頼んだ。アジザイは、別れを告げに来たという。1980年代末、ペシャワールに一番近く、一番古く、一番大きなカチャガリ難民キャンプを引き払い、ジャララバード近郊らしい村に戻るという。
 「大丈夫なの、そこは?」
 「誰と帰るの? お父さんもお母さんもいるの?」
 「住むお家はあるの?」
 私は、畳み掛けるように訊ねた。
 アジザイは、どの問いにもうなずいたが、祖国がどんなところかも、どんな生活が待っているのか、まして難民キャンプで生れ育ったアジザイに、郷里に帰る喜びを感じさせる何かあろうとは思えなかった。単純な同情や哀れみではない、何か、懐かしいものが永遠に去って行く、そんな想いが私を感傷的にさせた。
 「あのぅ、お母さんが来てるの」
アジザイが、いった。
 階段を駆け下りるように出て行った事務所の前庭には、淡いブルーが汚れて灰色になったブルカをまとった女性が地面に座り込んでいた。現地スタッフの通訳で、判ったことは、援助物資が減ってきた難民キャンプでは一家の生活が成り立たないので、まだ、畑があるらしい故郷に帰る、向うで生活できなければ、また、戻ってくると。そんなことが出来るのかと問うと、ブルカの中の女性はつぶやくようにいった。
「どこかで生きて行かなければならない」と。
 してはいけない、あるいはしても仕方がないことだが、私は持っていたお金を、その女性に渡した。
 「アジザイ!!!  元気でね。 いや、死んではいけないよ!! どんなことがあっても、生きていてね」と、言葉にならない言葉をつぶやいて。
 アジザイは、母親の汚いブルカの一部につかまって去っていった。

アジザイの面影を求めて
 90年代末、WHO職員として、再び、アフガンに関わることになった。外国人、異教徒、そして援助者である私ですら、行動に制限があった異様な時代。破壊し尽くされたカブール。1枚としてまともな窓ガラスが残っていない病院、夜間はマイナスになる時期、冷え切ったコンクリートの廊下に敷いた薄い毛布に寝かされていた女性。この国は、病みつくしていた。その女性だけではなく、国が死に瀕していると思った。ここで、私は何と無力か。

 アフガンの病を悪化させたのは、タリバンだけではない。国際社会が、この素朴でナイーブな人々を追い詰める経過もあった。が、いつも犠牲は大衆だ。
 一度、泊まったジャララバートの宿舎の向かいはタリバンの地区本部であった。アジザイは、どこかにいるのだろうか。はかなげなローソクの炎のなかでも思った。
 アルカイダの一味が隠れているらしいとして、激烈な空爆と地上攻撃が行われたトラボラは、ジャララバードの近郊である。アジザイは、何処にいるのだろうか?
 アジザイだけではない。厄介な交渉を吹っかけた現地NGOの代表、モノをせびるために、ブルカの下から、手を差し伸べた多数の女性、不安定な地域に入る私を護衛してくれたムジャヒディーン(聖戦士)、銃で威嚇したゲリラの親分も予防接種を受けていた子どもも、水の配給を待っていた少女も、そしてお金をせびった子どもたちも、あれからどんな生活を送ったのであろうか。

 沢山たくさんの人々の顔が思い出される。あの国に関係を持つようになって15年目、私のアフガン問題は、まだ、終わらない。


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