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アフガンの歌 喜多悦子
グルブディーン・ヘクマティヤール その2――あるアフガンゲリラボスのこと

揺れるアフガニスタン
 ヘクマティヤールは、カブール大学の工学部の学生だった頃に国を離れた。

 1973年、それまで、何とか小康状態だったアフガン王政が崩れた。眼の治療にイタリアに向かったザヒル・シャー国王が追放され、共和制が布かれた。しかし、そのクーデター自体、権力者間の争いともいえる。右についたり左についたり、権謀術数をこらして勢力増強を謀る上流階級、南下を目指すソビエトやそれを阻止したい西側のお節介が混乱を深めたであろうアフガニスタン。
 一方の雄であったソビエト連邦が消えてしまった今では、可笑しな話だが、冷戦下にあった当時、アメリカは共産主義の残酷さを誇張するため、そして難民受入国のパキスタンには西側援助の第一次受け入れ国としてのメリットを得るため、多数の避難者が発生することも歓迎される雰囲気があった。
 常に、一番迷惑するのは庶民だが、しかし、人々はたくましい。したたかであるといっても良いのかも知れない。人々は、上流階級の思惑とは別に、少しでも生きやすい、少しでも生き延びやすい方に流れる。地理的物理的に安全を求め、また、思想的文化的に有利さを求めてである。それが、また、祖国の権力者に、また、国際社会に利用されることになるにしても、ソビエト軍侵攻後の数年間に、全国民の1/3にも上る数百万人が難民となった。

パキスタンとアフガニスタン
 1979 年のソビエト軍侵略に先立つ70年代前半、既に、西側は旧ソビエトに対抗するため、カブールのエリート層の国外脱出を歓迎していた。パキスタンを介在して、西側の手引きで国を離れた人が多かったそうだ。後に、ペシャワール派と呼ばれる7名の反ソビエト戦士、つまりムジャヒディーンのボスたちは、すべて、この時期に隣国パキスタンのペシャワ−ルに活動の拠点をおいている。
 その中の一人、ヘクマティヤールは、軍事的政治的にパキスタンに訓練支援され、その後ろにはアメリカがいたという。

 パキスタンは、西側の対アフガン援助の第一線基地としての役割を果たすことで、隣国アフガニスタンへの影響力維持を謀ったのであろう。が、元々、ペシャワール派とよばれるムジャヒディーンボスたちは軍人ではなかったから、彼らやその仲間を組織化し訓練したのはパキスタン軍だといわれれば、なるほど、と思える。さらに云えば、天下に名をとどろかしたアフガンゲリラことムジャヒィデーンたちも、ナイーブな軍団だったといえる。
 パキスタンへ入った援助物資は、難民援助組織を通じて、難民のボス、つまり、ムジャヒディーンボスに流れ、そのボスが人々に配布することになっていたらしい。それが巧く動いていたかどうか、また、アフガンの人々が、そんな複雑な手順を理解したかどうかは別に、自発的に逃れ、パキスタンに入ったとしても、結局、人々は誰かボスの庇護を受けずには生きられず、それはパキスタン、アメリカの援助、すなわち支配を受けてしまうことになっていたであろう。
 ペシャワール派ムジャヒディーングループは、パキスタンの北西辺境州の住民と民族性を一にするパシュトゥーンだったが、何故か、ヘクマティヤールはパキスタンの大きな支援、つまりアメリカの強い期待を受けていた。

 私が、ヘクアティヤール宅近くに住むようになった80年代後半、イスラム党のボスとしての権限は絶大だったが、当時も、それほど人望があるようではなかった。ソビエト軍とも戦ってはいただろうが、しばしば他のムジャヒディーン集団と喧嘩、というより戦争ゴッコしているという噂は、たびたび、耳にした。(つづく)


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