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アフガンの歌 喜多悦子
ジュネーブ、そしてアフガン(1)

 2003年5月3日、8ヶ月ぶりのジュネーブは、紛争時の救援活動に長い歴史を持つ赤十字国際委員会の会議に参加するためだ。
 どの国でも、四季があろうとなかろうと、暑ければ暑いように、雨季ならば土砂降りの中にそれぞれの味わいがある。ジュネーブがもっとも美しい時期は5月だ。その、燃えるような新緑のジュネーブなのに、残念なことに、正味2日間の滞在で、続いて、南半球、まもなく冬というメルボルンで開催される2年に一度の世界災害・緊急医学会に向かう。

ジュネーブからアフガンを思う
 そのジュネーブで私が働き始めた1997年のアフガンは、国際社会からほとんど無視されていた。たまたま、女性団長率いる国際調査団との悶着がきっかけとなって、タリバンの実態が明らかになり、そしてこじれにこじれた挙句が9.11テロだったかも知れない。タリバンの理不尽さと女性への抑圧は許しがたいものだが、規模の違いはあっても、同じようなことはタリバン以前にも、そして今もあることを忘れてはならない。

 WHO(世界保健機関)の私の仕事部屋からは、天気がよければ、はるかにモン・ブランが望めた。その白い姿をみると、何故か、私はパキスタンの北部にあるティリチミールという高峰を思い出したものだった。麗峰ティチミールを、私は写真でしか見たことはない。まだ、それほどパキスタンやアフガンの地理に詳しくなかった頃、その山の向こうに祖国アフガンがあると告げた青年がいた。それが、私の中に記憶されているのだ。その山が位置するパキスタンに住んでいたアフガン難民も、山の向こうの祖国に残っていた人々も、ともに安定しない状況を強いられていた。ヒトが人間らしく育つためには、幼児期に脳の前頭葉に良い刺激を受ける必要があると、最近の脳科学は示している。アフガンの子どもたち、そしてその他、世界中に、ゴマンとある紛争地の子どもたちは、決して望ましい環境で育ってはいない。大人になったら、紛争に係ることだけが約束されているような地もある。

9.11について個人的見解
 あの2001年9月.11日のテロは、アメリカに大掛かりなアフガン攻略の理由を与えた。アメリカを標的とするテロは、今までに何度かある。1995年には、やはりニューヨークの世界貿易センタービルに爆薬を積んだ車が突入しているし、私のWHO勤務時には、アフリカのケニア首都ナイロビとタンザニアのダル・エス・サラームのアメリカ大使館が同時に爆破された。運悪く、ナイロビの米大使館を訪れていたWHOケニア事務所職員の家族が巻き込まれ、数日後に亡くなったが、その時にも、クリントン大統領の指示で、アフガンが空爆されている。
 だが、9.11は規模が違った。アメリカの経済力を象徴する世界貿易センターの2棟が崩壊したことではない。アメリカという、今や、唯一無二の超大国の中枢である国防省は現実に襲われたし、ホワイト・ハウスこそが真の目的であった可能性もある。少しではなく、大いに危険な推測だが、私は、オサマが本当にひとりであのテロを企てたのではないような気がする。本当の黒幕は、まだ、他にいる・・・。私の知る原理主義的人間は、誘拐でも暗殺でも、やったことはやったと告げるのが礼儀、きまりだとしていたからだ。あるいは、もっと不穏な推測をすると、3機あるいは4機の旅客機を略奪し、それらが、ほぼ同時に、しかるべきビルに突入するだけでよかったのに、こともあろうに世界的ビルが斯くも無残に崩壊してしまったことに怖じけた、つまり、テロ企画者にとって効果が大きすぎたのだろうか・・・。

 いずれにしても、あの出来事は、アメリカのみならず、少しでもテロに脅かされた経験をもつ国や人々が大掛かりなタリバンやアル・カイーダ攻撃、つまり復讐が必要、あるいは、それがあっても仕方がないと思わせたことは事実だろう。

アメリカの責任
 結局のところ、相手は違っても、20年以上の紛争が続いていたアフガンでは、タリバンが権力を広げるにつけ、いっそうの抑圧を受けるようになっていたのだが、文字も読めない人々に何の責任も関係はない。しかし、では、アメリカのイスラエル支援やパレスチナ、中東政策に対して、アメリカの一般の人々はどのような責任を担うべきであろうか?
 アフガン空爆は、オサマ・ビン・ラディンとそのテロの実行部隊であり、また、養成機関でもあったアル・カイーダは逃走し、彼らを客人として遇していたタリバン政府も、取りあえずは、崩壊した。「国際社会」というのはえたいの知れないものだが、その支援で暫定政権が成立し、アフガンには23年ぶりに、復興という新しい流れが動き出した。が、最近のニュースは、あまり芳しくない。再びどころではなく、十のつく再びだが、小さな紛争が頻発している。

緑のジュネーブ
 ジュネーブの新緑をながめながら、「誰も天国に行ったことはないけど・・・」と、いいながらも、誰もが「天国のように美しい・・・」と表現した、素朴だが自然の満ち溢れたアフガンの村々の春を思い出す。

 5月のジュネーブ。かなたのモン・ブランが年中雪をいただいていることはいうまでもないが、それほど遠くない山々にも、まだ、白いものが残っていることもある。つまり、すぐそこに冬がいるのだが、もう、決して、それが街に返ってくることはないのを木々は知っている。ありとあらゆる植物が半年振りに衣替えする。まったく洗練されていなかった子どもが、青年期にさしかかって、別注の正装にめかし込んだような晴れがましさがある。日一日ではなく、時間ごとに茂みの様相が変わる。同じ道を行き来しているのに、朝と夕方で趣が違って見えることもあった。
 深呼吸すれば、肺の底まで色がつきそうなほどの新緑。ビル街というほどではない小さな繁華街の一角の公園も緑だし、日本の住宅公団風のアパート群も周囲は緑、緑である。一戸立ちが並ぶ住宅地は緑に埋もれて家がある。垣根の多くは生垣だが、その潅木も競い合うように新しい色合いだ。ほんの少し車を走らせると、大小さまざまな牧場や麦畑、あまり大きくない葡萄園になる。せいぜい千人とか千数百の村が続く。数千の人口なら、ちょっとした街だが、いずれも、色の違いはあるが緑系じゅうたんが敷きつめられている。緑の中で、家々の窓やテラスには、趣向を凝らした植木鉢やプランターに色鮮やかな花が並ぶ。春先、一家の、特に女性の知恵のしぼりどころなそうだ。

 ジュネーブ、スイスといえば、永世中立の平和国家、美しいアルプスとチョコレート、加えても共に平和産業の時計と銀行の国・・という印象が作られている。それらは間違ってはいないし、この国もそのような印象を保つ努力はしている。が、実は、住んでみると、なかなかに強面の国であった。別に、スイスがわたしを騙したのではなく、外部の私が、勝手にそう思っていただけだったのだろう。が、それらは、一脈アフガンに通じている、と私には思えた。

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