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アフガンの歌 喜多悦子
アフガン女性の状況・その2――近代アフガン誕生からタリバン崩壊まで

2 アフガンの長い混乱のはじまり、1973年ダウドのクーデターまで

アフガンの独立
 アフガニスタンは、数次にわたるアフガン-イギリス戦争と帝政ロシアとの交渉を経て、1919年に独立したとされる。

 その年即位したアマヌラーは、近代化を目指し、アミール(amir)またはエミール(emir)とよばれていたイスラム風のよび方をやめて、自らを国王とした。この頃、すでに南下政策を取っていた革命国ソビエトの影響は強く、キング アマヌラは、その範に習い、女性解放につながる法律導入や、自らの妃にもベールをかぶらせないとか訪欧したりした。また、新しい税制導入など近代化を図ったが、それが、結局、保守派の反発を招いて、ついに追放された。こうして、早い時期のトップダウンのアフガン近代化は潰えてしまった。

 今でも、アフガン各地に割拠する武装集団の長を将軍とよぶが、第二次世界大戦のアイゼンハゥワー、ド・ゴールのような将軍たちや、古くは日露戦争の乃木将軍といった軍事専門家としても近代的将軍のイメージよりは、武田信玄とか伊達政宗といった日本の中世の武将のイメージのほうが、わたしにはぴったりする。

 そのアマヌラを倒したタジク人将軍も、おそらくそのような伝統的な武将であっただろうが、アマヌラの進めた近代化を戻して、イスラム化政策をとったが短命に終わった。それを継いだパシュトゥーン王族は、また、振り子の針を逆にして、穏健ながら、開放策をとった。これは、一定の成果をあげたが、その恩恵を受けたのは、あくまで、首都圏の一部上流階級に過ぎず、当然、カブールの金持ち女性には益したにしても、地方の小さな街やアフガンの大半が住む田舎の女性の生活には、何ら変化をあたえるものではなかった。

女性の二極化
 このような時代、女性は、血縁で成り立つ村落に生まれ、育ち、嫁ぎ、産み、歳をとり、ほとんど外部を見ることなく一生を終えていたであろう。都市の、ほんの一握りの金持ち女性だけが外の社会を経験し、その内の更に限られた数の女性が国の外を見る機会をもてただろうが、田舎の生活とは、まるで時代が異なっており、広い範囲の多数の女性に影響を及ぼすことなど、ありえなかった。

 女性の解放に関しては、それでも、1964年の刑法や1977年に制定された民法が女性の行動の自由をすすめるに貢献し、旧ソビエトの影響もあって、駐アフガン米大使館資料によれば、70年代中葉には、教師の74%、医師の40%、政府職員の30%が女性であったという記録もある。しかし、これらの女性は、すべて、名士であり、金持ちの家系の出身であったことは疑いもない。
 このような二分化傾向は、1980年代、国民の1/3にものぼる多数のアフガン人が、近隣のパキスタンとイランに難民化した時にも続いていた。パキスタンのペシャワールやクウェッタなど、国境近くの街でNGOを立ち上げて活動していた女性は、上流階級出身者、なすすべもなく難民キャンプでの制限された生活を強いられていたのは貧しい人々であった。

120倍の差
 今から30年以上前の、アフガンの田舎の女性の生活は、想像の範囲であるが、1980年代末の難民キャンプのそれと、それほど多くは変わらないと思う。わたしが、80年代末のユニセフアフガン事務所勤務時代にした調査では、分娩は、訓練を受けた介助者がいないまま行われることが多く、妊娠や分娩という女性特有の『生理的機能』は、何ら特別の介護を要さないという習慣も、ごく当たり前と受け取られていたようだった。案ずるより産むが易し、という言葉は日本にもある。確かに、多くのお産は、普通、ことなく終わる。が、地球上には、妊娠や分娩という、本来、喜ばしいことで失なわれる女性のいのちが、毎年、60万近くもあり、そのほとんどが、アフガンのみならず、開発途上国で起こっているのである。ユニセフ世界子ども白書の統計を基に、金持ち10ヶ国と貧乏10ヶ国の妊娠分娩による女性の死亡(妊産婦死亡)を比較すると、120倍にのぼる。つまり、人は生まれるところを選べないにもかかわらず、アフガンに生まれるか、日本に生まれるかで、女性は120倍にも上る妊娠分娩の際のリスクを押し付けられている。

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