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アフガンの歌 喜多悦子
アフガン女性の状況・その3――近代アフガン誕生からタリバン崩壊まで

3 アフガンの混迷は誰が深めたのか − ダウドのクーデターからソビエト軍撤退まで

忘れられた緊急事態
 忘れ去られたアフガニスタン・・・などというが、一体、誰が忘れたというのだろう。外部のすべての人がこの国を忘れたとしても、この国には、やはり人々が暮らしている。

 Forgotten emergency(忘れられた緊急事態)は、何も、ある時期のアフガンにはじまらない。傲慢にも、ぬくぬくと暮らしている外部の私が忘れさった、あるいは知らないでも何の不自由もないとしても、アフリカをはじめとするたくさんの紛争国の状態は、みんな似たり寄ったりだ。スーダン、ソマリア、エチオピアなど、アフリカの角とよばれる諸国で紛争と縁のない国はない。西アフリカのシエラ・レオネ、ギニア・ビサオもそうだし、サハラ砂漠の国チャドでは、独立以来、完全に紛争が収まらないままだ。ある程度の人道援助が行われているとはいえ、それは気まぐれであり、本質的な解決のための取り組みはない、といってもいい。アフリカのド真中、旧ザイールは、1997年に30年来の独裁者モブツ大統領を倒したカピラが新生コンゴ民主共和国を作ったが、彼自身、3年も経たない21世紀初頭に命を失った。そして周辺数カ国を巻き込んだ紛争は、まだ、解決していない。94年に、第二次世界大戦後最大の人道の危機を経験したルワンダ、その隣もブルンジも、南部アフリカのダイヤモンドの産地アンゴラでも、何度も政府と反政府軍の和平協議が行われているが、紛争が解決する気配はない。そして、そのような事態を、外部のほとんどの人は知らないまま、何の痛痒もない。実際、国際社会という世間が人道の危機などと叫ぶのは、CNN現象とも云われるように、大々的な報道が行われる場合だけなのである。


逃げようのない緊急事態
 冷戦時代、多くの紛争は米ソ二大国の代理戦争だったため、その消長は両国の政治的意向にゆだねられていた。モスクワが油を注ごうと思えば、はるかかなたの紛争が燃えあがり、ワシントンが水をかけようと思えば、火は消えた。ソビエトの崩壊は、このような機構を壊した。しばらく、消滅したソビエトには、もはや他国の紛争を左右する力はなく、一方の一人勝ちのアメリカにとっても、途上国の紛争は重要な事項ではなくなった。紛争をどうするかは、現地にまかされてしまった。現地には、まだ、対立、戦いの種はなくなっていない。紛争の理由は人々にとっては身近だが、それが故に逃げようのない民族や宗教のせいにされるようになった。

外部勢力の影響
 しかし、理由はそれだけではない。背後には、形を変えた外部の影響がある。不幸なことに、紛争を抱える多く国々には、ダイヤモンド、金、石油、天然ガスなど、豊富な自然資源が埋蔵されている。それをめぐるブラックマーケットがある。そもそも、資源をめぐるビジネスは、何時の時代にもあった。が、政治的な対立が消滅してしまったことが、異なる理由を大きくしているともいえる。紛争地への外部介入は、政治的お節介に始まり、予防外交の裏では武器が供与され、紛争が始まれば人道援助が、そして、やがては和平工作から復興支援と尽きるところはない。

 だから、ここしばらくのアフガンの歴史を振り返ると、善意であれ、すべての外部介入がなければこの国の混乱がここまで深まらなかった、あるいは、もっと早く解決していたかも知れないと思う。とはいえ、ことはアフガニスタンの問題だ。質実剛健、剛毅で誇り高く、訪問者歓待の意が深く、ふところに入れば身内並みに遇する素朴な民族・・・などとおだてられるままに外部に踊らされた、あるいは踊ったふりをして、自らの欲得に走っているのはアフガン人の身勝手さでもあろう。自分の国をどうするかは、最終的には彼らが決めることだ、という気もする。

国際的に注目を浴びるアフガン
 そのアフガンに生きる一人ひとりにとっての国とは、多分、かなり小さいのではないか。私が、国境と云う言葉を肌で感じたのは、有名なハイバル峠近くのアフガン・パキスタン国境の街ぺシャワールに住んだ時だ。毎日毎日、わずかな所持品だけで、国境を越えてくる難民に接した時だ。それまで、私にとっての「国境」とは、川端康成の「トンネルを抜けるとそこは雪国だった・・・」のレベルであったが、逃げてくる人々にとっての国は、自分の部族の勢力範囲だとか、一族よりもさらに小さい家族の行動範囲そのもののように感じられることもあった。
 まことにわが家族わが一族意識が強いアフガンが近代国家であったことはないが、1919年の開明派国王アマヌラーに続いてなお知られることになったのは、先頃、30年ぶりに祖国に帰った元国王ザヒル・シャーであろうか。そのザヒル・シャーが目の治療にイタリアにむかった1973年、王の従兄弟ダウドがクーデターを起こした。それが今にいたるこの国の混迷の始まりともいえるが、それ以来の三十年間に、アフガンは何度か世界の耳目を集めている。
 1979年12月。上流階級の政権争いの混乱に乗じて、ソビエト軍が、たった3日間でアフガン全土を支配下においた時もそうだっただろう。このことを記憶していなくとも、その翌年、時のアメリカ大統領カーターの決定で西側諸国がモスクワオリンピックをポイコットし、わが国の有力金メダル候補選手が悔し涙を流したことは記憶にあるかもしれない。

都市部女性の解放
 しかし、共産化による変化がすべて悪だったともいえないのは、この後、少なくとも、アフガンの都市部の女性の解放は著しく進んだからである。田舎の女性の生活には、ほとんど影響はなかったにせよ、首都圏の政府役人の半分は女性という記録もあるし、医師や教師に占める女性の割合も高かった。が、国土は、ソビエト兵とムジャヒディーンの戦いの場になり、国民の1/3に上る500万人が難民として国を離れ、孤児が100万人、未亡人が十数万人と記録されている。

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