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アフガンの歌 喜多悦子
アフガン女性の状況・その4――近代アフガン誕生からタリバン崩壊まで

4 アフガンの混迷は誰が深めたのか − ダウドのクーデターからソビエト軍撤退まで

アフガン支援計画
 その約10年後の1988年4月。日本では、それほど注目されなかったが、米、ソ、パキスタンとアフガンからは、ソビエト支援のカブール政権が加わって、ジュネーブでソ軍のアフガン撤退が合意された。そして、その後のカンボジア、ボスニア、コソボ、東チモールなどで行われるようになった国連をあげての紛争後復興事業の、先駆けともいえるアフガン支援計画が始まったのである。国連と西洋諸国の多数のNGOがペシャワールに押し寄せたのである。わが国からもはじめて紛争地近傍に人材派遣を!という動きが起こった。私の得がたい経験は、その中で生まれたのだ。

 ただ、このジュネーブ会議には、長年、祖国を侵略したソビエト軍を追い出すために命を賭けていたムジャヒィデーンたちは招かれていなかった。そのことが、後に、「自分たちを無視した会議は認められない!!」と、彼らが国際社会に怒りを向け、仲間内の闘争に走った理由でもあったが、身勝手な理屈を並べ、都合の悪いことには銃を取るというやり方は、タリバン時代に、イスラムの掟を盾に、女性の就業就学制限を強化し、国際社会のルールを無視したことにもつながるような気がる。いずれにしても、反共産主義戦士のムジャヒィデーンも、タリバンも、同じアフガン人だ。

 私は、その頃、まことにナイーブ(愚か)な初心者だった。人道援助分野であれ、国際社会には、さまざまな魑魅魍魎が跋扈し、高級低級、下劣醜悪、白黒変化自由自在の思惑や政治的意向が入り乱れている。私は、このアフガン難民援助の経験を通じて、ずいぶんしたたかに育ったとおもうのである。

 その翌年、1989年2月にもアフガンはトップ記事であった。半信半疑であった西洋メディアの前で、本当に最後のソビエト兵が、手を振りながら、アムダリア河の鉄橋を、北へ去っていった。

ソ連の撤退後
 当時、ペシャワールには、250を越えるNGOが事務所を構えていた。国際機関やNGOに働く西側の人々の間には、訳の判らない高揚感があったし、いくつかの代表的なNGO事務所や、私の勤務する小さな国連前線事務所にも、多数の世界的メディアの記者が殺到した。首都カブールには、まだ、親共産主義ナジブラ政権が残っているとはいえ、米ソの代理戦争の場アフガニスタンから、一方の雄、ソビエト軍が撤退したことは、西側世界にとっては民主主義の勝利、一大事件であったのだろう。

 しかし、当時の私には奇妙なことだったが、アフガン人は冷めていた。何年間も、人によっては十数年以上も不自由な難民キャンプ生活を送り、一日も早く本国に帰国したいはずの人々が、いっこう、腰をあげようとはしなかった。国際機関が笛を吹いても太鼓をたたいても、踊る人はわずかだった。さらに周りの地元民、すなわち、難民と民族性を共有する北西辺境州のパキスタン人パシュトゥーンたちも冷ややかであった。「ルシアが消えたぐらいで、ヤツラは帰るまいヨ!! アフガニィは最後の二人になるまで殺しあう・・・!」。

 私自身、目の前で起こっていることは見えてはいたが、何がその裏にあるのか、「真実」はまるで理解できてはいなかった。現地では、諸外国の若い医師やナースが嬉々として働いていたが、彼らの間にあっても、私の臨床教育経験は絶大だった。が、病院や診療所といった施設はなく、日本では当たり前に使っていた機械も設備も薬も消耗品もなく、さらに電気も水も、つまり何にもない荒野に、一夜にして膨大な人々が滞留する事態、時には、何万、十数万という長い避難行にくたびれ果てた人々の生命を護り、その健康を回復、維持するか、私の知識はほとんど無いに等しかった。そして、このよう場、つまりダイナミックな第一線人道援助の現場では、何よりも全体を見る目と政治的センスの欠如は致命的なことを悟らされたのであった。

あるNGO代表者
 ある日、イスラム系のNGOから、その女性プログラムへの援助依頼を受けたことがある。まず、現状把握、視察に行った。イスラム系・・・NGOということは、西欧系とはちがって、当然、伝統的なことが予測された。そのつもりの出で立ち、つまり、民族衣装のシャルワール・カミーズに、現地ではチャドルとよぶ大型のスカーフをまとって行く。NGOの代表は、アラビア風の白いドレスにサンダル履き、顔の半分が髭に覆われ偉丈夫であった。そして、女性プログラムの責任者は、頭のてっぺんから踝まで、黒ずくめであった。眼鏡越しの相手の目だけで、その人の表情を読むことは難しい。まして、どんなお人柄か、どんな趣味か・・・、いや、大よその年齢も判りかねる。私が判ったことは、メガネをかけて英語を話す女性は相当のインテリということだけだ。彼女は、数年前に、カブールから10日間歩いて、隣の国パキスタンに逃れ、2年前から、そのイスラム系NGOで働き始め、最近、女性プログラムの責任者になったという。

 彼女が担当するプログラムは雑多だったが、実に要領よく、遂一、解説してくれた、何時から、何処で、誰の支援で始まり、何人の女性がその恩恵を受け、今、何が問題か、そして何故、私の勤務するユニセフに新たな支援を依頼するのか・・・理路整然とした説明の合間に、アラーのご加護への感謝の言葉が入る。完璧なイスラム風解説。特に、戦いで夫を失った女性とその家族への支援プロジェクトは、ユニセフの趣旨にも適う。積極的な検討を約束して、私は事務所に戻った。当時、新しい女性支援のためのNGOを探していた私には、好ましい相手と思って・・・。その思いは間違っていなかったことは、その後、彼女のプログラムが順調に発展したことからも確かなのだが、やがて判ったことに、私は、戸惑った。その女性は、アフガンの首都カブールに住んでいた頃は、親ソビエト系共産主義女性団体の代表者として、すさましい経験をした人であったという。

 そのことは非難するにはあたらない。人は、自らが生きて行くため、また、他人を助けるためには、何だって出来るのだろう。だが、私は、その有能で、如才ない女性プログラム責任者がたどってきたであろう道に、何の思いもはせられなかった自分の初心者ぶりに打ちのめされてしまった。

 人々は、主義主張によって国を追われることがあり、難民となる。しかし、生きて行くために、主義主張を変えることもある。否、変えたふりすることもあるのかもしれない。とはいえ、主義主張の戦いに敗れて滅びる国もあるのだ。やがて判ったが、この頃、ソビエト連邦はまさに最後の最後の時期だった。アフガン撤退を決めたゴルバチョフ大統領自身、それから2年も経たない1991年8月には失脚したし、大ソビエト連邦そのものもその年の暮れには消滅してしまったのである。アフガン人にとっても、受け入れがたい、また、理解に苦しむ闘争であったかもしれないが、ロシア人にとっても、何のためのアフガン侵攻であったのかという気持ちもあろう。

 1989年2月のソビエト軍完全撤退後も、アフガン難民はパキスタンに居座り続けた。国連が振る旗に従って帰国した人々が皆無ではなかったが、自発的本国帰還が始まった、などというには、お寒い限りであった。そして、それどころか、事態は一掃悪化した。

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