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アフガンの歌 喜多悦子
アフガン女性の状況・その5――近代アフガン誕生からタリバン崩壊まで

5 タリバンの勃興から全国制覇まで(1)

タリバンとの遭遇
 偶然だが、1994年10月、ペシャワールにいた。タリバンが、初めてテレビに映し出された頃だったらしい。一台の戦車に鈴なりになった、黒いターバン姿の若い男たちを、私は、何者?といぶかったことを覚えている。

 パキスタンに避難していたアフガン人の中で、特定のマドラサ(モスクで開かれる金曜学校)に属する学生武装集団が件のタリバンなる集団だと聞いたのは、その数日後であった。マドラサというやさしい響きが、私には、イスラマバードの住宅街でしばしば目にする、おそろいのブルーのシャルワール・カミーズに、白い帽子をかぶった愛くるしい少年たちが、いっせいにモスクから駆け出してくる金曜日の昼前の光景を思い浮かべた。同時に、武装集団という説明は、ある難民キャンプで見た、こぶしを振り上げ、振り下げ、目をキラキラさせて、反共の歌を唄う少年たちの姿が二重写しになった。あの少年たち・・・、難民の学校で、一体、何を学んでいたのだろうか。

 誰がタリバンを組織しているのか、彼らは何を目指しているのか、それは判らなかった。しかし、アフガニスタンの南西部の街カンダハールを拠点として活動し始めたタリバンに、初期には、地元の人々を含め、歓迎ムードが強かったことは事実だ。背後にパキスタン軍部がいる、いや、アラブだアメリカだとの噂も飛び交っていたが、さほど国際的ニュースにならなかったアフガンの中で、次第にタリバンの名前が大きくなってきたのは、彼らが、一定の規律と秩序をもって、無法地帯化していた国土を、破竹の勢いで、制圧し始めたからだった。

タリバン制覇の背景
 1992年の夏、ソビエト時代から続いていた最後の共産政権が倒された。長年、ソビエトとその侵攻軍によって護られてきたカブール政府の最後は、大多数の難民が耐えてきた苦難を一掃する勝利だったはずだが、国際社会を唖然とさせたのは、対立していたとは云え、数日前までは一国の首相であったナジブラの無残な絞首刑姿が、首都の広場にさらされたことだった。そして、その後のアフガンには、ムジャヒディーン待望のイスラム政権が樹立された。しかし、彼らは、自らが、前首相にほどこした野蛮さを裏付けたいかのごとく、まるで戦国時代そのものの振る舞いに走った。あらゆる無秩序と無法が蔓延し、ありとあらゆる悪事がまかり通るようになった。

 共産主義に対しては、聖なる戦士だったはずのムジャヒディーンたちは、自らの天下になると同時に、権力と小さくなったパイを争うだけの愚かなwarlord、武闘屋と化した。悪いことに、それまで拠点としてきたパキスタンの難民キャンプには、なお、豊富な武器が蓄えられており、戦いが不利になると、互いに、国境を越えて避難し、姿を消す、まるで人々の意向とは関係のない、終りのない、そして仁義のない紛争が始まったのだった。宗教を否定する共産主義、憎っくきルシアン(ロシア)の侵略によって、100万人以上が命を失い、数十万以上の孤児と未亡人が生じ、国民が1/3以上が難民となって、一説によれば、国土の80%以上が荒廃した、まさに失われた10年を経て、やっとのことで念願のイスラム政府が出来たというのに、そのリーダーたちは内輪もめにうつつを抜かしているのであった。この頃のアフガンは、ソビエト軍が侵攻していた時代より、はるかに治安が悪化していたとしても、不思議はない。誰も、国や国家を考えているものはいなかった。同一部族が住む地域でも、つまり、一族の中で、残虐行為や暴行や発生していたという。(つづく)

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