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アフガンの歌 喜多悦子
アフガン女性の状況・その6――近代アフガン誕生からタリバン崩壊まで

5 タリバンの勃興から全国制覇まで(2)

タリバンの支配始まる
 1991年には、湾岸戦争、ソマリア、ボスニア・ヘルツゴビナで、地域紛争が発生したし、翌92年には、さらに紛争の火種が増えていたし、一方、復興ののろしを上げたカンボジアへの関心が高まっていた。常に、新しい緊急事態に忙殺される国際社会は、もはや、アフガニスタンに無関心であった。当然のことだが、身のまわりで起こる暴力沙汰に怯える人々は、誰であれ、治安を護ってくれるものを歓迎した。強くをくじき、弱きを助け、無法を取り締まるタリバンが生まれたのは、こんな状況のアフガンニスタンだった。

 アフガン南西部のカンダハールは、アレキサンダー大王も通り過ぎた古く、美しい街だ。その近隣の寒村で、理不尽な暴力にあった少女を保護したことがきっかけとなって、タリバンの評判が上がった。彼らは、わずかの戦力を効果的につかって、アフガンの南部、東部、そして、1996年9月には、烏合の衆であったかつてのムジャヒディーン連合を打破し、首都へ進軍したのである。後にいう北部同盟と、しばらくは、一進一退の攻防が続いたが、結局、10月には、マザリシャリフ一帯など、北部東北部の一部を除く4/5の領土を支配した後、タリバンはアフガンの正統政府として、国際社会に名乗り上げた。

 この首都攻防によって、ソビエト軍の約10年にわたる支配では、ほぼ、無傷だったカブールの街は戦場と化し、主だった建物は、ほとんどといっていいほど破壊された。やがて、国名を、アフガンイスラム首長国と変えたタリバンは、次第に本性を顕わにし始めた。はてしない女性への抑圧である。

再見のアフガン
 1997年7月、私は世界保健機関(WHO)に転職した。緊急人道援助部で、紛争国の保健政策策定や緊急計画を支援するのが仕事であった。数週間は、紛争オンパレードの、アフリカに忙殺された。しかし、9月に入って間もなく、国際社会からは忘れさられていたにせよ、私の国際協力の原点とも云えるアフガンが、突然、目の前に立ちはだかってきた。

 ジュネーブに移って、間もない頃、ある国際的援助機関の女性代表ご一行が、アフガン現地視察の際、数時間だが、幽閉されたというニュースが流れた。続いて入った情報によれは、その代表の、女性にはあるまじき非礼な行為が、その筋の機嫌を損ねたらしい、という。とはいえ、公衆の面前での喫煙、多少、活発すぎる行為が傍若無人に見えたとしても、それは彼らの「規範」を逸脱していただけなのだが、双方にとっては、互いに絶対に相容れない、不幸な理由であっただろう。

 ところが、そのとばっちりが降りかかってきた。当時、WHOのアフガン事務所代表は、あるイスラム学者が務めていたが、ご一行への説明が、タリバン寄りだという非難が起こり、その責任は、本部のアフガン担当者、すなわち、私だというのである。さらに追い討ちがあった。アフガンへ大口援助者を代表していたご一行への、前近代的仕打ちとともに、タリバンの女性迫害があまねく知られたため、国連ジェンダー調査団が派遣されたのである。そのメンバーに加わったWHOスタッフのイスラム文化に対する知識不足が、さらに、さらにWHOの評価を落とした。そして、現場に入ったものの、恥をさらしただけのWHO関係者の責任転嫁先は、程よく着任した新任者の私であった。風が吹けば桶屋・・・の逆であったが、タリバンの女性迫害、WHOのタリバン寄り姿勢への責任、イスラムに無知だったスタッフの気恥ずかしさを覆うための非難先は、すべて新任現場監督のせいにされた。最初は仰天し、その理不尽さに反発もした、また、置かれている立場を解説もしたが、その内、馬鹿馬鹿しくなって、沈黙を決めた。誰も、本当の責任は誰にあるのか知っていることが判ったからだ。いずれにしても、WHOスタッフとしては、また見ぬアフガンだったが、納得のゆかぬ汚名は返さねばならない。実は、これはアフガンの内紛と同じく、WHO内の名誉闘争だったが、実に下らない、エネルギーと時間と知恵の浪費であった。

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