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アフガンの歌 喜多悦子
アフガン女性の状況・その8――近代アフガン誕生からタリバン崩壊まで

6 タリバンの全国制覇から2001年9月9日まで(2)

1998年カブールへ
 1998年2月、私は、タリバン支配下のカブールへ入った。ジュネーブから、ロンドン経由で、まず、パキスタンのイスラマバードに飛んだ。そこには、国連の職員が迎えにきてくれていた。チトラール帽、あごひげの凛々しいその青年は、自分はタリバンだといった。

 「何故、タリバンにはいったの?」という、私の質問に、彼は、運転席から振り返って答えた。「タリバンだけが、アフガンを治め(control)られる。皆、戦いにあきあきしているのですよ、タリバンのお陰で、街は静かになりました。」

 タリバンの中枢にいたのは、ほんの一握りの原理主義者だとされる。最高指導者オマルを見た人も限られている。一体、誰が、あの女性迫害のエディクトを作っていたのか?タリバン政権の外務次官や保健省高級官僚は、皆、もじゃもじゃの髭面だったが、私には、決して、ゴリゴリの原理主義者ではなく、古典的だったが、むしろ、物分りも、愛想も良いオジサン、オニイサンだった。彼らの多くにも、オンナである母がおり、妻がいて、可愛い妹や娘がいたであろう。何故、誰が、あれほどの女性抑圧政策を発しつづけたのか。

 イスラマバードから、国連機でカブール入りを予定したが、悪天候だった。ペシャワール経由ジャララバードまでを空路、そこからランドクルーザーで、約10時間、雪の悪路をカブールに向かった。

 2月のアフガニスタンは寒い。道の両脇には、以前と同じようにソビエト製の戦車の残骸が転がっており、その向うに破壊されたか、人がいなくなって朽ち果てたかした、土の家が、亡霊のようにかすんでいた。人影はない。道・・・といえるような道はなかった。ミサイルによって出来たらしい、道のど真ん中の大きな穴ぼこを避けて、道の端から端までを蛇行し、それでも上下に飛び上がり、左右に大揺れしながら、そして、時には川の中をのろのろと進んだ。断崖絶壁の向うに、わずかに雪をかぶった岩が見えたり、寒寒としているが、言葉では表せないほど清冽で凛とした渓流があったり、特別の名前をつけて呼びたいような奇岩があったりして、時に激しく吹雪く以外に地上は平和で、観光資源の宝庫のようにみえた。それにしても、こんな厳しい自然環境の中では、生きて行くことすら厳しいのに、何故、人は、戦うのか。

WHOのワークショップ
 私が企画したWHOのワークショップは、アフガン政府、すなわちタリバン保健省と共催することで許された。タリバン支配下の国土、アフガンの4/5にあたる州の保健関係者が参加した。ワークショップは、カブール市街のはずれにインターコンチネンタルホテルで開かれた。

 インターコンチのすぐ傍には、その上から、ミサイルを発射すれば、誰が撃っても、ホテルに当るだろうという小高い丘があった。ユニセフ勤務時代の1980年代末に、カブール入りした時にも、危険地区として宿泊は許されなかった。が、当時は、日中の短時間なら、食事は可能だった。大ぶりの羊の骨付き肉が混じったサフランライス、何十年も凍らせてあったようなカチカチのバターの味を思い出した。

 ホテルは、確かに、まだあった。が、窓という窓のガラスは割れて、ドアというドアは傾いでいた。廊下の絨毯は、所所破れ、色も変わっていたし、まともに水の出る水道はなかったのに、トイレの床は水浸しだった。かつては豪奢な結婚式が行われてであろう広間は、寂れた体育館のように何もなく、ただただ寒気が満ちていた。暖房はない。そして、ソビエト軍侵攻中の80年代には、古いが、瀟洒な住宅が並んでいたホテルの周囲は廃墟だった。1996年、タリバンの首都進攻時、今で云う北部同盟との激戦の地だったのだ。そして、以前と同じように、傍には小高い丘がそびえている。

 ワークショップは、翌年の予防接種や母子保健の具体的な作戦を決めることが主題だったが、タリバン保健省の意向で、2000年以後のアフガンのあるべき保健政策を議論することが付け加えられ、3日間の日程であった。2台の発電機が稼動され、かろうじて、数本のマイク、オーバヘッドプロジェクター、2台のコンピューターとプリンター、そして広間の照明が動いていた。北部同盟が支配する、2、3の州を除く全土から125名の関係者が集まった。現地のWHO職員と打ち合わせた後、初日、聖職者の祈りでワークショップが始められた。私を含め、たった4名の女性はチャドルを被り直し、男たちは、拍手の直前のように、両手を広げて祈りを聴いた。まともなマイクはないが、寒い広間の中に、朗々と響くムラーの祈りは、心地よかった。が、寒さは、厳しい。毛皮の内張りコート、厚手のスラックス、他の人には内緒だが、ポケットにはホカホカカイロまで忍ばせていたが、ギィギィ音を立てる粗末な椅子の下からはジンジンと寒さが背骨を登ってくる。周囲の参加者の多くは、靴下も履いていない。寒そうな顔をすまいとするが、歯がガチガチいう。

 タリバンであろうとなかろうと、会議が始まってしまえば、保健省の役人も、地方からの参加者も、単に保健専門家だった。皆、屈託なく、おしゃべりだった。ここでは、3人のアフガン女性たちも差別されることはない。日本の水準から云えば、幼稚園のような発表ばかりだったが、議論は真剣だった。暖かいチャイ(ミルクティ)がふるまわれる休憩時間、昼も夜も、昔と同じようなサフランライスとカレー味のスープ、平べったいナン(パン)、何日間も、ひょっとすると一生お風呂に入っていない手で、親切に羊の肉をさばいてくれた髭もじゃの医師。今でも、思い出すと胸が熱くなる。

 私にとっては、80年代末のクナールや首都の人々も、90年代末のカブールの住民も同じアフガン人だ。彼らの、何ひとつ変わっていない。ただただ、生活が苦しくなったというだけだ。そして、その苦難は、女性たちに押しかかっているのだろう。この時期、本当に女性たちとは話せなかった。アフガンの女性が、戸外に出ることは、宇宙に行くほど危険だっただろう。外国人の私さえ、男性同伴、しかもチャドルなしでは出かけられなかったのだ。カメラはご法度、何をするにも事前の許可が求められた。統制社会が、どんなものか、私は、わずかの滞在で、嫌というほど体験した。

2001年9月9日
 北部同盟の英雄、パンジシールのライオンとよばれていたマスゥードが暗殺された。そして、その2日後に起こった、あの同時多発テロは、世界を変えた。

 それまでにも、アル・カイーダやオサマ・ビン・ラディンは、対アメリカのテロとのかかわりが云々されていた。1993年のワールド・トレイド・センターの爆破、1998年のケニアの首都ナイロビとタンザニアの首都ダル・エス・サラームの両アメリカ大使館同時爆破でも、その関連が疑われていた。が、何故、事ここに到ったのだろう。

 そして、その後のアメリカの空爆によって、奇態なタリバン政権は、確かに崩壊した。が、本当にすべてのタリバンが心を入れ替え、アル・カイーダが一掃された訳ではない。アフガンに、本当の平和が確立され、女性の立場が改善されたのだろうか?


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