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アフガンの歌 喜多悦子
三人のアフガン女性 その1

 先に、9月頃、関係があったふたりのアフガン女性について書いた。今度は3人だ。その中の一人は、私のアフガンメモワール中の大きな割合を占めるだけでなく、昨年来のアフガニスタン復興において、ある意味では、世界の最も注目を引いたひとであり、そして、多分、アフガン女性の将来を左右する人、いや、左右させるべき人なのである。

シマ・サマール(1)

初の女性大臣

 ドクター シマ・サマールは、昨年つまり2001年11月のボン会議で成立したアフガン暫定政治機構で副首相兼女性省大臣に任命されたことで、世界的に名を知られたが、長くアフガンにかかわり、そしてあの国には、何が欠けているのか、そのモノを知っている、決して多くはない本当のアフガンの友人を名乗る人々の間では無視できない人物であった。
 セプテンバー・イレブンス(9.11)の後、米英がアフガン空爆を開始した。そして、それまでバラバラだったというより、しのぎをけずりあっていたアフガンのさまざまな勢力が、一堂に会して国の復興を話し合うという画期的なボン会議の頃、私は、わが国が行うべき人道援助計画を作るための調査団に参加してパキスタンにいた。その調査団は、1989年来、シマ・サマールが拠点としてきたパキスタンのクウェッタも訪問する予定だったので、私は、何としても彼女に会いたいと思っていた。連絡がつかないまま、パキスタンにむかったのだが、首都イスラマバードからクウェッタに向かうという、まさにその時、彼女が初の女性大臣の一人として、また、副首相という要職に指名されたことを知ったのだった。

 シマ・サマールが運営するシュハダ・クリニックというNGOは、パキスタンのバルチスタンの州都クウェッタで、小さな診療所と女の子だけの学校を運営していた。実は、今回確認したのだが、シュハダ−殉教者という意味−というNGOは、私が訪問した時には、まだ、開設間なしだった。

 1989年2月、10年来、アフガンに居座っていたソビエト軍の撤退にあわせて、国連がはじめたアフガン復興一大キャンペーンにあわせてペシャワールに新設されたユニセフ アフガン事務所に派遣され、激しく事態が変動する紛争地近傍で、人道救援一年生をはじめたばかりの私には、相手がほやほやのNGOであれ、ベテランの国連スタッフであれ、教わることばかりだった。業務のあり方と成果、明瞭で妥当な経理、そしてさまざまなレベルの評判から評価したのだが、その管理者であるシマ・サマールの経歴も、また、興味深いものだった。共に捕らわれ、少なからぬ拷問も受けたらしい。そして、その時ですら、何年も消息なく、つまり生き別れたままの夫・・・。

10年ぶりの再会

 ホテルのロビーで待っていた私は、玄関のドア越しに、以前と同じように活動的な感じのシルエットが現れ、彼女の到着を知った。髪はごま塩になっていたが、厳しい人生を送ってきたことを感じさせない愛想の良さは変わっていない。が、あのすべての女性に、取り分け厳しい環境であったタリバン時代を越えたアフガンで、初めての女性副首相兼、初めて設置された女性省(正確には女性<の>課題<を扱う>省)大臣に任命されただけの沈着さと思慮深い感じもあった。
 十年を越える物理的な空間は、言葉無く抱き合った瞬間に消えた。
 ウマがあうというのかもしれなかったが、たった、3日ほど、クウェッタに滞在している間に、実に色んなことを分かり合った、ような気がするようになっていた。
 その経歴、迫害、避難にいたるこころのゆれ。
 アフガンの人々と知りあうまで、わたしには、迫害などという事態を経験した友人、知人はいなかった。そして生き別れたまま、何年も見ぬだけでなく、消息もないという夫。彼は、もう、生きてはいないと思う・・・と、シマ・サマールが静かに、しかし断固とした口調で云ったことを、今回、思い出した。当時、カブールの共産政権に抵抗するインテリ層は、想像も及ばぬ拷問にあっているらしいことは、知っていたから、彼女が、断定的にそのように云うには、それなりの理由はあるのだろうと、私には思えた。
 ユニセフ・アフガン事務所として、初めてのクウェッタ地域での援助を決めて、彼女と別れたが、私がペシャワールを去った後も、長らくシュハダ・クリニックへのユニセフ支援が続けられていた。それは、支援するに見合うだけの成果を、シマ・サマールが出しつづけていたということだ。

 タリバンが勢力を広げ、アフガンの4/5を支配した頃、わたしはWHOに勤務した。1998年頃、政府はタリバン一色で、カブール入りした外国人の非モスレムのわたしも、一人歩きはもとより、男性の同行者がいても、頭にはスカーフを被るように指示された。が、仕事の相手であった保健省の関係者や外務省の担当者は、きちんと話を聞き、約束したことは実践してくれた。
 長い空白の後、シマ・サマールの連絡先を手に入れた一昨年、わたしは、彼女に連絡を取ることを怠けていた。怠けていたというより、わたしの中で、アフガンとどう附き合ったらいいのか混乱していたような気がする時期だった。
 2001年12月、わたし達が、空爆後のアフガン支援策を決めるためにパキスタンに向かった頃、シマ・サマールは、資金獲得のための講演にカナダを旅行中であった。つまり、女性課題省大臣に任命されようとした時、ご本人は本国に不在だったのである。もちろん、クウェッタに入った私が大臣に任命された彼女に連絡をつけることは出来なかった。

 今回、シマは、新しい夫がいること、養女を持ったことを言葉すくなに伝えた。シマは、まだ、50になっていないかもしれない。ちょうど、わたしがアフガンにかかわった頃と同じ年頃のようだが、髪は随分白くなっている。ショート・カットに西洋風のパンツスーツの彼女は、それでも折に触れて『アフガン性』を示しはした。例えば、しかるべき人には、アフガンのお土産を手渡し、二度、三度勧めないと飲み物に手を出さす、公的な場では、髪にチャドルをかけたのである。(つづく)

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