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国際社会の現在(いま)―ジェンダー視点から
「経済制裁下で生きのびる−代筆屋とお菓子売り」 (11.05.13)

経済制裁による貨幣価値の暴落
 前号のコラムで、大阪在住のイラク人のモハンマドさん一家から教えてもらった、経済制裁下のイラクにおける生活の一端を紹介してからずいぶん時間が経ってしまったが、今号でも彼の家族に登場してもらう。
 幼い頃からずば抜けて学校の成績がよく、中学卒業試験では全国で1位、タウジーヒと呼ばれる高校卒業試験では全国2位になったというモハンマドさんは、経済制裁下で誰もが著しい経済的困難を抱えていたイラクの中流家庭出身である。<中流>家庭といえども、貨幣価値が暴落したイラクディナールで支払われる父親の給料では、家族全員を養うことができず、配給される粗悪な小麦粉や米では子どもの成長に必要な栄養をとることができないというありさまだった。昼間は定職についているイラク人が、仕事が終わると自分の車を使ってタクシーの運転手をし、いくばくかのお金を稼いでいたという話を他のイラク人から聞いたことがある。モハンマドさんの家もそんな家族の一人だった。
 勉強面では何の苦労もせずに、当時のイラクで最難関といわれた大学の医学部に入学した彼だったが、弟や二人の妹を食べさせるのに一苦労している両親の姿を何度も目にするたびに、大学を中退して、どんな職種でもいいからそのときに手に入る仕事を探そうと考えたこともあったという。それほど切羽詰まっていた。

家計を助けるために−代筆業とケーキ売りのアルバイト
 モハンマドさんが高校生だった頃、学校が終わると、あるいは学校が休みになると、近所にある役所の前に椅子と机を置き、そこに座って、住民の申請書の代筆業をしていたことがある。教育レベルが極めて高く、非識字率が低いイラクでも、申請書を記入するときに苦労する人々もいる。しかし、住民が一様に経済制裁に苦しんでいるイラクで、代筆業者にまとまったお金を払う余裕はない。したがって、一回の代筆で得られる稼ぎはほんのわずかにすぎなかった。それでも、彼にとっては家計に役立っている、と思えることが嬉しかった。同業者の大人たちは、明らかに10代半ばのモハンマドさんが代筆している姿をどんな思いで見ていたのであろうか。競合相手でいながらも、自分の息子と重ね合わせるかのように見ていた人もいたに違いない。


 医者になったあとも、若き医師であるモハンマドさんに払われる月給は米ドルに換算すると、わずか数ドルにすぎなかった。

 「当時、愛砂が日本からイラクに遊びに来ても、ジュース一本買ってあげることができなかったと思うよ。本当に苦しくて、先輩の医師の夜勤を代行し、給料をほんの少しだけ上乗せしてもらう、というのは若い医師の誰もがやっていたこと。ヨルダンに行ってから、医者の給料があまりにも違うことに驚いたよ。サダーム・フセイン体制下のイラクは社会主義国家だったから、医者の給料は他の資本主義国家に比べると、著しく低かったという事情もあるけれど、それにしても経済制裁による貨幣価値の暴落が大きく影響していたことは間違いなかった。」

 妹や弟はどんな生活をしていたのだろうか。昨年来日し、しばらく大阪に滞在していたモハンマドさんのお母さんのバシーラさんによると、「モハンマドは代筆業、娘たちはね、私が配給で得たなけなしの小麦粉や砂糖を使って焼いたケーキを自分たちが通う学校の前で他の学生に売っていたの。」本来は自分たちで食べるために配られた食糧を売ってまで、生き延びるための小銭を稼がざるを得なかったのだという。娘たち二人は、バシーラさんの手製のケーキを小さく切り分けて学校に持っていき、休憩時間になると、学校の門の前に立ち、学生たちに売っていた。

 「娘たちは嫌がってた。自分が通っている学校でしょ。みじめだもの。でも、そうでもしないと、どうにもこうにも食べていけなかったの。」

1970年代のイラクの生活
 先にも書いたように、モハンマドさん一家はイラクの水準ではけっして極貧家庭ではなく、経済制裁がなければ、ぜいたくはできないけれども、それなりに快適な生活を営むことができていたはずの家族だった。経済制裁という外的な原因で日々を翻弄されてきたのは、この家族だけではない。赤ん坊だったモハンマドさんを胸に抱き、カメラの前に笑顔で立っている、1970年代のバシーラさんの写真を見たことがある。イラン・イラク戦争前のイラクが産油国として潤っていた時代に撮られたものだ。その写真のバシーラさんはヘジャーブをかぶっておらず、ミニスカートをはいている。当時の世界的なファッションの流行を反映したものだ。それから20年もしないうちに、日々を生き抜くための手法を考えるのに頭を悩ませる生活に追われるようになるとは、当時の彼女は想像すらしなかったに違いない。当時のイラクの生活水準は、ヨーロッパのポルトガルやギリシャと同レベルと評されていたものだった。
 湾岸戦争から20年、そしてイラク戦争から8年。この二つの戦争の開戦から終わりにいたるまで、また、長い経済制裁の始まりから終わりにいたるまで、私は気楽な学生生活を楽しむ学生だった。同時代にイラクで生きていた人々はあまりにも異なる生活を経験していたにもかかわらず。20年以上もの月日を経て、戦争を支持する国の側にいる私はようやく、経済制裁や戦火の下での生活を<想像>するために、重い腰をあげた。遅すぎる。何もかも遅すぎるのだ。この間、いったいどれだけ多くの人々が犠牲になったのか。そして、その辛苦を集団的記憶としてとどめながら、計り知れないイラク戦争<後>の後遺症に現在もなお、苦しむ人々がいる。遅すぎるとはわかりつつも、今の私には、こうして聞きとめたイラク人の記憶をリライトし、記録として残していく作業以外に、大きな「責任」に対する「罪滅ぼし」の一部をなしていく方法を見出すことができないでいる。
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