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老親とともに 信子と啓子
うたの別れ(啓子)

 父の一周忌に「追想集」を作ることにした。父は比較的長生きしたせいもあって、始終ひとのために「追悼文」を書いていたので、父のために親しい人々に思い出を書いてもらおうと思ったのだ。
 母は、この追悼集に短歌を一〇首寄せた。
 これを機に母はいっさい歌を作ることをやめてしまった。ちょうど物忘れがひどくなっていく頃で、多分、精神を集中して言葉を精選していくことに耐えられなくなっていたのだろう。
 母が歌を作っているのを知ったのはもう半世紀くらい前になる。当時、母が購読していた婦人雑誌の短歌の投稿欄に母の旧姓を見つけた。旧姓をペンネームにしていて最初は内緒で始めたようだが、次第に結社にも参加、歌会や吟行会に行くようになった。歌壇で昇格(?)するために別荘にひきこもって論文を書いていたこともあった。ということを、母はすっかり忘れているのだが、母の不在のときは夕食を準備しなければならなかった私は忘れるはずもない。
 歌を始めると俳句にも手を出したくなるらしい。歌や俳句は字が上手なほうが映えるというわけで習字も習う。字を書けば絵も描きたくなる。文学史も必要だし日本史の知識も大事だ。母のカルチャー熱はとどまることを知らず、その成果は、いま2冊の歌集と1冊の合同句集、何枚かの額装に入った絵として残されている。
 始めは母の出歩くことを快く思っていなかった父も、やがては母の歌を読んで意見を言うようになり、2冊目の歌集は、「自分が生きているうちに」と母をせかして出版させ、題名も父がつけた。
 3人の子供のうち私だけが、かろうじて文学好きの母の血を受け継いだ。しかし、私がヨチヨチ歌をつくりはじめたころには、母は長年購読していた歌誌をやめ、歌仲間から贈られる歌集にも関心を示さなくなり、お礼状も私に代筆させるようになっていた。
 「私が上の句を作るから、お母さんは下の句をつけてみて」と誘っても頑として拒否する。だが、文法的なことを聞いたり、「魁」ってなんて読むんだっけと聞くと、「さきがけ」っていうんじゃないのとたちどころに答えたりする。この間も「コケン」ってどう書くんだっけ?とたずねたら、教えてくれた。「あんた、こんな年寄りに漢字をきくなんて、沽券にかかわるでしょ」だって。
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