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老親とともに 信子と啓子
偉かったのね(靖子)

 近頃、母が繰り返し口にする言葉がある。「おばあちゃんは偉かったわねえ。この歳になってつくづくそう思うのよ」
 母が言う‘おばあちゃん’とは母の母、孫の私たちは京都のおばあちゃんと呼んでいた。祖母が亡くなって35年になる。
 歳をとるに連れて子供の頃がますます懐かしくなるというけれど、母も例外ではない。折にふれて思い出話が出る。先日の能登半島沖地震の時も、やがて話は関東大震災へと移っていった。あの怖さは一生忘れられないと言う。母は当時6歳、小学校1年生で横浜に住んでいた。両親と5人の兄姉妹、それに2人の祖母たちの9人家族である。地震発生時、すぐ下の妹は父方の祖母と金沢の親戚宅にいて留守だった。「一緒にいたらきっと足手まといになったでしょうね」と母は言う。家は半壊し、まだ乳飲み子だった末の妹を除く子供たちは、一足先に母方の祖母と千葉県の富津崎へ避難した。
 「後に残ったおじいちゃんとおばあちゃんは、一体どうやって家や家財を始末したのかしら?赤ちゃんもいたのにねえ」と言って母は目を閉じた。高台にある家からは焦土と化した横浜の街が港まで見渡せたそうだ。その光景は今もありありと目に浮かぶと言う。それから程なく、一家は神戸へ移り住み、祖父は貴金属を商う店を開いたのだった。
 「さぞ大変だったと思うわ」とまた母が言う。新たな土地で家族を抱え、30代後半になってからの再スタートは並大抵のことではなかっただろうと、私も若い頃の祖父母の姿を思い描いてみる。家族も更に1人増え、住み込みの店員3人も含めて13人、食事の支度だけでも容易ではなかった筈だ。母は背中に赤ん坊をおぶい、土間で煮炊きをする祖母の姿を懐かしんでいる。
 「おばあちゃんは店の手伝いもしたのよ。偉かったわねえ」
独学で英語をマスターし、複数の店を持つまでになった祖父の話は幾度となく聞かされて育ったけれど、母が今まで祖母の苦労を取り立てて語ることはなかった。「おじいちゃんが頑張れたのも、おばあちゃんがいたからよ。今更のように尊敬するわ」と90歳になった母がしみじみと述懐するのである。年月を重ねて初めて、言葉としてあふれ出る母の思いを私は新鮮な気持で受け止めている。
〈記憶は過去のものでない。それは、すでに過ぎ去ったもののことでなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ〉〈記憶という土の中に種を播いて、季節のなかで手をかけてそだてることができなければ、ことばはなかなか実らない〉と書いたのは詩人の長田弘である。
 料理上手な祖母は食材を決して無駄にしなかった。古たくわんで作る粕煮もその一つで、母にとってはまさに‘おふくろの味’である。雪国の冬の常備菜だそうで、祖母は姑から習ったらしい。母が「いつか作ってみるわね」と言ってから何年経っただろう?思うようなたくわんが手に入らなかったせいかもしれない。ところが先日、「試してみたわ」と‘幻の粕煮’が登場したのである。小鉢にこんもりと盛り付けられたたくわんは、白い酒粕の衣をまとってまるで雪山のよう。上にあしらった木の芽の緑が鮮やかに映えている。
「うわ〜、いい香り」初めて口にする‘おばあちゃんの一品’は、ほのかに残るたくわんの風味に酒粕と味醂の甘みがほどよくマッチして、何だか懐かしいような不思議な味がした。「伯父ちゃんにも食べさせてあげたかったわ」と母がつぶやく。その伯父も、もういない。
 「おばあちゃんは外へ出かけるのも大好きだったわね」
 「そうよ、子供をおぶって家族旅行もしたのよ。ミルクも紙オムツもない時代に、よくもまあ、と感心するわ。偉かったわねえ」
 「ママだって、偉いわよ」と言ったら、「そうかしら?」と嬉しそうな顔をした。〈記憶は育てるものなのだ〉と私は自分に言い聞かせる。
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