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老親とともに 信子と啓子
数は弱い?(信子)

 父は、亡くなる前5年ほど目が不自由で、本を読むときなどは、拡大鏡を使ったりしていた。最期のころ、大きな10センチ四方もあるカードをヘルパーさんと私の娘でつくり、手製日めくりを用意した。毎日自分で日にちと曜日を差し替えて、その日を確認するのを日課にしていた。そのカードが記念のように残されていたのを、母のために使うことにした。
 お風呂上りに母の部屋で、日めくりカードの差し替えをする。無事にそれが終わるのを見届けて、いつしか母の健康度をはかるようになった。
 カードは、1から31までの日付のものと日から月までの曜日のものの2種あり、卓上カレンダー用のクリアーケースにおさめる仕組みになっている。今日のものをはずして明日のものに差し替えるという簡単なことなのだけれど、その日のコンデイシヨン次第でなかなか一筋縄ではいかないのだ。おまけにちょっと脱線しておしゃべりなどしていると、はずしてしまった今日の曜日が分からなくなったりもする。
 もう少し心配なことは、時に、月曜日の次が火曜日、2日の次は3日という記憶以前のことが出てこないことだ。忘れていて思い出すほどのことではないだろう。まして度忘れ?でもないだろうに。
 しかし、考えてみると無理からぬことかもしれない。母の現在の生活は数字からも数をかぞえるなどということからも、およそ遠くなっている。買い物は娘の私がするのだし、おつりを渡しても信頼しきっていてあらためなどしない。家計簿などもう数年近くつけていない。生活習慣のようになっている数との付き合いは、それが無くなれば自然に無縁なものになるのだろう。
 そうだ。数えることだ。
 お風呂に入って、母は痛いひざを湯船のなかで静かに曲げたり伸ばしたりしている。デイにいっても体操の時間に必ずやっている屈伸運動である。ここで声を出して数えることにした。1,2,3,4、、、、、、、、8。2,2,3,4,5、、、、、、、8というあの号令である。時々怪しくなると、「えっ?おかしいよ」と私。「ああ、そうか間違えたわ」と母。こうして毎晩屈伸運動をしながら、母は数えている。10回まで数えて「さあ、これでおしまい」といいながら。
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