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老親とともに 信子と啓子
母のなみだ(信子) 09.08.14

 明治の女はよほど気丈なのか、父の涙は珍しくなかったが母の涙を見たことはなかった。
 父は子供たちを大声で怒鳴りもしたけれど、私が、台風で全線電車がとまりバスを乗り継ぎ乗り継ぎ這這の体で家に帰りついたときなど、信じられないような勢いで泣いた。尤も私の父はどうやら特別のようでもあるが。
 しかし、決して涙を見せなかった母が認知症を患って、三度涙をこぼした。

 一度は、ショートステイから帰ってきた日の夜
 夕食をすませて、娘が「ねえ、ごはんみんな食べられた?」「みんな親切?」「お薬、上手に服めた?」と畳み掛ける。母は「お食事は美味しかったよ」といいながら、ぽろっと涙をこぼした。そして、「向こうの家とこっちの家、ひとつにならないの?」と。私は胸が張り裂けそうだった。「向こうの家とこっちの家」とは「ケアハウスと我が家」ということなのだろう。ショートステイを利用するについては、私も悩みぬいた上での決断であり母にも十分に納得してもらってのことと考えていた。
 「でもね、お母さん疲れてきてるから、ちょっとお休みさせないと......」娘が助け舟をだしてくれた。「いいよ、分かってるよ」と何気なくぼそりと母のかすれた声、母は何もかも分かっている。それでも「向こうの家とこっちの家」は一緒にしたいのだ。私もそう思う。涙は私の目にもあふれた。私は介護失格者だろうか。

 もう一度は、母の生まれ故郷の話を散々してからのこと
 美味しい琵琶湖の魚料理、祖父の贅沢な暮らしぶり、そして没落していく呆気なさを私も一緒になって夢中で喋っていたのに。突然押し黙って、ぽろっと涙がこぼれた。「ばあのこと思い出したの?」母は静かにうなずいた。祖母は、病弱で母を出産して間もなく結核に罹り授乳もままならず、母は乳母にゆだねられることになった。母は「ばあや」のことを「ばあ」と呼び亡くなるまで私にも祖母のような人であった。何不自由ない生活の中で、実母に育てられた姉と乳母に託された妹と、その間に、決して目に見えなくない差別も在ったことを、母は「ばあ」の思い出とともによく話していた。
 母のなつかしい思い出話は、祖父の絢爛豪華な一代記とともに、あるいはむしろより熱のこもった表情で「ばあ」との暮らしが語られるのが常だった。
 私は、対応に窮した。「ばあ、懐かしいね。この世で一番可愛いかったのよ、お母さんが。そんな我がままいうたらあきまへん。お母さんに悪いですって、私叱られたことあるもの」。
 私が何をしたのかは覚えていないけれど、ばあは誰よりも母のことが大切なんだと、その時強く思った。母は柔和な笑顔になった。

 そして、もう一度は、介護付き有料ホームの体験入居中
 母の認知症の症状が深刻さを増し、私の体力、家族の状況などさまざま検討の末、私がいつでも通える範囲に母の気にいるホームがあれば施設入居の道も考えることで介護スタッフの協力を仰いだ。
 いくつかの候補の中で選んだホームは、最寄り駅からバスに乗って10分あまりの静かな住宅街にあり、リビングルームに腰掛けて庭を眺めると、驚いたことに我が家とそっくりの景色が広がる。寝室は確かに狭い、母の部屋と比べるとおよそ半分位だけれど、必要なものは揃っており別にトランクルームもある。そして何よりも介護スタッフ(職員体制)が2:1以上という優等生だ。26室というこじんまりとした施設の大きさもいい。介護者の姿が常にあちこちに見える。しかし、入居金も利用料も決してリーズナブルではないけれど。
 母の居心地は決して悪くはなかろうと判断した。母は私の説明にみんな頷いてくれる。お薬を服む時のようなはっきりした意思表示は、もうしてくれない。
 そうして体験入居が始まった。母は機嫌よく、食欲もあり体調もよく何だか表情も明るくなったようにさえ思えた。お気に入りのぬいぐるみを抱えて、皆さんに名前を披露するなどなかなかサービス精神も旺盛のようで、私は安心した。私はホームを訪ねると、家族のことやご近所のことなどを話し、いつも一緒に歌を歌った。
 そんな時、はらりと涙。私は思い切り母を抱きしめた。
 そうするしかなかった。
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