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老親とともに 信子と啓子
共存共栄(信子)

 今年は父の七回忌である。母と私ども家族との暮らしも6年余になる。
 当時は途方にくれていた母も、手探りで新しい生活の形をそれなりに編み出している。私は私で父にしたように、母の最期を看取ろうと決意はしたものの、さまざまの条件の違いに戸惑う事が多い。
 父には治療の必要な病気があり、通院や検査の付き添い、医師との交渉、入退院に関するさまざまの手続き雑事にいたるすべてが私の肩にかかっていたし、私もそれなりの覚悟をしていた。いわば父の環境は、日常ではなかったといっていい。
 それにひきかえ、母はすでに父の年齢を超えて93歳になるが、耳がやや遠く足が不自由であるほかはきわめて健康である。日常生活にそれほど極端な支障は無い。とはいえ母は一人で買い物に行く事はできないし、一人で料理をして食事をする事はできない。しかし母はできないのではなく、できなくなったというべきなのだろう。私がすべて代替してしまったというのが正しいのかもしれない。母の健康管理から財産管理にいたる、私が責任を持たねばならないことは別として、私は母を過保護にしてはいないか。自分の老後を思い描きつつ、しばしば考え込むことが多い。
 いまや平均寿命は女性85.59歳、男性78.64歳である。高齢者と呼ばれる65歳から数えるとして、女性の老後は20年以上ある事になる。肉体的にも精神的にも個人差があるだろう。「65歳現役社会」の言葉を考慮して5年繰り上げるとしても15年以上の長い老後があるという事だ。
 豊かな社会は、人間の生命を永らえることに成功した。医療の進歩は確かに幸福をもたらした。しかし、トータルの人間存在を永らえることに成功しているか。この重い課題は一人一人に託されている。ベッドの上の時間をできるだけ短くし、充足感をもって最期をまっとうできるために必要な事、それは何だろう。

 母は、先ほどから懸命にお習字のけいこをしている。私は、歌の練習をしたあと食事の支度をして、今パソコンに向かっている、そろそろお茶の時間にしようかと思いながら。
 「さっきから随分熱心にやってるのね。お茶にする?」
 「どうも何枚書いても、うまくいかないのよ。お茶をいただきましょう」ということになって、それからが長い長いお話の時間。私は時に楽しい昔話を聞き、時に一寸我慢もして同じ話を聞く。
 思い切って私が掃除機をかけ始めると、母はテーブルや椅子を動かしてスペースを広げてくれる。洗濯物を取り込むと、時には黙ってたたんでくれる。
 テレビを観ながら居眠りを始めた母に、私は「おばあちゃん、お大根おろしてちょうだい」といった具合に、母の家事への協力のチャンスを作る。
 ふと、一人遊びができるようになった子供との時間を思い出す。私の気持ち次第で、きわめて穏やかな時間だ。しかし、この時間はいつまで続くのだろうか。老後は長い。
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