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老親とともに 信子と啓子
ただいま(靖子)

 その道をまた母と一緒に歩けるのが嬉しかった。爽やかな秋晴れの日で、空はどこまでも青く街中だというのにキンモクセイの香りが漂っていた。「ああ、いい匂い」思わず立ち止まって深呼吸をする。傍らの母を見ると同じように大きく息を吸い込んでいた。ゆっくりゆっくりと歩を進めながら「やっと帰ってきてホッとしたわ」と母がつぶやく。「よかったわねえ。元気なママを見て先生もきっとびっくりなさるわよ」と応じる私の気持も弾んでいた。
 母の貧血がひどくなって、クリニックの先生から詳しい検査を勧められたのはアジサイが開き始めた頃だった。つてを頼って受診した都心の病院では結局、本人の意向や年齢体力を考えて厳しい検査を回避し、投薬による治療をお願いすることにした。通院にも順番待ちにも時間がかかって大変だったけれど、ヘモグロビンの値にもようやく改善の兆しが見えたので、それを機にもとのクリニックへ戻してもらうことにしたのである。
 名前を呼ばれて診察室へ入ると、「お帰りなさい」と先生がにこやかに迎えてくださった。「先生、ただいま。あちらはサヨナラしてきました」と母はウキウキした気持そのままにいつもより軽口になっている。「先生のお顔を見て、やっと安心しました」と言う母に「あちらの先生からのお手紙を拝見しました。数値が上向きになってよかったですね。もうしばらく鉄剤とビタミンB12の服用を続けて様子をみましょう」とおっしゃって、いつも通りの診察が始まった。最近はパソコンの画面を見ながらデータの説明をなさる先生も多い中で、こちらの先生はきちんと触診してくださる。足のむくみを診るときにストッキングが破れていたら恥ずかしいと言う母を私は娘ながら可愛いなあと思う。
 「ツメの色もいいですね。脈拍も心配ありません」と、その時だった。母が突然「まあ、先生の手は何とおきれいなのでしょう」と感心したように言った。見ると逆に先生の手をしっかりとつかんでまじまじと見入っている。先生は「エッ?」と意味がわからないご様子で首をかしげ、看護師さんと私の視線は当然のことながら先生の指先へ。すると母はおもむろに「先生のツメは全部に白い半月形が出ていて、きれい」と言ってから「半月が出ているのは健康のあかしなのですって」と手を握ったまま解説まで始めたのである。母から見ればほとんど孫世代に入る先生は心持ちほほを染めて「ありがとうございます」と言われた。そのやりとりがおかしくて、私はとうとう声を出して笑ってしまった。看護師さんも笑いをこらえているようである。母はきっと嬉しくて仕方がなかったのだろう。慣れ親しんだクリニックへ元気に戻れた喜びが伝わってきた。やはりこれでよかったのだと、娘は娘で肩の荷を下ろした気がしたのである。
 「先生、またお世話になりますが、よろしくお願いいたします」と母が今度は改まった調子で頭を下げている。「戻ってこられて本当に嬉しくて・・・」そんな母に先生は「これからも大事にして元気でいましょう」と優しい言葉を返してくださった。
 帰り道で母が言う。「正直に言うと、この先いったい何があるの?と思うこともあるけれど、まだまだ頑張らなくちゃね」
 「そうよ、今日みたいに楽しいことがあるのだもの」と私はつないだ手にそっと力を込めた。
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