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大谷恭子『それでも彼を死刑にしますか 網走からペルーへ−永山則夫の遥かなる旅』現代企画室 2010年

  永山則夫は1968年10月11日から11月5日にかけての26日間に,東京,京都,函館,名古屋で,4人の人命を奪った。19歳の少年であった。一審で死刑判決,控訴審では無期となった。そして,検察が控訴審を不服として上告した結果,結局は死刑が確定することになった。そして,1997年8月1日,死刑を執行された。
 大谷恭子弁護士は,控訴審から,最高裁,そして差戻審中途での辞任に至るまでの6年余,死刑と無期の間で翻弄された苛酷な時間を,永山の弁護人を務めた。大谷弁護士の活動は,「弁護人を務めた」という短い語句では言い表せない。一人の生身の人間と全人格をもって向かい合い,その人を死刑から救おうと,鬼気迫る迫力で,なしうるあらゆる活動を尽くした。
 初めの接見で,大谷弁護士に「オマエらの存在がオレたち下層民の犯罪を生むんだ。」と土下座を迫る永山は,大谷弁護士が子どもの話をしたとたんに,態度を変え,子どものことを根ほり葉ほり聞いた。母親に捨てられた思いを語り出した永山に,そのときは彼の生い立ちを知らなかった大谷弁護士は「子どももつらかった。でも捨てざるを得なかった母親だって同じくつらいし,哀しい」と話したと言う。永山は,このようなやりとりの中で,大谷弁護士を人間として信頼し,弁護を依頼したのではないか。そして,哀しい結末になってしまったが,6年余の間,大谷弁護士は,永山にとって何と恵みのある活動をしてきただろう。
 永山は,苛酷な生い立ちを経て劣等感と疎外感にさいなまれ,転々と職を変え,自殺未遂を繰り返した。その果てに,日本全国を震撼とさせた連続殺人事件を起こす。被害者は4人に及ぶ。拘置所の中で,自分自身がなぜ社会を憎悪し殺人を犯してしまったかを知るために,必死に勉強を始め,書きつづる。知識人である弁護士にも厳しく,弁護人を解任し,法廷が荒れることになった。そんなさなか,和美さんと文通を始める。和美さんは,沖縄で,フィリピン系の駐留米軍人と日本人の母との間に無国籍として生まれ,日本からも沖縄からもアメリカからも差別されていた。生きる希望を失っていた和美さんは,永山の「無知の涙」を読んだことをきっかけに,文通を始め,生きる希望を与えられる。和美さんは来日し,永山と会う。永山も和美さんと出会い,獄中結婚をし,生きる希望を抱くようになる。理論武装が解かれ,恨んでいた母親へも気遣うようになる。控訴審後,もし生きることが許されるなら,社会の最も底辺にいる者たちのために学校をつくること,そして被害者への慰謝を,生涯かけてやり続けたいと願うようになる。さらに,ほとんど読み書きが出来ず,漢字の学習から始めた永山は,16の著作を出版し,その印税のほとんどを遺族へ送った。和美さんと生きる希望を抱きはじめてから,人の心にしみいる小説を書き始めていた。
 生きて,恵まれない人のために尽くしたい,遺族に贖罪をしたい。永山のこの願いを絶つことに,どれだけの意味があったのだろうか…。永山の以上の生きざまをリアルに知れば知るほど,死刑判決と執行に,疑問を抱かざるを得ない。
 大谷弁護士は,自身の弁護活動にも厳しい。一審判決の事実認定は,それぞれの事件について,ずさんだった。しかし,大谷弁護士ら弁護団は,控訴の理由の第一に事実誤認を挙げたが,立証は,改悛の情を理解してもらうべく,「情状」に絞った。その「賭け」は控訴審で成功し,無期判決(船田判決)となる。この判決は個別情状を見て無期判決を下したものであった。しかし,最高検は,船田判決につき死刑制度を事実上廃止するものと主張し,異例の上告をする。最高裁は上告を受け入れた上,無期判決を破棄してしまう。差戻審では破棄理由である情状関係に立証は制限され,事実関係は許されない。そして,事実認定は一審認定通りに確定してしまった。「結果として,われわれ弁護団は致命的な誤ちを犯したことになる。」死刑か無期かが争われる事案で,弁護人の責任は重い。これほど十分以上の活動をしても,「結果」からみれば,「致命的な誤ち」をしたとの後悔を背おわなければならない。
 大谷弁護士は情に走らず,異なる判断をした船田判決と最高裁判決を緻密に分析もする。たとえば,船田判決が「被告人の精神の健全な成長を阻害した面があることは推認できないではない」と指摘した環境的負因について,「他の兄弟らが必ずしも被告人のような軌跡をたどることなく立派に成人していることを考え併せると(中略)特に重視することは疑問がある」とした最高裁については,兄弟のそれぞれの年齢と兄弟間の位置によって,受ける傷の大きさ,深さが異なると指摘する。さらに,最高裁は,改悛の情,環境の変化,遺族の被害感情についても,船田判決とは異なる評価をした。そのひとつ一つについて,大谷弁護士は反論する。
 弁護人は被害者にとっても第一の理解者でなければならないと,私は先輩弁護士から言われたことがある。大谷弁護士は,被害者と直接向き合い,その悲しみ,憎しみを理解しようとした。大谷弁護士はまさに,被害者の第一の理解者であろうとつとめたように思う。大谷弁護士は,和美さんとともに,名古屋,函館,京都の遺族の方と会い,謝罪した。和美さんを労り,永山と母との関係を気にかける等,遺族と和美さんとのやりとりの記述には,涙が抑えられない。ところが,検察は,異例の上告に際し,遺族に改めて被害感情について聴き取りをし,それを証拠として提出し,遺族が死刑を求めていることを上告理由とした。大谷弁護士は決して遺族の方が永山を「許した」とまで言っているのではない。少なくとも,話を聴いてくれる関係にまでなった矢先に,検察が被害者の感情を奪い返そうとするかのように,介入してきたのである。遺族は,被告人を憎み,それを死刑を求めることで表すよう,検察から,社会から,求められ続ける。それもまた,遺族にとって,苛酷なのではないだろうか。
 死刑から無期に減刑された船田判決の主文が読み上げられたとき,大谷弁護士は泣き出してしまった。隣の相弁護人も泣いていた。傍聴席からもすすり泣きの声が聞こえた。生身の永山とその法廷の空間を共にしていた人たちは(検察官を除き),永山の生が許されたことを素直に喜び,感激した。しかし,マスコミの反応はそうではなかった。
 大谷弁護士は,無期への減刑を批判したマスコミについて,法廷での証人や本人の真摯な言葉を聴くこともなく,「社会」を代弁しているかのように糾弾し,実際は個人個人の記者が匿名で感情をぶつけたものと,批判する。マスコミの反応,これを理由の一つとして挙げた検事上告,そしてこれを受け入れ,一般予防を死刑選択の基準とした最高裁に,大谷弁護士は,死刑制度があるがゆえの社会の野蛮さをみる。これは,中世の「殺せ!」コールと同質だと。人間は野蛮さ,残酷さを持っている。しかし,その内心の狂気を抑え込む寛容な理性ある社会になってもらいたい。死刑制度はその対極にあるとの大谷弁護士の指摘は,死刑制度を未だに存置している日本社会にいる私たちに突きつけられている。
 差戻審になってなお弁護人となっていた期間は,大谷弁護士にとってもどれほど苛酷な時間だったろうか。動揺し,絶望している永山を前に,何も出来ない無念さが行間から滲みでている。そして,最後の段階で,永山の意に反して,精神鑑定を申請したが,これを「哀しいことです」と書いてきた永山の手紙を受け取り,ついに弁護人を辞任した。その翌日,和美さんは永山との離婚届を提出した。絶望した永山は,激しく和美さんを攻撃するようになっていた。和美さんは,それでも支え続けようとしていたが,共に支えてきた弁護団を切られ,永山から一方的に送りつけられていた離婚届を提出したのであった。
 その後,永山は差戻審で死刑判決が下され,確定した。その後は身柄引受人ひとりとの交流しか許されなくなる。その後3年半もの間身柄引受人もなく,外部との交流が一切なくなってしまう。裁判を支えた一人である女性が1997年7月31日に,永山との面会を認められた。その時は既に死刑が決まっていたからこその例外的な取扱だったのだろう。女性は不思議に思いつつも,東京拘置所の配慮に感謝した。身柄引受人の相談をして,終わった。その時同席した看守は,その会話をどんな思いで聞いていたのだろうか。
 翌日の8月1日に,永山は,絞首刑に処せられた。執行の3週間前に,永山は差戻審の国選弁護人だった遠藤誠弁護士に,再審請求の問題点を相談したいとの手紙を出した。法務省は,再審請求が近いうちに出されること,今は出されていないことを熟知していた。その間隙を狙ったとしか思われない。
 永山は,死刑執行の直前,「本の印税を日本と世界の貧しい子どもたちへ,特にペルーの貧しい子どもたちのために使って欲しい」との遺言を残した。なぜペルーか。大谷弁護士は疑問に思いながら,ペルーのふさわしい場所を探し出す。1997年2月の朝日新聞に紹介されたペルーのスラム街で働く子どもたちの人権を守る団体を知り,永山がこの記事を読んだと確信する。死刑執行の1カ月後の9月1日,大谷弁護士らは「永山こども基金」を設立し,印税をペルーの子どもたちの組織に送ることとした。そして,その後,ペルーの働く子どもたちと日本の若者たちが交流をはじめる等,広がりをみせている。さらに,2004年から毎年,8月1日の命日の直近の土日に,チャリティ・コンサートを開催し,その売り上げやカンパを足して送金し続けている。2009年現在で,修学出来た人たちは26人に上っている(今後も毎年10人の子どもたちに学費援助をすることができるという)。

 付論の「永山基準とはなにか 無期になりうるものを死刑にできるか」も,力強い論稿である。永山基準といわれるようになった最高裁判決について,限定的ではあっても,死刑に対する謙抑的姿勢を示したとの解説を紹介しつつ,結局,総論では謙抑的としつつも各論でより緩やかな死刑適用を認めてしまったものであり,総論の趣旨が各論に活かされなかったために,近時の死刑適用の拡大傾向に歯止めがかからなくなったゆえんと厳しく指摘する。その後,1997年の検察の連続上告を契機に,謙抑的とは正反対に,むしろ「遺漏なき適用」へとの検察の方針に引きずられてしまっている。さらに,永山基準があげた9つの量刑要素のうち,客観的要素,それも被害者の数がひとり歩きするようになり,少年,犯行後の情状,生育歴等の主観的事情は軽んじられるようになる。最高裁判決当時,最高裁判事であった団藤重光氏によれば,最高裁は結論こそ違え,死刑判決に可能な限り謙抑的でなければならないとする船田判決の精神を引き継いだもので,それは「死刑を選択にするにつきほとんど異論の余地がない程度に極めて情状が悪い場合」という文言にあらわれているという。さらに,9つの量刑要素を例示し,それに加えて,「極刑がやむをえないと認められる場合には,死刑の選択も許される。」としていることからもわかるという。大谷弁護士は結論において無期を破棄している以上,最高裁の言質はリップサービスとしてしか受け止められないとする。
 その後の検察の立場に引きずられた動向を踏まえて,そして,裁判員裁判が実施され市民の多数決で死刑判決が下される時代に,せめて,永山基準が,9つの要素に依拠して客観的に結論が導かれるものとして提示されたのではなく,「死刑を選択にするにつきほとんど異論の余地がない程度に極めて情状が悪い場合」にこめられた謙抑的でなければならない要請こそ,確認され徹底されるべきである。
 しかし,そもそも,死刑制度は人が作り,人が運用している制度であり,完璧ではあり得ず,欠陥もある。そして,国の制度である以上,時の政権にも左右される。犯罪に死をもって報いれば憎悪しか生まない。市民が死刑に関与するということは,市民自身の手による市民社会からの追放であり抹殺である。死刑制度は根源的なところで共生社会と抵触し,これを否定する。大谷弁護士の死刑廃止論は,生身の人間の生と死を見据えたものだけに,リアルな迫力をもって読者に迫ってくる。
 日本が今でも死刑を廃止しない理由に,世論があげられる。しかし,「死刑制度への賛否」を問われ,「生身の人間が殺される」というリアリティがないままに,どちらかというと賛成と答えているだけかもしれない。そもそも人の生死について多数決で決めていいものなのだろうか。本著は,読者に,「死刑制度」を抽象化するのでなく,人を殺すというリアリティに向き合うよう迫る。
 死刑を漠然ととらえ賛成と回答する人にも,裁判員になりうる市民にも,法曹にも,そして法曹を志し今後の刑事裁判を担う人たちにも,必読文献である。(良)
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