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現代思想12月臨時増刊号緊急復刊imago『いじめ 学校・社会・日本』青土社 2012年

 2011年10月に滋賀県大津市で市立中学の男子生徒が自殺をした。しばらくは特に注目されなかったが,2012年7月に新聞が取り上げてから瞬く間に大きな関心を呼び起こし,警察による中学校への強制捜査や大学生による大津市教育長の襲撃事件といった激越な展開となった。しかし,本特集号が出た2012年11月末には,マスメディアは選挙等に早々と関心を移し,いじめ問題への根本的な取り組みは置き去りにされている。過熱報道がおさまったときにこそ,本特集号が世に出た意義は大きい。
 「いじめの政治学」(『アリアドネからの糸』)で子どもの社会が権力社会であると書いた中井久夫が,あらためて子ども時代の記憶を辿り,学級も権力構造だと指摘する論稿は,短いが深い洞察に打たれるものがある。
 尾木直樹は,2007年以降からの学校は,われわれ大人が経験してきた牧歌的な学校とは別ものだという。社会的に「受けた」教員評価制度や学校評価制度の影響が大きい。評価してボトムアップという発想自体はいい。しかし,副校長と校長がひとりひとりの教員の評価を行い,それが教育委員会にあげられて相対評価で仕分け,給与や異動にまで影響してしまうという,閉じたシステムの現在の制度は弊害が大きい。保護者が行う学校評価制度も,学校と保護者の関係をサービス提供者と消費者の関係へ変容させてしまう(学校選択の自由がこれを加速させる)。このような学校では,教師は自分のクラスでいじめなどがあっても,相談できない。自分の「成績」が落ちてしまうから。構造改革は,学校教育の生命線になるようなところまで潰してしまった。いじめが注目されても,ただ騒いでいるだけで,何の対策も打てないこの国は大変深刻な状況にある。
 その他いずれも力のこもった論稿であるが,特に現場の教諭の論稿には迫力がある。中学校教員の赤田圭亮は,大津の事件の顕在化後の経緯を概観し,政治家や官僚が事件に群がり,自分の取り分をしっかり確保する,ほとんどの施策は「やってみること,みせること」に意味があり,結果を問わないというのがこの人たちの常套だと,シニカルである。なぜシニカルになるのか。問題が起きた時に,現場の教員の話を真摯に耳に傾けようとしないからだ。外部の「専門家」が配置され,カウンセラーやソーシャルワーカーを入れ,調査委員会がつくられ…でもその中に現職の教員が入ることはない。政策立案者たちの目には,教員は適切な対応が出来ておらず,研修が必要なやからとしか見えていない。でも,現場には様々な取り組みの積み上げで解決していることがたくさんあるし,教員が茫然自失しているわけでもない。たとえば,「出席停止の活用」というが(2007年安倍政権時の教育再生会議が前面に打ち出し,大津市の事件をめぐる議論でも持ち出されている),「性行不良」「他の児童生徒の教育の妨げになる」とのふたつの要件にあてはまる児童生徒はかなりの数に及ぶだろう。ではその度合いを公正に判断できるか。保護者の意見はどのように反映するのか。理由,期間の明示に合理性を持たせられるか。出席停止された児童生徒にどうかかわるべきか(紙切れ一枚提示すれば,子どもが黙ってどこへも行かず,蟄居しているとでも?)。教員は,街のならず者を相手にしているわけではない。家族も含めて長く良く見知った教え子なのだ。それでも,犯罪として警察対応をとる必要がある場合もある。それが歯止めとなることもある。しかし,それも基準をつくるのは,簡単ではない。現場では個々の教員が日々のトラブルに向き合い,小さな解決を続けている。しかし,後追い的にトラブルを追いかけて,大局的につなぎ合わせることができないと,執拗ないじめが鮮度の低いものとみなされ,問題と明確に共有されることができなくなることがある。このような現場の教員が,何を必要として,何を取り除いてもらいたいか,行政は耳を傾けようとしない。官僚の手を経て現場におろされてくる思いつきの教育施策は学校の日常を無視した突飛な物で迷惑なものばかり。赤田も,尾木とともに,人事評価制度がチームとしての教員集団を壊すと問題視する。そして,たくさんの不必要な薬物で学校の体力を奪っているというのに,いじめという患部だけを効くともしれない「特効薬」で集中的に治療していることの愚かさを説く。
 中島浩籌「『いじめ』対策と心理主義」は,1980年代〜90年代にかけては心理主義的な「いじめ」対策が行われたが,今は個々人の心理を問題にするのではなく,関係性を問うような流れが出ていたといわれるものの,心理主義的傾向は中身を変容させながらも今なお拡大し続けていると指摘する。すなわち,確かに,関係性が意識されるようにはなった。しかし,関係性そのものを変化させていくというよりは,メンバー各人の「関係を作り出す能力」,コミュニケーション能力の育成が目標になっている。関係というのは一人で作れるものではないのに,個々人の力の問題に還元しようとしているというのである。コミュニケーション能力が着目されれば,結局は,たとえば,これが難しい子どもたちが,能力が低い,努力がたりないとされかねない。こういう子どもたちが「空気を読めない」として,いじめの対象になりやすいことを考えると,関係の心理主義化によって,否定的な自己認識を生み出してしまうことには弊害が大きい。カウンセリングが本来自己否定感をとりのぞくことを目標としているはずなのに,逆効果である。いじめ対策に関しては,個人のコミュニケーション能力を育てるよりも,環境を変えていくべきなのであると説く。
 田嶌誠一「いじめ・暴力問題が私たちにつきつけていること」は,学校等の相談室で臨床心理士として関わった経験から,赤田と同様,現場感覚の共有が重要であると指摘し,現場での困難を詳細に描出する。
 北澤毅の「誰が『自殺練習』を見たのか?」は,大津事件をめぐる新聞記事を分析する。市教委が「自殺の練習」についてアンケートに回答した生徒らから事情聴取したが,みな伝聞で実際に目撃した生徒は見つからず,事実かどうか確認できなかったので,公表しなかった旨,市教委担当者が話したことを報じる記事もあったが,見出しは,「自殺練習させられていた」といったもの。以後,テレビの世界も含めて,「自殺練習」と教育委員会の「隠ぺい体質」という物語が流通していき,滋賀県警察が中学校を強制捜査するに及んだ。しかし,結局その後目撃した生徒を特定できず,強要容疑の立件は困難であるとのことである(これも報道による)。読み応えのあるメディア批評である。
 その他,芹沢俊介の「いじめの定義の大切さについて」,加納寛子「ネットいじめの現在」ほか,多種多様なアプローチで,いじめを考察する。
 今必要なのは,上からの思いつきによる性急で大雑把な「改革」などではない。現場の困難を知った上での細やかな取組みこそが大切であることがひしひしとわかる。いじめ防止を掲げる教育政策立案者にこそ読んでいただきたい一冊である。(良)
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