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國分功一郎著『来るべき民主主義 小平市都通328号線と近代政治哲学の諸問題』幻冬舎新書 2013年

 議会制民主主義には欠陥がある。という批判は、しばしば、「議会が民意から乖離している」といった仕方でなされる。この批判は正しく、繰り返しなされるべきである。しかし、この批判の前提に盲点があるのではないか。すなわち、立法権こそが統治にかかわるすべてを決定する最終的な権力、すなわち主権だ、という考え方である。国会が立法という形ですべてを決定し、各省庁の官僚たちが粛粛とそれを執行する…。市町村都道府県の議会が条例制定・予算案承認という形ですべてを決定し、市町村役場都道府県庁の職員たちが粛粛とそれを執行する…。しかし、実際には統治にかかわるほとんどのことを行政が決めている。私たちは、行政の決定に関われない。私たちに許されているのは、立法権にごくたまに、部分的に関わるだけのことだ。民衆が決定過程に関われないのに、この政治体制は「民主主義」と呼ばれている。なぜか。立法府こそが統治に関わるすべてを決定する機関であり、行政はそこで決定されたことを粛粛と実行する執行機関に過ぎないという建前があるからだ。
 哲学者である著者は、東京都小平市で起こった都道の建設に関する住民運動に関わり、住民が行政の決定過程に全く関われなかったことをつぶさに経験したことから、現在の民主主義の欠陥を具体的に検証していく。行政側(市長は市民運動出身者なのに、それでも…)の住民運動への抵抗、拒否反応はすさまじい。後出しじゃんけんのようで行政のやり方はひどいっ!と一読者として思うが、國分の語り口は糾弾調にはならない。そんな語り口では当の住民たちにもウケないとわかっている。そして、欠陥の指摘に終わらず、挫折に終わるも、非常に賢明に住民たちの意識を喚起していった運動の展開をも、細々と紹介する。研究室に閉じこもって難解な哲学理論を考えていたであろう(違うかもしれないが)國分が、運動の旗振り役たちの工夫やバランス感覚に素直に感動し、自らもコミットしていく姿には、初々しさすら感じる。國分らの住民運動の楽しさ。わくわく感に、こちらも励まされる。
 そう、欠陥があると嘆き、あるいは糾弾するのでは、運動は盛り上がらない。國分は運動にコミットしたいろいろな人たちの言葉から大切なことをピックアップする。たとえば、選挙期間中に「投票率50%の成立要件を付す」と一言も言わず後出しじゃんけんのように住民投票に高いハードルをもうけた小平市長へのリコール運動をなぜしないのか?と言ってくるひともいた。確かに腹立たしい。しかし、村上稔『希望を捨てない市民政治』を参照して、運動に大切なことの第一は「論理的であること」「そして「ビジョンを持つこと」だという。スジを通すことと論理的であることは違う。スジを通すことばかりに熱心になってしまうと、運動はだんだんと手詰まり状態になってしまう。そして、市長がどうなるかなんてどうでもいい。雑木林を守りたい、それがビジョンを持つことだ。最終的にはどうしたいのか忘れないこと。論理的であるためには理論武装が必要である(理論武装とは…といった解説まで付されており、平易さをここまで徹底するのかと感嘆)。なお、村上は第2点として、「マスコミとうまくつきあっていくこと」、第3点として、「楽しさ」を掲げる。どれも重要だ。そして、村上らの運動の1990年代末から大きく変化した現代においては、ツイッターやブログなどインターネットがとてつもなく力になると、國分は付け加える。
 議会そのものの改善も大切だが、役所など様々な機関で決定が下されていることを直視すれば、民衆が政治に関わるための制度も多元的にすればいい。政治機構の全体を新しく作り直すのではなく、そこに強化パーツを足していけばいい。住民の直接請求による住民投票(実りのあるものにするには工夫が必要、その具体的な提案もある)、審議会などの諮問機関の改革、ファシリテーター付き、住民・行政共同参加ワークショップ、住民と行政の間で対話と議論の場を設けた上でのパブリックコメント、などなど。
 第5章は、デリダが民主主義を考えるにあたって主張した「来るべき民主主義」という考え方を手がかりに、希望と励ましを与えてくれる。民主主義は必ず何らかの「失敗」を伴う。その理念と現実の間には必ず「懸隔」がある。この失敗や懸隔を完全に取り除こうとすると、たとえば革命で民主主義を実現しようとすると、それは民主主義を破壊することになる。民主主義は常に来るべきものにとどまる。他方で、民主主義は来らしめなければならない。「どうせ無理だ」という諦念に陥ってはならない。民主主義を捨てるということは、誰か他の人間に全ての決定を委ね、決めてもらい、文句を言わないということである。現在、「民主主義」と呼ばれる政治体制でも、「そこをどけ」と言われたらどかねばならず、「それをよこせ」と言われたら渡さなければならない、そうした事態がときに平然と行われている。すなわち、民主主義という名に値する民主主義はいまだ存在していない。民主主義は来るべきものにとどまっている。だから民主主義が目指されねばならない。「来るべき民主主義」とは実現を求める命令なのだ。
 デリダといえば、ドゥルーズと並び、私が大学時代、その名を口にすれば「難解なものもわかっているインテリ」風を装えたが(私はどうせわからないと諦めて読まなかったので装えなかったが)、なんだ!とても常識的で身近な発想に基づく考えも披露していたのか。読まず嫌いで損をした気持ちだ(とはいえ、國分の簡単な紹介で満足してしまう)。強化パーツを足して補強しても、「民主主義」が実現されるわけではないが、より「民主的」にはなっていく。常に来るべきものにとどまる民主主義、その実現を私たちは目指さなければならない。(良)
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