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師岡康子著『ヘイト・スピーチとは何か』岩波新書 2013年

 「朝鮮人は××!」「従軍慰安婦は××!」聞くに耐えないことばをがなり立てながら進行する集団に遭遇したことがある。心が鉛のように重くなり、血の気がひき、足がすくんだ。この社会でマジョリティの立場にある私さえそんな恐怖を感じる。攻撃される当のマイノリティに属する人にとってはどうなのだろう…。しかし、差別と侮辱、排除の言動も、「表現の自由」として規制すべきでないのだろうか。
 表現の自由は、日本国憲法の保障する様々な自由の中で最も重要な権利として位置づけられている。政府のみならず、憲法研究者の多数派が、ヘイトスピーチに関する法規制に対して慎重論であるのは、この表現の自由の重要性を強調するからだ。師岡も、当然、世界共通の認識でもある、表現の自由の自己実現と自己統治の意義を重視する。その上で、慎重論の理由ひとつひとつを検討し、反論していく。
 そもそも、自己実現からも自己統治からも、ヘイトスピーチは正当化されない。規制による萎縮効果については、脅迫、名誉毀損、侮辱などについては萎縮効果の危険性も承知の上で刑事規制されているが、これは、法益侵害の観点から規制が必要だからである。ヘイトスピーチも同様に深刻な法益侵害があるのだから、萎縮効果を最小限にする工夫をしつつ、規制する方策がとられるべきである。現に、各国の規制や国際人権基準においても様々な明確化の努力がなされてきた。
 次に、ヘイトスピーチは良質の議論によって駆逐されるという主張は、ナチズムがヘイトスピーチを行い、反対勢力を駆逐して権力をとった歴史に照らし、説得力はない。そもそも不平等な社会において、思想の自由市場が存在しうるのか。この原理的な問題はおいても、マイノリティの場合、数も少なく、差別により社会的に不利な立場におかれて、発言する機会も少なく、力も抑えられている。対等な人間とはみなされず、存在自体認めないヘイトスピーチに、深く傷つき、心身も蝕まれる。その苦痛を乗り越えて、議論に参加することは、容易ではない。対抗言論を主張するマジョリティは、マイノリティの苦痛を認識出来ているとは言い難い。
 そして、法規制より教育・啓蒙だという考えについては、法規制と教育・啓蒙は矛盾しないとする。
 などなど、「憲法の偉い先生が規制に慎重論なのだから、規制は難しいのだろう」と私は思考停止状態だった―と、目がさめる思い。このような思考停止状態は、結果として、マイノリティの差別放置に加担することになる。
 日本政府も、傍観者的態度を取り続けてきた。人種差別撤廃条約他国際人権条約に批准したという法的立場からしても、 歴史的立場からしても、差別をなくす責任があるというのに(政府がどのように言い逃れをし、国際社会から呆れられてきたかは、第2章に詳しい)。しかし、諸国は、差別に向き合い、法的規制に果敢に取り組んできた(イギリス、ドイツ、カナダ、オーストラリアを取り上げた第3章参照)。いずれも日本での法制度設計に参考になる。
 日本社会が問われているのは、法規制か表現の自由かの選択ではなく、マイノリティに対する差別を今のまま合法として是認しその苦しみを放置し続けるのか、それともこれまでの差別を反省し、差別のない社会をつくるのか、ということではないか。あとがきに記されたこの問いかけを、この社会は真摯に受け止めねばならない。新書ながら、重厚な一冊。多くの人に読んでほしい本である。(良)
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