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上岡陽江・大嶋栄子『その後の不自由 「嵐」のあとを生きるひとたち(シリーズ ケアをひらく)』医学書院 2010年

 弁護士として、薬物依存症の女性たちに会ってきた。被告人となった女性たちが涙ながらに「反省した、もうしない」と法廷で言っても、白けきった裁判官と検察官。「あなた、反省した、もうしないって、前の裁判でも言ったよね。でもすぐ使ったんだよね。」と検察官が畳みかける。意地悪だなあと思うが、返す刀がない。最後の頼みの綱とダルク(覚せい剤その他の薬物から解放されるためのプログラムを持つ民間のリハビリ施設)に連絡してみる。しかし、被告人がダルクへ通うことを決意しても、裁判所に実刑を課されてしまい、その決意を活かせたのかどうか、そこまでフォローできていない。服役後、ダルクへ向かい、ゆっくり社会復帰していったひともいる。そのときにどんな不自由があったのか、私は知らなった。一回目の薬物犯罪で執行猶予になったのに、なぜチャンスをふいにしてしまうのか。裁判官や検察官も、そして私を含め弁護士も、頑張って司法試験に合格してきた、良くいえば健やかな「努力すればなんとかなる」教徒、悪く言えば鈍感な種族が多いのではなかろうか。ダルク女性ハウス代表の上岡さんと精神科ソーシャルワーカー等経験してきた大嶋さんによるこの本を、依存症を伴うトラウマ体験サバイバーなど当事者や支援者を対象にしているが、辛抱強く関わる支援者ほど長きに渡っては関わらない私たち法曹も、「その後の不自由」の苛酷さを知るために、読むべきである。
 依存症の女性たちを理解し、その回復を助ける繊細なヒントが多数盛り込まれている。たとえば、依存症の女性は、自己中心の極みのように思われているが、違う。真ん中に「自分」じゃなくて「他人」がいる人たちなのだ、回復とは、他人を優先していたことが「自分を真ん中にして考える」ことへ変わっていくことなのだという(18頁〜)。
 親がアルコール依存症だったり暴力をふるったりしていたため、家族のなかに緊張感があった。「応援団」がいないまま成長すると、人との関係を形成するのが難しくなる。人との距離を適切に取れず、薬を使う仲間に親切にしているうちに自分も薬を止められなくなる。とても寂しいので、「ニコイチ」の関係、相手と自分がぴったり重なって一個の関係を望む。「ニコイチとDVは表裏一体」(33頁)など、DV被害者事件を専門とする私としては、膝を打つ。
 ではどう手当をすればいいのか。まず、身体の手当が第一。依存症のひとがリストカットやオーバードースを何度もする。「勝手にしなさい」と投げ出してもダメ。試すような行動をしている相手に「死ぬな!」と言ってやめさせようとするのも、ヒモの両端を引っ張り合うようなもの。淡々と水枕をつくってくれる。おかゆを出してくれる。きれいに切った手首を配合してくれる。実は依存症のひとたちは、身体の手当をされたことが一度もない人が多い(40頁)。精神病の既往があると、援助者はすぐ訴えを精神症状と結び付けてしまう。確かに薬を処方してもらうことがいいこともあるが、意外に部屋を暖かくしたり、痛む箇所の下に柔らかいものをあてるなどしながら、過不足なく声をかけることだけでしのげることも多い(184頁)。緊張感のある家庭の中で、のどが渇いた、おしっこしたいといった生理的欲求の表現もできなかった人もいる。自助グループでは、生理的な欲求を取り戻すよう注意しているという(94頁)。
 そして、ニコイチの関係に陥ることもなく、逆に距離を置くのでもなく、親切にしつつ巻き込まれないようにするには、支援者はチームでつき合うこと(41頁)。「ちょっと寂しい」関係こそ、長続きする人間関係だと体得してもらうことが、大切である(46頁)。
 依存症のひとたちは不安だから、変化したくない。この一瞬や人間関係が永遠に続いてほしいと考えている。薬物を使うと時が止まったようになるから、まさにそれを求めて薬物を使う。しかし、まわりは変化する。自分も変化する。変化すること安定なのだと受け入れられるかも、回復のメルクマールである(62頁)。
 様々な回復へのヒントはまだまだ豊富に盛り込まれている。自殺未遂を繰り返している人は、疲れたら寝るということさえ難しい。「死にたい」という大問題に発展させる前に、「雨続きで洗濯物が乾かない」「せっかく片づけたのにまた散らかす」「がんばってるね、って言ってほしい」といった小さな不満や不安を口にしてみる。グチをきっかけに、仲間と出会ったり、人間関係をつくることもできる。そういうことを言える相手がいるという豊かさを感じてほしい(111頁)。
 裁判での問題点にも言及がある。「彼女の覚せい剤使用は、セックスの快感を得るための短絡的行為である」というストーリーが披露され、量刑上斟酌される。確かにそんなストーリーは女性の薬物事件では聞き飽きている。しかし、著者らは、セックスが快感であるというよりも、「相手から一瞬でも必要とされる存在である自分を確認する行為」であることが、彼女たちとつきあう中でわかってきた、という。それも、度重なる被害体験のなかであがってきた「自己肯定感の低さ」が背景にある、と(211頁)。裁判における単純化、矮小化には私たち法曹は注意しなくてはいけない。
 回復は、何もかも問題なし、ということではない。「受け入れられていない」という感覚に時折襲われても、そんなにめちゃくちゃな行動をとらずに人との関係性を壊さないでいられて、そこそこ続けていられる、消毒しまくるなどの多少の強迫行為があっても構わない、くそったれの人生でもとにかく生き抜けと言いたい(70〜71頁)、というのも、胸にしみいる救いの言葉だ。そして援助者に対しても、「微妙なサインにも気づけるよう能力を上げましょう」という方向を目指すのではなく、一定の繊細さは必要だが、「わかんないよ」、テレパシーでは察知できない、ということでいいのだと、とても大切な助言をくれる(244頁)。繊細にならねばならねばと気負って繊細さを強みにしてもいけない。
 薬物依存症の当事者や支援者、そして法曹だけでなく、人間関係や生きることをしんどいと考えている人にも、この本をお勧めしたい。生きるしんどさをそこそこサバイバルするためのとても具体的なヒントがわかりやすい言葉でたくさん書かれているからだ。(良)
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