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森まゆみ『森のなかのスタジアム 新国立競技場暴走を考える』みすず書房 2015年

 月刊みすずで連載中も読み、莫大な税金を投入する国立競技場の建替え問題の深刻さ(手続のいい加減さ、民主主義の形骸化、環境破壊、利権…)に唖然としながらも、「一度決まったものの見直しなど無理だろう」と予め諦めてしまっていた。ところが、周知のとおり、安倍首相は、2015年7月17日、ザハ・ハディド案の白紙撤回を表明した。前日の同月16日の安保関連法案の衆議院通過に世論の反対が強まっていた状況での政治的パフォーマンスの要素も多分にあろう。そして、森まゆみさんら「神宮外苑と国立競技場を未来へ手渡す会」(以下、「手渡す会」)が要望していた国立競技場の改修はかなわず、既に解体されてしまった。しかし、手渡す会の地道で献身的な努力がなければ、マスコミも世論もこの事業のあまりのひどさに気づくこともなかったし、ハディド案の白紙撤回など見込めなかっただろう。民主主義といっても、市民は負け慣れている。慣れ過ぎて、初めから運動にも力が入らない。しかし、負けを予想しながらも、やれるだけのことはやる。諦めずに続ければ、実際に「到底実現しない」と思われることでも実現するかもしれない、と「手渡す会」の運動の経過が丹念にまとめられた本著には震えるほど感動した。
 語り口は淡々としている。それでも十分、毎月1回の連載に書き直しを加えた本著から、刻々と急変する事態の展開とそれに何とかアップデートしていく手渡す会の努力が浮かび上がり、手に汗握る。手渡す会の共同代表は女性11人。「みな手も口も頭もよく動くので、仕事はどんどん進んだ」。それでも、仕事、介護、子どもを抱えている。途中、森さんは子宮頸がんで入院治療も受けた。「お互いの状況をおもんばかりながら、各自できることをする、それでかまわないということにした。」さっぱりした文章だが、大切なことが濃密に詰まっている。運動がが解したり減速したりするのは、主義主張のぶつかりあいというよりも、ちょっとした配慮が欠けて信頼関係が崩れていることに起因することが案外多いのではないだろうか。共同代表各人のきびきびした仕事ぶり(随所にさしはさまれる)やお互いへの気遣い、信頼関係が、手渡す会の力の大きなベースになったはずだ。様々な建物の保存活動に関わってきた方や、建築士など、それぞれの経験から、共同代表の女性たちは信頼関係を維持するコツを習得したのだろう。心強い。
 官僚らに比べて資金も人員も及ばないのに、目をみはる活動ぶりだ。賛同者を募り、様々な専門家に意見を聴き、勉強し、話し合い、質問書や要望書をまとめ、役所やJSCを回り、政治家にロビーし、シンポジウムを開き、web上や紙ベースでの署名を集め…。一文でさらりと書けてしまうが、弁護士会等で細々とシンポジウムを開いたりするだけでも、本業のかたわら、事務が押し寄せてパンクしそうになるのを実感している私としては、感嘆する。相当できる女たちだ。そしてできるだけでなく信頼される女たちだからこそ、賛同者もここまで集まったのだろう(この点も大いに学ぶところだ)。
 女、男で分けるのは、こじつけかもしれない。建築家等、手渡す会に協力してくれた男性もたくさんいる。しかし、ある種の「社会的立場」になってしまった男性は、利権というほどのことがなくても、しがらみにとらわれるなどして、批判的に物事をとらえることができなくなってしまうようでもある。長く親しかった全共闘世代の東京大学名誉教授(新国立デザイン・コンクール審査委員)や早稲田大学教授の建築家と会って話をした森さんには、「お二人とも、20年前とは社会的立場が違っている。そしてお二人とも、残念ながら立場にとらわれているようにみえた」。官僚主義的組織の一コマとして、無責任に「決められたこと」をするだけ、というひともいる。一コマでも何でもない森さんは、淡々と役職や人名をあげて、その人がどんな発言をしたかも記録し、感情的に罵るのではなく、手短な批判を加えていく。親しかった人の変節を書き留めることに臆せず、記録する。様々な保存活動をしながら、その過程を記録してこなかった、今度は記録したい、という森さん。がんも経験されて、疾走するだけではなく、記録して残すことの意義を見い出していることがひしひしとわかる。貴重な知見に学ぶべきところがたくさんある。
 官僚の世界では、「新国立を作ることは既に決着済み。JSCの資料は、財務当局に提出するために作ったつじつま合わせ。予算要求に必要な行政手法にすぎない。これをいくら検証しても、水掛け論」とも指摘されたという。縦割り行政というように、財務省も環境省もどこも、われ関せず。そんなばかな。でもそれが官僚の世界で市民は受け入れるしかないのか。既に決着済み…と言われても諦めない女たちの柔軟さは素敵だ。
 運動を批判する建築家のエッセイその他、ザハ案推進側の言説も取り上げ、どのように運動が「センチメンタルな表現」のもと、「わかりやすくおとしめられ」「アナクロに脅される」かといったことも指摘する。こんなに献身的な運動に対して、「プロ市民」といった貶められ方もするが、うかつにも初めて聞いた、なるほど長年運動をしている私はそうかもしれない、と森さんは淡々としている。クールな受け止め方もまた、選択的夫婦別姓を求める運動をしている私がちらちら目にする反対論を分析する視座を与えられたような気がする。「対案を出せ」というのも政策を批判する側によく投げかけられる文句だが、手渡す会は全然ひるまない。「役所から給料をもらっていたりJSCから設計料をもらって仕事に専念している人たちと、同じ量の情報や知見を集められるわけがない。それでも官僚や専門家と知恵比べしをしやりとりをしなければならない」。対案を出す責任などないのだ。
 運動のただなかにいながら、森さんの筆致は、熱くなく、驚くほどフェアでもある。官僚の中にも見識を示す人もいたことなども記録される(「森さんのご主張はきわめてもっとも。しかし、もうすでに物理的に時間切れとなっているように思われる。そんな弱気は小生のような過去官僚の意識のなせるわざかもしれません。森さんらしいやり方でこれからも活躍されること、心からお祈りしています」)。様々な研究者と会い、勉強会に参加することは時間を消費することでもあるが、出会いと学びを純粋に楽しんでもいる。このように楽しめれば、運動はどんなに強いことか。
 地道な勉強と献身的な働きかけ、それまでの人脈づくり(利用しようと思っての人脈でなく、もともとの信頼関係があればなんと強いことか)がベースとなって、当初は冷ややかだったマスコミもどんどん取り上げるようになる。一時期は、解体がストップできるのではないか、と冷静な手渡す会の人々も希望を抱いたようだ。与党では河野太郎議員が、野党では蓮舫議員・有田芳生議員、田村智子議員他が、手渡す会の話を聴く。残念ながら、森喜朗組織委員会委員長や舛添都知事など、本丸とはつながらなかったようだ(どういう人脈があればそこまでたどりつくのだろう…素朴な疑問)。
 森さんは、特定秘密保護法、集団的自衛権など、戦争に向かうような感じに心が重くなってもいく。心だけでなく体に重さをも感じ、検査を受けたところ、子宮頸がんと判明する。「死を実感できた分、何といわれてももうこわくないと思った」。生に限りがある以上、何を臆することがあるのだろうか。肝に銘じよう。
 白紙撤回となっても、「私たちは力及ばずして前国立競技場の解体を許した」。しかし、「神宮外苑の空と緑を未来へ手わたす」という旗はあげ続ける、という。計画者側が一切耳を貸さない。「私たちは皆元気で、仲良く、運動を始める以前より知見も能力も高まったと感じている。そして運動を通じたたくさんの新しい友人を得た」という「あとがきに代えて」にも涙し、励まされる。「日本の民主主義は聞かない民主主義」と悟りながらも諦めない女たちのように、元気で仲良く運動をし続ければ、未来は拓ける、そう実感する。(良)
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