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吉田千亜著『ルポ母子避難 消されゆく原発事故被害者』岩波新書 2016年

 「自主避難」。「自分で勝手に選択をした」かのような印象を与える言葉だ。著者は、避難指示区域以外から避難した母子も決して「自主的に」避難したわけではないことを知っている。本著は、既に広まっている言葉だから便宜的に「自主避難」という言葉を用いるものの、彼女たちが望んだわけではなく、放射線による影響を受けやすい子どもを守るため、やむなく避難し、生活の激変から様々な苦難を経験してきたことを丹念に取材し、伝えてくれる。そしてまた、国や福島県などの施策や東京電力の対応にどのような問題があり、何が望まれるかも浮かび上がらせる。
 「自主避難」という言葉の弊害は実に大きい。避難指示がない避難は「自主的」なもので「自己責任」である、という意識は、避難者自身にもある。そうすると、たとえば、借上住宅を住み替えたくても、行政に申し出ることを躊躇してしまう。「自主的に」避難したことから、安全も心許ない住宅でも借り換えを申し出ることすらしない。事故直後の慌ただしい状況で借上住宅をゆっくり選ぶ余裕はなかった人は多い。不都合が判明しても、「自己責任」と自ら縛ってしまう。あるいは、申請しようとしても、判断者が福島県なのか避難先の自治体かあるいは雇用促進住宅やUR住宅の場合には厚労省や国土交通省の外郭団体のいずれが関わるのか、途方に暮れる場合もある。「他の人も我慢している」という悪しき平等原則で抑制されてしまう。
 「自主避難」という言葉は避難者を分断し,孤立させる。避難生活の開始当初は、避難先で避難指示を受けた人々も自主避難者も不安を共有し、共同生活を送った。しかし、避難生活が長引き、いらだちが募ってくると、自主避難者の子どもたちが声をあげて遊ぶ様子に露骨に嫌な顔をされるようになり、中には「うるせぇ!帰る場所のあるやつは帰れ!」と罵られたりもする。避難者以外の人からは、「いいわね、避難者は東電からお金をもらえて」と邪推されもする(人はなぜそこまで残酷なのか…)。このような扱いを受け、子どものために避難した女性が援助を求めることなく自分で解決しなければならないと自分を追い詰めるようになってしまう。
 危険への認識が異なると、それまで親密だった関係も分断される。子どもを守るために避難は当然であり、夫も同様に理解してくれている、と思っていたが、夫は福島に帰り、果ては「そっちの生活はそっちでなんとかしてくれ」と思ってもみなかった「兵糧攻め」をされてしまう。気持ちが離れ、別々に暮らしているうちに、夫が他の女性と関係を持ってしまったケースもある。ねぎらってくれる夫の両親のどちらかがひそかに母子避難について取材を受けた新聞記事の自分の写真に赤いペンで×をつけ、「ふざけるな」と書きつけているのを見て、血の気が引く…。
 孤立する中でお酒を飲むほかなくなった女性。チェルノブイリ原発事故の避難者もお酒に溺れる人が少なくなかったと聴いたことがある。自分の生活が根こそぎ失われた人が孤立したままでは、お酒に頼らざるを得ないことになる。それは、適切な援助の手を用意していなかった社会に問題がある。それなのに、「ダメ人間」と自他ともに烙印を押す…。
 知人の渡辺淑彦弁護士も登場する。彼は、「自主ではありません。怖くて逃げたんです」と明言できる。3月12日に一号機が爆発したとき、子どもたちにかっぱを着せ、ぬれマスクを二重にさせ、避難した、それが「自主」なわけはない。いつ避難したら、「自主」なのか。大まじめに原賠審で2011年4月前半だ、半ばだ、との議論があった。しかし、考えた末に避難せざるを得なかったその決断を、2011年4月半ばで区切る意味などあるだろうか。
 「正しく恐れる」という言葉の欺瞞。年間20ミリシーベルト以下の地域は避難する必要がない、と決められたら、「科学的根拠」の立証責任は「自主」避難者に課されてしまう。不安は、合理的に解明できないからこそ感じるのだ。子どもたちが長期間低線量被曝にさらされたときどのような影響があるのか、結論が出ていないのに不安を「正しくない」ということはできない。
 政策をとりまとめるはずの省庁間では、「押し付け合い」が行われている。厚労省は「復興庁で検討すべき」、復興庁は「東電が賠償を」、東電の監督官庁である経産省は「東電の賠償で自主避難者の家賃負担を支払うことは困難」、福島県は「国の枠組みで」。市町村は「県で」…。たらい回しである。
 原発ADRの利用は地域によって差があった。地元の弁護士会の姿勢に違いがあったことがうかがえる。ADRに弁護士会が積極的に取り組んでいた新潟県。そうではない地域…。しかし、熱心ではなかった埼玉弁護士会の小林玲子弁護士(尊敬する弁護士です!)がシャカリキに動き出し、事態が変わったことを知り、涙した。
 泣きながら読んだ。登場する人はだれもが自分に重なる。郡山市内の小学校の通学路の放射線量を測定してもらう。「この100メートルだけでも、私が毎日おんぶして通わせたい」という母は、私だ。逃げることに「余裕」があるかのように思え、後ろめたい気持ちがするのも、私だ。考えないようにしたい、不安を口にされると心がざらつくのも、私だ。考えないようにするのが解決になるはずがない。子どもを守りたいという気持ちすら吐露できないなんておかしい。
 賠償もない中、かつての生活基盤や人間関係を根こそぎ奪われている人たちをそのままにしていいのか。東京オリンピック開催のため目がくらむような予算が投じられる見込みの中、国は自主避難者の住宅支援を打ち切る、そんなことでいいのか。横浜市内で「自主避難」の子どもに「賠償金あるだろ」と言ういじめがあったこと、新潟市内で「自主避難」の子どもが同級生から「菌」と呼ばれ担任もそのように呼んだことが最近報じられた。無理解、揶揄、誹謗、暴力。そんな社会でありたくない。そう思う多くの人が読むべき本である。(良)
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